今度の部屋

授業でできなかったことや出版物についてフォローします(できるだけ^^)

三笠の写真

2013-03-14 09:35:27 | 日記


 こんにちは。

 去年12月に三笠をみにいった時の写真です。
























 (三笠艦首につけられていた「菊のご紋」)

 
 ーーーーーー

 ただひたすら説明抜きで掲載しました。
 
 昨日は文部科学省にある教育図書館にいき、資料集めをしてきました。

 今日もきてくださってありがとうございました。


『坂の上の雲 八』(その6)

2013-03-13 08:22:41 | 日記


 こんにちは。

 今日は、『坂の上の雲 八』最終回です。

 ーーーーー

「雨の坂」270~306頁

・5月30日、三笠は佐世保に入港し、東郷はロジェストウェンスキーを見舞う。「はるばるロシアの遠いところから回航して来られましたのに、武運は閣下に利あらず、ご奮戦の甲斐なく、非常な傷を負われました。今日ここでお会い申すことについて心からご同情つかまつります。われら武人はもとより祖国のために生命を賭けますが、私怨などあるべきはずがありませぬ。ねがわくは十二分にご療養くだされ、一日もはやくご全癒くださることを祈ります。なにかご希望のことがございましたらご遠慮なく申し出られよ。できる限りのご便宜をはかります」

・クロパトキンと交代したロシア軍総司令官リネウィッチは反撃をあきらめていなかった。しかし、兵員や資材が不足し、シベリア鉄道でそれらを補充する時間が必要であった。日本はそれ以上に不足していた。

(・そうした中、母のお貞がなくなる)

・日本海海戦で日本が記録的勝利をあげたときになってはじめて、ロシア皇帝ははじめて戦争を継続する意志を失った。アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトはこのタイミングをのがさず、講和をロシアにはたらきかけた。会場はアメリカのポーツマス、結果として9月5日に講和条約が調印された。

・9月11日、三笠が佐世保港内で自爆(原因は明確になっていない)


・1905年12月、連合艦隊は解散する。以下は「連合艦隊解散之辞」である。

二十閲月ノ征戰已ニ往事ト過ギ、我ガ聯合艦隊ハ今ヤ其ノ隊務ヲ結了シテ茲ニ解散スル事トナレリ。
然レドモ我等海軍々人ノ責務ハ決シテ之ガ爲ニ輕減セルモノニアラズ。
此ノ戰役ノ收果ヲ永遠ニ全ウシ、尚益々國運ノ隆昌ヲ扶持センニハ、時ノ平戰ヲ問ハズ、先ヅ外衞ニ立ツベキ海軍ガ常ニ其ノ武力ヲ海洋ニ保全シ、一朝緩急応ズルノ覺悟アルヲ要ス。
而シテ武力ナル物ハ艦船兵器等ノミニアラズシテ、之ヲ活用スル無形ノ實力ニアリ、百發百中ノ一砲能ク百發一中ノ敵砲百門ニ對抗シ得ルヲ覺ラバ、我等軍人ハ主トシテ武力ヲ形而上ニ求メザルベカラズ。
近ク我ガ海軍ノ勝利ヲ得タル所以モ、至尊ノ靈徳ニ頼ル所多シト雖モ、抑亦平素ノ錬磨其ノ因ヲ成シ、果ヲ戰役ニ結ビタルモノニシテ、若シ既往ヲ以ツテ將來ヲ推ストキハ、征戰息ムト雖モ安ンジテ休憩ス可カラザルモノアルヲ覺ユ。
惟フニ武人ノ一生ハ連綿不斷ノ戰爭ニシテ、時ノ平戰ニ由リ其ノ責務ニ輕重アルノ理ナシ。
事有レバ武力ヲ發揮シ、事無ケレバ之ヲ修養シ、終始一貫其ノ本分ヲ盡サンノミ。
過去ノ一年有半彼ノ風濤ト戰ヒ、寒暑ニ抗シ、屡々頑敵ト對シテ生死ノ間ニ出入セシコト固ヨリ容易ノ業ナラザリシモ、觀ズレバ是レ亦長期ノ一大演習ニシテ之ニ參加シ幾多啓發スルヲ得タル武人ノ幸福比スルニ物無シ。
豈之ヲ征戰ノ勞苦トスルニ足ランヤ。
苟モ武人ニシテ治平ニ偸安センカ、兵備ノ外觀毅然タルモ宛モ沙上ノ樓閣ノ如ク、暴風一過忽チ崩倒スルニ至ラン。
洵ニ戒ムベキナリ。
昔者、神功皇后三韓ヲ征服シ給ヒシ以來、韓國ハ四百餘年間、我ガ統理ノ下ニアリシモ、一タビ海軍ノ廢頻スルヤ忽チ之ヲ失ヒ、叉近世ニ入リ、徳川幕府治平ニ狃レテ、兵備ヲ懈レバ、舉國米艦數隻ノ應對ニ苦シミ、露艦亦千島樺太ヲ覬覦スルモ、之ト抗爭スルコト能ハザルニ至レリ。
飜ツテ之ヲ西史ニ見ルニ、十九世紀ノ初メニ當リ、ナイル及ビトラファルガー等ニ勝チタル英國海軍ハ、祖國ヲ泰山ノ安キニ置キタルノミナラズ爾來後進相襲ツテ能ク其ノ武力ヲ保有シ世運ノ進歩ニ後レザリシカハ、今ニ至ル迄永ク其ノ國利ヲ擁護シ國權ヲ伸張スルヲ得タリ。
蓋シ此ノ如キ古今東西ノ殷鑑ハ爲政ノ然シカラシムルモノアリト雖モ主トシテ武人ガ治ニ居テ亂ヲ忘レザルト否イナトニ基ケル自然ノ結果タラザルハ無シ。
我等戰後ノ軍人ハ、深ク此等ノ實例ニ鑑ミ、既有ノ錬磨ニ加フルニ戰役ノ實驗ヲ以ツテ、更ニ將來ノ進歩ヲ圖リテ時勢ノ發展ニ後レザルヲ期セザル可カラズ。
若シ夫レ常ニ、聖諭ヲ奉體シテ、孜々奮勵シ實力ノ滿ヲ持シテ放ツベキ時節ヲ待タバ、庶幾バ以テ永遠ニ護國ノ大任ヲ全ウスル事ヲ得ン。
神明ハ唯平素ノ鍛錬ニ力メ戰ハヅシテ既ニ勝テル者ニ勝利ノ榮冠ヲ授クルト同時ニ、一勝ニ滿足シ治平ニ安ンズル者ヨリ直ニ之ヲ褫フ。
古人曰ク勝ツテ兜ノ緒ヲ締メヨト。

明治三十八年十二月二十一日     聯合艦隊司令長官 東郷平八郎


(東郷平八郎の直筆で、記念艦三笠のなかにある)

(http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3274887.htmlにわかりやすく書いたものがありましたのでそれを紹介します)

連合艦隊解散の訓示 二十ヶ月にわたった戦いも、すでに過去のこととなり、我が連合艦隊は今その任務を果たしてここに解散することになった。しかし艦隊は解散しても、そのために我が海軍軍人の務めや責任が軽減するということは決してない。

この戦争で収めた成果を永遠に生かし、さらに一層国運をさかんにするには平時戦時の別なく、まずもって、外の守りに対し重要な役目を持つ海軍が、常に万全の海上戦力を保持し、ひとたび事あるときは、ただちに、その危急に対応できる構えが必要である。

ところで、戦力というものは、ただ艦船兵器等有形のものや数だけで定まるものではなく、これを活用する能力すなわち無形の実力にも左右される。百発百中の砲一門は百発一中、いうなれば百発打っても一発しか当たらないような砲の百門と対抗することができるのであって、この理に気づくなら、われわれ軍人は無形の実力の充実すなわち訓練に主点を置かなければならない。

この度、我が海軍が勝利を得たのは、もちろん天皇陛下の霊徳によるとはいえ、一面また将兵の平素の練磨によるものであって、それがあのような戦果をもたらしたのである。もし過去の事例をもって、将来を推測するならば、たとえ戦いは終わったとはいえ、安閑としてはおれないような気がする。

考えるに、武人の一生は戦いの連続であって、その責任は平時であれ戦時であれ、その時々によって軽くなったり、重くなったりするものではない。ことが起これば戦力を発揮するし、事がないときは戦力の涵養につとめ、ひたすらにその本分を尽くすことにある。過去一年半、あの風波と戦い、寒暑に耐え、たびたび強敵と相対して生死の間をさまよったことなどは、容易な業ではなかったけれども、考えてみると、これもまた長期の一大演習であって、これに参加し多くの知識を啓発することができたのは、武人としてこの上もない幸せであったというべきであり、どうして戦争で苦労したなどといえようか。

もし武人が太平に安心して目の前の安楽を追うならば、兵備の外見がいかにりっぱであっても、それはあたかも砂上の楼閣のようなものでしかなく、ひとたび暴風にあえばたちまち崩壊してしまうであろう。まことに心すべきである。

むかし神功皇后が三韓を征服されて後、韓国は四百余年間我が国の支配下にあったけれども、ひとたび海軍が衰えるとたちまちこれを失い、また近世に至っては、徳川幕府が太平になり、兵備をおこたると、数隻の米艦の扱いにも国中が苦しみ、またロシアの軍艦が千島樺太をねらってもこれに立ち向かうことができなかった。目を転じて西洋史をみると、十九世紀の初期、ナイル及びトラファルガー等に勝った英国海軍は、祖国をゆるぎない安泰なものとしたばかりでなく、それ以降、後進が相次いでよくその武力を維持し世運の進歩におくれなかったから、今日に至るまで永く国益を守り、国威を伸張することができたのである。

考えるに、このような古今東西のいましめは、政治のあり方にもよるけれども、そもそもは武人が平和なときにあっても、戦いを忘れないで備えを固くしているかどうかにかかり、それが自然にこのような結果を生んだのである。

われ等戦後の軍人は深くこれらの実例を省察し、これまでの練磨のうえに戦時の体験を加え、さらに将来の進歩を図って時勢の発展におくれないように努めなければならない。そして常に聖論を奉体して、ひたすら奮励し、万全の実力を充実して、時節の到来を待つならば、おそらく永遠に護国の大任を全うすることができるであろう。神は平素ひたすら鍛練に努め、戦う前に既に戦勝を約束された者に勝利の栄冠を授けると同時に、一勝に満足し太平に安閑としている者からは、ただちにその栄冠を取り上げてしまうであろう。

昔のことわざにも教えている「勝って、兜の緒を締めよ」と。

明治三十八年十二月二十一日

連合艦隊司令長官 東郷平八郎

ーーーーーー
・真之ははやくに帰ることができたが、好古の凱旋は遅く、1906年2月9日だった。好古は陸軍大将で退役したあと、故郷松山に戻り、私立の無名の中学校の校長をつとめた。好古は終生、福沢諭吉が好きだった。子供たちも慶應義塾にいれた。

・秋山真之は10月25日、根岸に行った。子規の家をだずねようとしたのである。しかし、子規の家の前まで来たが、家には入らなかった。向きを変えて、田端の大竜寺に行った。大竜寺には子規の墓があった。

・真之の生涯は長くはなかった。1918年2月4日、満49歳で没した。真之が臨終の枕頭で最後に言った言葉は「みなさんいろいろお世話になりました。これから独りでゆきますから」だった。
   
・好古はやや長生きして、死ぬその年まで松山の中学の校長をした。やがて、陸軍軍医学校に入院し、初めて酒のない生活をした。糖尿病のため、左足を切断した。手術後の昏睡の中、しきりにうわごとを言い続けた。すべて日露戦争当時のことばかりであった。「奉天へ」とうめくように叫び、1930年11月4日、満71歳で病没した。

 ーーーーーーー
 これで完結です。

 次回は三笠にいったときの写真を掲載します。

 今日も来てくださってありがとうございました。

『坂の上の雲 八』(その5)

2013-03-12 07:02:08 | 日記


 こんにちは。

 『坂の上の雲 八』(その5)です。

 もう少しでおわります。

 ーーーーーーーーー
 
 「鬱陵島」211~229頁

・全艦隊は鬱陵島に集合、駆逐隊・艇隊は夜襲を行う。
・一方、駆逐艦ブイヌイにうつったロジェストウェンスキーは指揮権をネボガトフに委譲した。
・その後、ロジェストウェンスキーは駆逐艦ベドーウィにうつった。

・ベドーウィと随行の駆逐艦グローズヌイは日本の駆逐艦「漣(さざなみ)」と駆逐艦「陽炎」に発見・攻撃されたが、反撃せずに全速で逃亡を試みた。しかし、ベドーウィは機関が故障して停止、降伏した。「漣」は直ちに捕獲要員を送り込み、5月28日16時45分にベドーウィをロジェストヴェンスキー司令官とともに捕獲した。(グローズヌイは逃走に成功し、数少ないウラジオストック到着組の1つとなった。
・ベドーウィはこの海戦後、ロジェストウェンスキーと幕僚ごと佐世保に曳航された。

ーーーーーーー
「ネボガトフ」230~269頁

・ネボガトフが率いていた第三戦艦戦隊は古い艦船によって成り立っていた。ネボガトフはロジェストウェンスキーは死んだとおもっていた。日没頃、ネボガトフへの指揮権の委譲とウラジオストクへ向かう命令を知る。夜になって日本の駆逐艦による攻撃をうけるが、残存の5艦を率いうまくかわしのがれていた。

・5月28日朝:連合艦隊は夜間は鬱陵島に待機していたが、夜明けと共に索敵と攻撃のために日本海に展開開始する。
・連合艦隊はネボガトフの艦隊の位置をつかみ、急行する。日本側は27隻でほとんど無傷であることをみたネボガトフは戦意を失い、降伏を決意する。

・三笠は10000mにまで接近してきたので、ネボガトフは「われ降伏す」との信号旗や白旗をかかげた。
・しかし、10:30、敵との距離が8000mに達してから、連合艦隊は砲撃を開始した。
・ネボガトフは一発も応射しなかった。それにもかかわらず、東郷は砲弾を撃ち続け、敵艦は爆煙をあげている。(うち続けた理由は、戦時国際法では降伏するならば機関を停止しなければならなかったにもかかわらず、敵艦は進みつづけていたから)停止してから、東郷ははじめて射撃をやめた。
・軍使として、秋山真之が随行の山本信次諸大尉とともに、ネボガトフがいる旗艦ニコライ1世に行った。艦内にはロシア兵の遺体があり、秋山はその前でひざまづき黙祷した。
・秋山らはネボガトフと参謀長クロッスとむきあい、東郷の伝言を伝える。

・東郷は三笠でネボガトフと会見し、海戦の終結を祝してグラスをかかげた。

・29日夜、装甲巡洋艦ドンスコイの自沈をもって日本海海戦は幕をおろした。

【結果】(wikiより)
1905年(明治38年)5月27日~28日
日本海軍の完勝、ロシア艦隊のほぼ全滅

・大日本帝国(指揮官:東郷平八郎大将)
戦力:戦艦4隻・装甲巡洋艦8隻・巡洋艦15隻他全108隻
損害:水雷艇3隻沈没・戦死117名・戦傷583名

・ロシア帝国(指揮官:ロジェストヴェンスキー中将)
戦力:戦艦8隻・海防戦艦3隻・装甲巡洋艦3隻・巡洋艦6隻他全38隻
損害:21隻沈没・被拿捕6隻・戦死4,830名・捕虜6,106名

 ーーーーーーー
 次回は最終章です。
 今日も来てくださってありがとうございました。


『坂の上の雲 八』(その4)

2013-03-11 01:13:57 | 日記



 こんにちは。

 『坂の上の雲 八』(その4)です。

 「砲火指揮」149~160頁:以下のような砲弾発射の工夫などがあり日本がロシアより優勢にあったことが書かれる。

・日本海海戦は、敵味方の各艦の性能や、各兵員の能力や士気より、日本側の頭脳がロシア側を圧倒したと考えられる。
・第一に、海上での射撃はなかなかあたらないため、かなりの射撃訓練をした。

・第二に、射撃指揮法にある。ロシアの場合、一つの艦で各砲台がばらばらに発射していた。しかし日本の場合、「射距離は艦橋において掌握する」という考えにたっていた。

・第三に、敵との距離に応じて東郷が弾の種類を変えたことであった。遠距離のときには、炸裂して兵員を殺傷する砲弾(鍛鋼榴弾)を使い、距離が三千メートル以下になると、艦隊の装甲部を貫き大穴をあける砲弾(徹甲榴弾)を使った。2500m以内でなければ敵の装甲を貫けないと考えたからである。

・浪がたかいという現象も日本に有利であった。当時12インチ砲弾では戦艦を沈めることができないとされていた。軍艦の装甲は艦の水線付近に厚くほどこされている。水線より上は薄く、水線以下はまったく装甲されていない。ところが、この日本海海戦の日、浪が高くロシア艦隊が水線以下の無防備な部分をさらけだし、そこに日本の砲弾が集中し、沈まないはずのロシア戦艦を沈める結果となった。

・さらに、東郷は風上へ風上へと自分の艦隊をもっていってことで、照準をあわせやすくしたことも日本の砲弾の威力をかなりたかめた。

  ーーーーーーー
「死闘」161~210頁
・日本海海戦は2日間つづく。しかし秋山真之は終生、「最初の三十分間だった。それで大局がまった」と語った。
・東郷は「すべての砲火をもって敵の先頭に集中する」ということをかたく守ったが、ロシアには作戦に主題性がなかった。

・ロシアの第二戦艦戦隊の旗艦である「オスラービア」が、最も早く午後3時10分には沈んだ。

・ロジェストウェンスキーが乗る旗艦「スワロフ」が自由を失うのにも攻撃開始後30分はかからなかった。ロジェストウェンスキーは運良く軽傷ですんだが、無線機がこわれ命令が伝わりにくくなった。その後すぐに、司令塔に砲弾が命中しロジェストウェンスキーは脚を負傷し治療室に運ばれる。

・ 14:50:スワロフのみが突然、北へ回頭した。それはスワロフの舵が破損し、北へ向かうようにみえたのである。しかし、バルチック艦隊の2番艦、戦艦「アレクサンドル3世」の艦長ブフウオトフ大佐はただちにスワロフの舵の故障を見抜いてスワロフを追わず、結果として後続全てのロシア艦は「アレクサンドル3世」に続いて進路を南東方向に向かった。

・この動きにたいして、それまでは日本とロシアの艦隊は平行して戦っていたが、突然スワロフが北へ向きをかえたので、東郷平八郎、秋山真之、加藤友三郎たちは、ロシア艦隊がウラジオストクへ逃げるのではないかと疑い、向きをかえた。

・しかし、「スワロフはただ故障しただけである」と見抜いたのが、第二艦隊の旗艦「出雲」の参謀佐藤鉄太郎と司令長官の上村彦之丞であった。艦隊の多くがスワロフの動きに振り回されたが、出雲は東郷の命令には結果的には従わず、ロジェストウェンスキー艦隊を追跡した。
・もし、この時佐藤らにスワロフの動きが故障として見抜かれていなければ、ロシア艦隊の一部はウラジオストクまで逃げていたかも知れない。

・15:58:別れていた東郷(三笠)らと上村(出雲)が、逃げるロシア艦隊を運良く挟み撃ちにする。
・逃げるバルチック艦隊を逃がさないように巧みな操船と砲術によって、少しずつ沈めていった。

・17:30:ロジェストウェンスキーは駆逐艦「ブイヌイ」にうつり、数百の乗組員を残したまま「スワロフ」から離れていった。(スワロフはその後19時過ぎ、日本の魚雷により沈没)

・19:10:東郷は、主力艦への攻撃中止命令と鬱陵島への艦隊集結を命令し、主力艦による砲戦に代わり、21隻の駆逐艦と40艇の水雷艇に対し夜襲による攻撃命令が出された。この後、夜明けまで駆逐艦や水雷艇によってロシア艦隊への夜襲が行われることになる。

・【補足】『坂の上の雲 8』には「「七段構え」の第一段階がおわった」とあるが、厳密には第一段はおこなわれていないそうです。(wikiによる)

 (wikiによると)秋山真之参謀が立てたバルチック艦隊を全滅させるための周到な迎撃作戦計画。「天気晴朗なれども波高し」の電報で、大本営は、第一段が行われないことを理解した。実際には、第二段と第三段のみでバルチック艦隊を殲滅した。

第一段:主力決戦前夜、駆逐艦・水雷艇隊の全力で、敵主力部隊を奇襲雷撃
第二段:わが艦隊の全力をあげて、敵主力部隊を砲雷撃により決戦。丁字戦法を行う。
第三・四段:昼間決戦のあった夜、再び駆逐隊・水雷艇隊の全力で、敵艦隊を奇襲雷撃。高速近距離射法を行う
第五・六段:夜明け後、わが艦隊の主力を中心とする兵力で、徹底的に追撃し、砲雷撃により撃滅
第七段:第六段までに残った敵艦を、事前に敷設したウラジオストック港の機雷原に追い込んで撃滅


・秋山真之は、この戦争が終わったら軍人をやめようと思っていた。戦闘後、艦内を見回ったとき負傷者を見過ぎたり、オスラービアが沈むのをみて、かなりの衝撃を受けたのである。実際戦後に真之は僧侶になろうとしたが、友人にとめられた。しかし、長男を僧になるよう遺言した。

 ーーーーーー

 今日も来てくださってありがとうございました。

『坂の上の雲 八』(その3)

2013-03-10 08:48:42 | 日記


 こんにちは。

 『坂の上の雲 八』(その3)です。

 「運命の海」83~148頁


【日本】 
・旗艦三笠の艦長伊地知彦次郎大佐は、当時海軍でもっとも優秀な船乗りと言われてた。伊地知はこの戦場への航行中に総員に対して別れのあいさつをし、祖国の永遠のために万歳をとなえた。
・「沖ノ島の西方」が東郷の司令部が出した会敵地点であった。しかし、予定よりもはやく戦場付近に到達してしまった(27日正午頃)。この正午過ぎ、片岡七郎が率いる第三艦隊から「敵は壱岐国」と入電があり、さらに「敵は二列縦陣でやってくる」ということも知った。
【ロシア】
・ロジェストウェンスキーは、単縦陣にするために第一艦隊がスピードをあげ、第二艦隊と第三艦隊に減速するように命じたが、縦一列にはならなかった。
【日本】
・13:15:第一艦隊の第3戦隊旗艦笠置をはじめ、バルチック艦隊に同航して敵所在を通報していた第三艦隊各艦が列をなして第1・第2艦隊に合流しはじめた。
・13:39:三笠がバルチック艦隊を視認。航海長布目満造中佐は海図で敵の位置をはかり、砲術長の安保清種少佐は秒時計をにぎっていた。参謀長の加藤友三郎は望遠鏡を目に当てたままほとんど微動だにせず、東郷は幕僚達よりも半歩ばかり前に出て立っていた。秋山はすこし後方に立ちノートに記録していた。
・13:45:バルチック艦隊の全容を視認(日露の距離1万2000m)であったが、東郷は「戦闘は7000メートル以内にはいらなければ砲火の効果はない」という考えであったので砲撃は開始しなかった。
・東郷はこのとき「へんなかたちだね」と言ったという(二列縦陣でもなく、ダンゴのようだったから)。ロジェストウェンスキーも海戦では単縦陣でなければ砲火の効果を十分にあげられないことを知っていた。しかし、日本の第3戦隊の巡洋艦たちによって陣形を乱され立て直すことができないまま、戦闘に入ろうとしていたのが実態であった。

【ロシア】
・13:20:すでに兵たちは昼食を済ませ一休みしていた(昼寝・お茶)。
・13:39:バルチック艦隊も日本艦隊を、遂に視認する。

【日本】
・13:55:秋山が東郷に「先刻の信号、整へり。直ちに掲揚すべきか」ときく。各艦とも信号書をもっている。その信号書に、この出動の数日前、四色のZ旗が掲げられた場合の信号文が、鉛筆文字で書き込まれていた。秋山が許可を乞うと、東郷はうなずいた。秋山がすぐに信号長へ合図した。四色の旗が舞い上がった。

 「皇国の興廃、此の一戦に在り。各員一層奮励努力せよ」

 各艦とも、この信号文が肉声にかわり、各部署の伝達管を通じて全員の耳につたわった。
・秋山は東郷に「司令塔(14インチの装甲)の中に入ってください」とたのんだが、東郷は動かなかった。「自分は齢をとっているから、老い先から考えてどこでどうなってもしれている。だからここ(艦橋)にいる。みなは塔の中に入れ」といった。
・加藤参謀長は「秋山とおれとが、おそばに残る」といい、砲術長や、測距儀を操作する長谷川清少尉などが残った。
・これまで各砲ごとに独立してばらばらに発砲していたが、日本海軍はこの方法で黄海海戦で失敗したことから、艦橋にいる砲術長が指示を出し一斉に発砲する方法に切り替えられていた。したがって安保砲術長の責任が大きく、自艦や敵艦の速力や方向、風向き、風力などを瞬時に計算し各砲に号令しなければならない。
・しかし、東郷はどういう陣形で戦うのかをなかなか明示しなかった。測距儀を操作する長谷川清少尉が「距離8500メートル」と言ったとき、安保砲術長は「もう8500メートルです」と叫んでしまう。それに対して、加藤は「砲術長、君がひとつスワロフを測ってくれるか」といった。のぞいてみると、もはや8000メートルになっていた。安保砲術長は「どちらで戦さをなさるのですか」と問う。左舷か右舷か決めてもらわなければ、発砲の準備ができないからである。
・14:05:そのとき、東郷の右手が高く上がり、左へむかって半円を描くようにして一転した。加藤は「艦長。取り舵一杯」と叫んだ。
・艦長の伊地知は驚いた。敵の射程内に入っているにもかかわらず、敵に大きな横腹をみせてゆうゆうと左転するということに疑問をもったからである。「取り舵になさるのですか」と頭上の艦橋へどなりあげると、加藤は、「左様取り舵だ」と繰り返した。これにより有名な敵前回頭がはじまる。
・「丁字戦法」を東郷はとった。三笠以下の各艦がつぎつぎに回頭しているあいだ、味方にとっては射撃が不可能にちかく、敵にとっては極端にいえば静止目標を射つほどにたやすい。たとえ全艦が15ノットの速力で運動していても、全艦隊がこの運動を完了するのは15分はかかるのである。この15分間で敵は無数の砲弾を東郷の艦隊へ送り込むことができるはずだった。
・東郷がこの作戦を採用した理由は、風向きが敵に不利であること、敵は元来遠距離射撃に長じていないこと、波がたかいためただでさえ遠距離射撃に長じていない敵にとって高い命中率を得ることは困難であること、などである。

・14:08:(距離7000m)回頭する三笠をみたロジェストウェンスキーはすぐさま射撃を命じ、主力艦が砲撃を開始する。三笠は応射せず陣形運動をつづけ、ロシアからの敵弾をうける。それでも東郷は双眼鏡をかざしたまま艦橋に立ちつづけた。
・14:10:(距離6400m)連合艦隊の第1戦隊は回頭を完了し、右舷側にバルチック艦隊の30隻以上が見渡せた。回頭を完了した艦からバルチック艦隊の先頭の第1戦艦隊旗艦「スワロフ」と第2戦艦隊旗艦「オスラービア」に対して一斉砲撃を開始する。三笠の「試射」1射目は目標を飛び越えて海面で炸裂した。2射目は手前の海面を波立たせた。3射目が「スワロフ」の前部煙突を吹き飛ばした。4発目でスワロフで火災が発生。
。14:15:オスラービア炎上
・14:17:(距離5000m)連合艦隊の砲弾がバルチック艦隊の両旗艦に多数命中し火災を発生させる。この頃、連合艦隊第1戦隊は命中率をさらに上げるために距離を詰め(5000m以下)、バルチック艦隊との同航砲撃戦は互いに最高潮となった。「三笠」の被弾も急増した。連合艦隊第2戦隊(装甲巡洋艦6隻)も回頭を完了し同航砲撃戦に加わった。
・東郷は敵に打撃を与えつつ、どきどき針路をかえた。目的は常に敵の全面を抑圧しつづけるためであった。(バルチック艦隊のウラジオストックへの進路も遮蔽するため)
・14:27:第2戦隊所属の装甲巡洋艦「浅間」が被弾により戦列から離脱。
・14:43:「スワロフ」「オスラービア」が戦線を離脱
・14:50:オスラービア沈没(スワロフは炎上、戦闘不能)

ーーーーーーーーーーー

 今日も来てくださってありがとうございました。


『坂の上の雲 八』(その2)

2013-03-09 08:45:38 | 日記



 こんにちは。

 『坂の上の雲 八』(その2)です。

 「抜錨」25~54頁
・信濃丸からの無線を受け、参謀長加藤は東郷に翻訳文を示す。加藤「艦隊に出港を命じます」東郷「うん」と答える。
・5:35:連合艦隊に「直ちに出港用意」が 下令された。
・6:06:連合艦隊は出港開始。
・秋山真之は、飯田少佐がもってきた草稿(大本営にうつ電報)「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃滅セントス」に、「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と一筆加えた。

「天気晴朗」→濃霧によって敵を取り逃がすことがなく、視界が明瞭であれば砲弾の命中率があがる。
「浪高シ」→波で艦が動揺するとき、射撃訓練を十分につんだ日本側のほうが有利である。
(6:21:連合艦隊は大本営に向け打電)

7:10:三笠は加徳水道を抜け鎮海湾から外洋に出る。(すでに他の艦は出港)

(航行中)
・どの艦も甲板まで積み上げていた石炭を捨てた(津軽海峡に向かう必要がなくなり、ムダな石炭は捨てることにした)(イギリスの無煙炭は高価で1トン25円だった。これは中年小学校教員の月給に相当)。
・捨てた後甲板を洗い、石けんで艦内を洗い、噴霧器で消毒した(敵弾の炸裂によって傷口からばい菌がはいり落命することを防ぐため)。
・さらに全員が入浴し、新品の戦闘服を配給。
・その後、甲板に砂をまいた(兵員の血によって滑ることを防止するため)。


「沖ノ島」55~82頁
・旗艦三笠が湾をでると、実際には濃霧がでていた。したがって少しも晴朗ではなかった。実際のところ、晴朗すぎてもいけなかった(ロジェストウェンスキーが日本の連合艦隊を発見し、早期に針路を変えてしまうから)。
・どの兵員(日本)も木製の札を袈裟にかけていた(戦死したときに誰であるのか認識できるようにするため)。
・片岡七郎が率いる第三艦隊は老朽艦を中心に編成されていたが、もっとも早い段階でバルチック艦隊に接触、東郷のところまで誘導することが求められていた。
・9:55:第三艦隊がバルチック艦隊を視認し、密着し逐次報告する。

・10:00頃:バルチック艦隊も、第三艦隊の第5・第6戦隊を視認する(橋立、松島、鎮遠など)も、ロジェストウェンスキーは黙殺する。

・さらに、第一艦隊の第3戦隊(出羽司令官)がバルチック艦隊に接近したため、バルチック艦隊が発砲、日本も応射した。しかし、ロジェストウェンスキーは「砲弾の無駄遣いをやめよ」と信号をあげた。(日本の艦隊が遁走したため、バルチック艦隊の士気はあがった)
・この日は、ニコライ2世の戴冠記念日であったため、祝宴が行われる。

・さらに、第二艦隊の第四駆逐隊(鈴木貫太郎中佐)が偵察のためにバルチック艦隊の全面を横切ったが、ロジェストウェンスキーは、これを機雷をまいたと誤認する。バルチック艦隊は回避行動を開始したが、艦隊の隊列が乱れてしまっただけだった。

 ーーーーー
・この後、「沖ノ島」の説明がなされる。日露戦争当時、この沖ノ島の住人は、神職1人と少年1人だけだった。島自体がご神体であるため、女人禁制になっている。彼らがバルチック艦隊のまわりを偵察していた日本の艦に発砲した砲声を聞く。

【沖ノ島】(wikiより)
・福岡県宗像市の旧大島村域に属する、九州本土から約60キロ離れた玄界灘の真っ只中に浮かぶ周囲4キロの孤島である。宗像大社の神領で、沖津宮が鎮座する。

・島全体が御神体とされ、今でも女人禁制の伝統を守っている。また、男性でも毎年5月27日外の上陸は基本的に許されず、その数も200人程度に制限されている。 山の中腹には宗像大社沖津宮があり、宗像三女神の田心姫神(たごりひめのかみ)をまつっている。無人島であるが、現在は沖津宮の神官が交代で派遣され、常時滞在している。

・第二次世界大戦後、宗像大社復興期成会が結成され、三次1954年(昭和29年)- 1971年(昭和46年)の発掘調査が行われ、23の古代祭祀跡から約8万点の祭祀遺物が出土(そのほか約2万点の縄文時代、弥生時代の遺物が出土)した。これらのうち第一次、第二次調査出土品は1962年(昭和37年)に国宝に指定、第三次調査出土品は1978年に重要文化財に指定された。2003年には上述の国宝と重要文化財を統合、同年と2008年には未指定物件が追加指定され、関連遺物全てが国宝に指定されている。こうしたことから、沖ノ島は海の正倉院と称される。

  ーーーーーー
 まだ続きます。

 今日も来てくださってありがとうございました。


『坂の上の雲 八』(その1)

2013-03-08 11:11:23 | 日記


 こんにちは。

 『坂の上の雲 八』です。

 再開します。

 ーーーーーー
 『坂の上の雲 八』は最終巻です。

「敵艦見ゆ」 7~24頁
「抜錨」25~54頁
「沖ノ島」55~82頁
「運命の海」83~148頁
「砲火指揮」149~160頁
「死闘」161~210頁
「鬱陵島」211~229頁
「ネボガトフ」230~269頁
「雨の坂」270~306頁

 あとがき集 307~374頁 
 解説 島田謹二 375~390頁

ーーーーーー
「敵艦見ゆ」 7~24頁

・連合艦隊は、三つの艦隊に区分されていた。(艦隊の編成は原作による。括弧内の補足説明はwikiによる)

【第一艦隊】(旗艦 三笠)戦艦を主力とする・・・司令長官:東郷平八郎、参謀長:加藤友三郎
 
 ・第一戦隊(旗艦 日進; 朝日、富士、敷島、春日)・・・司令官:三須(みす) 宗太郎(近江出身;左目を失明)、参謀:松井健吉(バルチック艦隊の対馬海峡来航を主張;日本海海戦で戦死)

 ・第三戦隊(旗艦 笠置;千歳、音羽、新高)・・・司令官:出羽重遠(しげとお;会津出身)、参謀:山路一善(「すえ」は山本権兵衛の次女)

【第二艦隊】(旗艦 出雲)・・・司令長官:上村彦之丞(かみむらひこのじょう;あだ名は「船乗り将軍」)、参謀長:藤井較一(こういち;バルチック艦隊の対馬海峡来航を主張)
 
 ・第二戦隊(旗艦 磐手;出雲、吾妻、浅間 、八雲、常磐、磐手、千早)・・・司令官:島村速雄(非常な秀才で智謀は底が知れない、軍人には珍しいほど功名主義的な所が無い、生涯はつねに他者に功を譲ることを貫いた、天性のひろやかな度量のある人物)、参謀:竹内重利(愛媛出身;「学科でも訓練でも薩摩に負けるな」と秋山真之より言われる)

 ・第四戦隊(旗艦 浪速;浪速、高千穂、明石、対馬)・・・司令官:瓜生 外吉(うりゅう そときち;石川県出身)、参謀:森山慶三郎(佐賀出身)

【第三艦隊】(旗艦 厳島)・・・日清戦争時に使用された老朽艦によって編成された艦隊・・・司令長官:片岡七郎(ドイツ語・フランス語・英語を習得)、参謀長:斎藤孝至( こうし;福島出身)

 ・第五戦隊(旗艦 橋立;松島、鎮遠、八重山)・・・司令官:武富邦鼎(たけとみ くにかね;佐賀出身)、参謀:野崎小十郎(高知出身)

 ・第六戦隊(旗艦 須磨;和泉、秋津洲、千代田)・・・司令官:東郷正路(まさみち;福井出身)、参謀:吉田清風

 ・第七戦隊(旗艦 扶桑;高雄、筑紫、鳥海、摩耶、宇治)・・・司令官:山田彦八、参謀:伊集院俊

 ーーーーー
【信濃丸の説明】
・1900年4月竣工後、横浜シアトル間に就航
・1905年3月海軍に徴用され仮装巡洋艦となる。
 (仮装巡洋艦とは、貨物船など既存の商船を改造したため、装甲等の防御力は申し訳程度しかなく、爆撃や砲撃で簡単に沈められた。正規の巡洋艦を建造するよりも、時間と費用を節約することが目的であった。実態は汽船であるため、このときは偵察が任務であった)
・戦後は、シアトル航路に復帰、後に神戸・基隆間航路に転じた。1913年には孫文が同船で日本に亡命している。1929年に北進汽船へ売却後、サケ・マス工船や北洋漁業の母船として活用された。太平洋戦争中は、輸送船として活躍した。しかし、陸軍の兵士として乗船した水木しげるの証言によれば、この頃の信濃丸は、触ると船体の鉄板が欠け落ちるほど老朽化が進んでいた。「浮かんでいるのが不思議」「魚雷が船底を通るだけでも沈む」と揶揄されたほどだったが、無事に戦争を生き延びた。日露戦争、太平洋戦争と2度も徴用されたが戦没しなかったので、強運に恵まれた船だったともいえる。(wikiより)
 ーーーーー
5月27日
2:45:信濃丸が左舷側に1隻の汽船を発見(「バルチック艦隊ではないか」)→艦長成川揆(なるかわ はかる)大佐は、その正体をさぐるため接近
4:30:成川は、病院船であると断定し、臨検しようとするとするが、病院船オリョールとバルチック艦隊の列間に入り込んでいたことに気づく。
4:45:信濃丸はそこから離脱、同時に「敵艦見ゆ」「敵の艦隊、二〇三地点に見ゆ。時に午前四時四十五分」と打電する。その後もバルチック艦隊から離れず航行する。
6:05:「敵進路、不動。対馬東水道を指す」これにより、バルチック艦隊の航路が確定できた。
→その後、三等巡洋艦・和泉(艦長 石田一郎大佐)がバルチック艦隊に接近し、陣形・艦数、針路を報告し続けた(「煙突はすべて黄色」などの情報)。
 (ロジェストウェンスキーは発砲もせず、無線も妨害しなかった)

 今日も来てくださってありがとうございました。

巡検から帰ってきました(その4;3日目)

2013-03-07 14:14:10 | 日記


 こんにちは。
 巡検3日目です。

 3月1日(金)…全体行動

7:30 朝食
8:40 自転車で出発
9:20 自転車返却(橿原神宮前)
9:39 橿原神宮前駅出発 近鉄南大阪線
9:57 二上神社口駅到着→登山開始
11:30 雌岳(昼食は30分間)
13:00 下山終了
13:20 當麻寺拝観(~14:00)
14:30 當麻寺駅到着
14:31 當麻寺駅出発 近鉄南大阪線
14:53 橿原神宮前駅到着
15:00 荷物受取
15:15 解散

 ーーーーー

 山上には、大津皇子の墓がありました。

 麓には、當麻寺がありました。

 すみません、この時の写真はいま手元にありません。

 ーーーーー

 今回の巡検は、巡検と言うよりも、体力勝負の合宿みたいでした。

 きょうも来てくださってありがとうございました。


巡検から帰ってきました(その3;2日目)

2013-03-05 07:35:08 | 日記
 


巡検報告2日目です。

2月28日(木)はグループ行動です。
【テーマ】地理写真をいかした授業の作り方と実践
  ・将来使えるようないい写真を撮る。
  ・時間が余るようならば新たに行き先を付け加える。
  ・安易にスマートフォンを使わない(地形図を使う)
  ・写真をうまくつかった15分の授業をつくる。

7:30 朝食
9:00 グループごとに出発

 (グループ行動)

16:00 祝戸荘到着
16:00 入浴/レポート作成
18:00 夕食
19:30 全体ミーティング(~20:30)テーマ「今日1日の報告」
21:00 入浴など
23:00 消灯/就寝

ーーーーーー

 学生たちは、水利、万葉集、古墳などのテーマをもってグループで行動しました。

 わたくしは、「飛鳥川をさかのぼる」というテーマで、ひとり自転車行動をしました。

 祝戸から芋が峠に至るおよそ7kmの道のりです。もちろん坂道です。

 奈良盆地そのものがもともと水が不足しがちな場所であったため、昔から水を大切にしてきました。

 飛鳥川は大和川の支流ですが、古代からひらけたこの地の中心を流れ、万葉集にもうたわれてきました。

 地形図をみると、芋が峠のそばに源流があるらしいので、そこに行ってみようという考えです。


 

 

 ↑ 途中までは坂道でもきれいに舗装されているので、それほど大変ではありませんでした。



 ↑ しかし、峠の入り口あたりから道が細くなり、でこぼこしています。ほとんど人、車とはであいませんでした。


 
 ↑ 「ごろ滝」



 ↑ 実は古代の芋が峠の道は他にあるのですが、自転車では無理みたいなので、こちらを通りました。



 ↑ 源流があると思われる谷底(源流をみることはできませんでした・・・)



 ↑ ついに峠に到着しました。



 ↑ お地蔵様がいらっしゃいました。

 およそ、1時間半くらいで登り切りました。

 道が悪くなってからは、勾配がきつくなってきたので自転車を押しました。

 【芋が峠】(wikiより)
 芋ヶ峠(いもがとうげ)は、奈良県吉野郡吉野町、大淀町と高市郡明日香村、高取町との町村境付近にある峠。現在の県道が通る峠付近では、この4つの自治体の町村境が接続する。峠道は吉野町と明日香村とを結ぶものだが、北斜面を走る県道は峠から明日香村栢森までの大半は高取町内を通っている。なお、県道が付けられる以前の旧峠道は東よりの小峠を越え、尾根を登るため全て明日香村内を通り、旧峠も吉野町と明日香村の町村境にある(古道芋ヶ峠)。標高約500m。芋峠、今峠とも。また近世には疱瘡峠と書いて「いもとうげ」と呼んだ。

 古代において都のあった飛鳥と、離宮のあった吉野とを最短で結ぶ道として開かれ天武天皇、持統天皇などの天皇の吉野行幸では、この峠道が使われたのではないかと考えられている。また藤原道長が吉野に入るのに利用した。中世以降は吉野山、大峯山への参詣道として盛んに用いられたが、大和国名所旧蹟巡覧をする旅人は芋ヶ峠よりも多武峰・談山神社から入る龍在峠をよく利用し、芋ヶ峠は国中(奈良盆地)から吉野へと運ばれる物資が多く行き交っていたという。なお、芋ヶ峠の道は国中側では岡寺を経て八木まで通じており、これらを総じて吉野側では「岡街道(または岡寺街道)」、国中側では「芋峠越吉野街道」と呼ばれた。

江戸時代に吉野を訪れた上田秋成は麻知文に「鷹むち山こゆる坂路をいもがたむけと云ふ、むかひの峯に鷹取の城さゝげ上げたり」と詠んでいる。

明治時代まで、人や物資が頻繁に行き交ったが、1912年(大正元年)に吉野軽便鉄道(今の近鉄吉野線)が今の六田駅まで開通すると次第に衰える。街道として賑やかな頃は明日香村側の峠途中には三軒の茶屋があり、峠山頂付近には芋峠神社があった。また吉野町側の千股には江戸中期には農業兼業の旅館が7戸があった。

現在の県道は昭和に入ってから付けられたもので、旧道は久しく忘れられていたが、現在は明日香村側では古道芋ヶ峠として整備され案内板が立てられている。また吉野町側でも谷へと下る古道の案内板が立てられている。

【万葉集に詠われた飛鳥川】
飛ぶ鳥の飛鳥の川の上つ瀬に生ふる玉藻は下つ瀬に流れ触るらへ… (巻2-194)
飛鳥川 川淀さらず立つ霧の 思ひ過ぐべき恋にあらなくに (巻3-325)
今日もかも 飛鳥の川の夕さらず河蝦なく瀬のさやけかるらむ (巻3-356)
君により言の繁きを 故郷の飛鳥の川に禊しにゆく (巻4-626)
年月も未だ経なくに飛鳥川 瀬々ゆ渡しし石橋もなし (巻7-1126)
飛鳥川 七瀬の淀に棲む鳥も 心あれこそ波立てざらめ (巻7-1366)
絶えず行く飛鳥の川の淀めらば 故しもあるごと人の見まくに (巻7-1379)
飛鳥川 瀬々に玉藻は生ひたれどしがらみあれば靡きあはなくに (巻7-1380)
飛鳥川逝き回む丘の秋萩は 今日降る雨に散りか過ぎなむ (巻8-1557)
今行きて聞くものにもが飛鳥川 春雨降りて激つ瀬の音を (巻10-1878)
飛鳥川 明日も渡らむ 石橋の遠き心は思ほえぬかも (巻11-2701)
飛鳥川 水行きまさりいや日々に恋の増さらばありかてましじ (巻11-2702)
飛鳥川 行く瀬を早み早見むと待つらむ妹を この日暮らしつ (巻11-2713)
飛鳥川 高川避かし越えて来つ まこと今宵は明けず行かめや (巻12-2859)
神の帯にせる飛鳥の川の水脈早み生ひため難き岩が根に苔むすまでに (巻13-3227)

 ーーーーーー
 疲れましたが、それほど大変ではありませんでした。

 「芋が峠」は、疱瘡峠と書いたというのは興味深いですね。

 「疱瘡」とは天然痘のことです。

【天然痘】(wikiより)
 天然痘(てんねんとう)とは天然痘ウイルスを病原体とする感染症の一つである。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生じ、治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残すことから、世界中で不治、悪魔の病気と恐れられてきた代表的な感染症。

 その恐るべき感染力、致死率(諸説あるが40%前後とみられる)のため、時に国や民族が滅ぶ遠因となった事すらある。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。

 どうしてこの峠が芋が峠と呼ばれるようになったのかはわかりません。

 疱瘡(天然痘)が飛鳥のほうへ入ってきませんようにという願いがこめられているのでしょうか。これは推測です。

 地名をさぐっていくとおもしろいことがありますね。

 わたしもここで撮った写真を使って、学生の前で授業をやるつもりです。

 今日もきてくださってありがとうございました。


 

 

 





巡検から帰ってきました(その2;1日目)

2013-03-03 11:16:44 | 日記


 こんにちは。

 巡検報告1日目です。


11:00 桜井北口集合
11:30 「仏教伝来地碑」
12:20 大神神社到着(おおみわじんじゃ)
12:30 狭井神社到着→三輪山 登拝開始
14:40 登拝終了→移動

15:20 車谷扇状地(予定変更し、箸墓古墳へ)
15:42 巻向駅出発(JR)
15:49 桜井駅到着
15:53 桜井駅出発(近鉄)→16:02大和八木
16:07 橿原神宮前駅到着(自転車乗車、移動)
16:40 祝戸荘到着(荷物受取/入浴/レポート作成)
18:00 夕食(夕食後入浴可)
19:30 全体ミーティング(~20:30)
20:30 入浴など
23:00 消灯/就寝

 

【三輪山(みわやま)】(wikiより)
三輪山は、奈良県桜井市にある山。奈良県北部奈良盆地の南東部に位置し、標高467.1m、周囲16km。三諸山(みもろやま)ともいう。なだらかな円錐形の山である。

日本国創生の時代より神宿る山とされ、三輪山そのものが神体であるとの考えから、神官僧侶以外は足を踏み入れることのできない、禁足の山とされてきた。

明治以降はこの伝統に基づき、「入山者の心得」なるものが定められ、現在においてはこの規則を遵守すれば誰でも入山できるようになった。
登山を希望する場合は、大神神社から北北東250m辺りに位置する境内の摂社・狭井神社の社務所で許可を得なければならない。そこで氏名・住所・電話番号を記入し300円を納める。そして参拝証の白いたすきを受け取り御祓いを済ませる。道中このたすきを外すことは禁止されている。行程は上り下り約4kmで、通例2時間ほどで下山できるが、3時間以内に下山しなければならないという規則が定められている。また山中では、飲食、喫煙、写真撮影の一切が禁止され、下山以降も山中での情報を他人に話す事を慎むのがマナーでもある。午後4時までに下山しないといけないため、午後2時以降は入山が許可されない場合がある。雷雨などの荒天の際は入山禁止となることもあるが、禁止とならない場合であっても万一の事故に備えて電話番号の確実な記入が求められる。また、大神神社で祭祀が行われる日は入山ができない。

数多くの巨石遺構、祭祀遺跡も散在するが、これに対しても原則として許可なく撮影はできない。さらに、山内の一木一葉に至るまで神宿るものとし、それに斧を入れることは許されておらず、山は松、杉、檜などの大樹に覆われている。

 ーーーーー
 (以下は、ざっくりとまとめました)

 三輪山、つまり大神神社(おおみわじんじゃ)でまつられている神様は「大物主(おおものぬし)」の神様です(蛇神で、稲作豊穣、疫病除け、酒造りなどの神様)。
 
 神様には大きく分けると2系列あります。「国つ神」(スサノヲを祖とする大国主・大物主)と「天つ神」(天照大神)です。

 もともとこの三輪のあたりで、大国主(おおくにぬし)・大物主(おおものぬし)の神様が国作りをしていました。

 しかし、天(高天原;たかまがはら)にいる天照大神(あまてらすおおみかみ)が、この地を譲るように勧告します。

 それに対して、国つ神たちはこの地をゆずり、遠い出雲(島根県)へゆき、そこでまつられることになりました。それが出雲大社になります。

 しかし、三輪山のあたりでは大物主をまつりつづけました。おそらく天つ神たちもそれをみとめたのでしょう。

 これはおそらく、天つ神を信仰する人々が、もともといた国つ神を信仰する人々を支配したことを神話に仮託したものと考えられます。

 《注1》大国主と大物主は同じだといっているものもありますが、ややこしくてよくわかりません(専門書をお調べください)。
 《注2》「天つ神」(天照大神)は、伊勢神宮などでまつられています。天皇家にとって特に大切な神様です。

 ーーーーー

 三輪山の斜面は前日の雨により、どろどろでした。まるでチョコレートがとけているような感じでした。

 学生はいやがっていましたが、自然な流れで強行しました。

 頂上にあがっても、樹木がうっそうと茂っており、見晴らしはよくありません。

 学生たちに、信仰を強制するものではなく、こういう世界・場所があるのだということを知るために登らせました(登拝)。

 麓には、三輪そうめんの工場や店も多く、乾燥した風・小麦・水・水車などの条件が重なり、そうめん作りが昔からさかんであったことも説明しました。

 (その後、車谷というところで果樹栽培と扇状地の関係を説明する予定でしたが、箸墓古墳を見に行きました。)

 神話・古代文化・地場産業などを知る上で、とてもいい場所だと思っています。

 
 今日も来てくださってありがとうございました。