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『カラマーゾフの兄弟』終了(2015.9.21)(その2)

2015-09-22 13:19:08 | 日記

 (ネコの腹は、やわらかくて気持ちがいい・・・)


こんにちは、昨日の続きです。

『カラマーゾフの兄弟』は,3人の兄弟の長男が父親を殺したのではないかという話が,メインになっています。

しかし,サイドストーリーにもいい話があり,そのうちで有名なのが『大審問官』のところです。

以前読んだときには,あまりよくわからなくて,印象に残らなかったところですが,今回は以前よりは内容がわかりました。

ーーーーーー以下 だいたいの話をまとめたものです(長いので、ご用心を・・・)ーーーーーーーー

第2部 第5編 5「大審問官」(亀山郁夫『カラマーゾフの兄弟』2)50頁くらい
(次男イヴァンが三男アリョーシャに語る物語)

 物語の設定は、16世紀スペインのセヴィリヤで、異端者が火刑にされる異端審問の時代である。ここにイエスらしき者が降臨する(以下 イエス)。民衆は彼に従い人垣はどんどん厚くなり、その中で死んだ子どもの母親の叫び声が響き渡る。「もし、あなたなら、私の子を生き返らせて下さい」。イエスは憐れみを込めて「タリタ・クミ(起きよ、娘)」とつぶやくと、少女はおきあがった。どよめきや慟哭がおきたとき、そこに大審問官が通りかかる。 90歳くらいの大審問官はこの様子を見ていて、護衛達にこの男を捕らえるように命じる。
 
 そして、イエスと大審問官との問答が始まる。この後,大審問官がずっと話し続け、イエスは沈黙を守る。

1 大審問官はイエスに「なぜ今頃現れたのか」と詰問 
 イエスの出番はもう終わっていて、自分たちがイエスのために最後まで仕事をやり遂げた。なぜ終わっているのかにたいしての答えは、かって悪魔とイエスが対決した時の悪魔の誘惑の三つの問いにある→「この三つの問いの中には、人類のその後の歴史がすべてひとつの全体にまとめられ、預言されているし、また地球全体におよぶ人間の本質の、解決しがたい歴史的な矛盾すべてを集約する、三つの姿が現れている」と、イヴァンは述べ、悪魔の三つの問いと、それに対するイエスの拒絶の意味を、大審問官に語らせる。


2 悪魔の三つの問い 
(1)悪魔の第一の問い「お前が神の子ならば、その石をパンに変えてみよ」に対しては、おまえは「人はパンのみにて生きるにあらず。神の言葉によってのみ生きる」と答えた。
 なぜなら、パンのために、人間から自由を奪いたくなかったからだ。しかし、おまえの言う自由はなにを約束してくれるのか。それは、人間にとって耐えがたい重荷にしかならないではないか。人間というのは、パンのためなら自由を放棄して、パンを与えてくれる者の奴隷になったほうが良いと考える。自由よりも、パンこそが人間にとって価値があるのだ。

  自由や神の言葉 < 現実のパン 

(2)悪魔の第二の問い「その崖から飛び降りてみよ。おまえが神の子ならば地面にたたきつけられることはないだろう。神が助けてくれるだろうから・・・」に対しては、おまえは「神を試すべからず」と答えた。

 なぜならば、それは人間から自由な信仰を奪い、奇跡の奴隷にすることになると考えたからだ。しかし、これまで現実に人間を救ってきたのは、自由な信仰というようなものではない。目に見える奇跡が信仰を支え、人間を救ってきたのだ。なぜならば、人間はそのように創られているからだ。人間の身体にはパンが必要であるのと同じで、人間の心には奇跡が必要なのだ。

  自由な信仰 < 奇跡 

(3)悪魔の第三の問い「もしおまえが、わたしのもとに来れば、すべての王国と栄華をおまえに与えよう」に対しては、「サタンよ、去れ」とおまえは答えた。

 悪魔を拝し、地上の王となれば、人間を権威と力で従わせることになる。それでは、人間から選択の自由を奪うことになるとおまえは考えた。
しかし、実際のところ、人間にとって、自分自身で選択する自由は恐ろしく不安なもので、平安も幸せをもたらしてくれない。だから、人間は自分の自由を進んで捧げられる主を求める。それは、多数者が認める者でなければならず、おのずとその権威が備わっている者でなければならない。そういう権威こそが、人々をまとめることができ、平安を与えることができるからだ。

 自由な選択 < 権威への服従 

3「パン・奇跡・権威」の意味

 悪魔のこの三つの誘いは、人間の身体と心と社会が根源的に要請しているもので、誰もこれを無視することはできない。実際のところ、これまでの人間の歴史は、石をパンに変えることに苦しんできたのではないか。
 
 奇跡も、科学が成し遂げてきた成果により、かつては奇跡だった多くのものが、今では当たり前の現実になった。いわば、科学は奇跡の境界線を押し上げる役目をしているが、科学信仰が奇跡願望を引き継いだだけの話であり、現代人の心の内実は昔とすこしも変わっていないのではないか。

 権威を奉じることについても、現代においてよくみられる。現代の私(たち)は、多くの権威に取り囲まれているが、それらの権威の中の権威、地球規模の王たる権威が将来現れれば、自身の選択の判断をそれに容易に委ねるのではないか。

 実際のところ、現実は、悪魔の予言通りの世界となった。
 世の中は、パンと奇跡と権威に支配されており、イエスが望んだ自由な信仰は何処に見出せるのか。人間の本性は、天上の約束である神と直接結ばれる自由よりも、地上の掟であるパンと奇跡と権威から離れることはできないのだ。歴史が証するところは、悪魔の言うところが正しかった。

4 選民
(1)「人間を買いかぶりすぎだ」
 大審問官は「見てのとおり、(あれから)すでに15世紀が過ぎている。さあ、人間をよく見てみるがいい。おまえが自分のところまで引き上げた相手がどんな連中か? 誓ってもいいが、人間というのは、おまえが考えていたよりもかよわく、卑しく創られているのだ。いったいその人間に、おまえと同じことをなしとげる力があるというのか」と問い詰める。

 勿論、イエスの言う自由を選択し、イエスに随った少数の選ばれた民はいた。(選民)
 彼らは、おまえの十字架を持ちこたえ、イナゴと草で食いつなぎながら、荒野での飢えたむきだしの生活を何十年も耐え抜いた。とすれば、おまえは、これら自由の子、自由の愛の子、おまえのために自由で立派な犠牲を捧げた子どもたちを、誇らしい思いで指さすこともできよう。

 しかし、大多数の者には不可能なことだ。

 彼らはおまえを理解することも従うこともできない。
 結局、おまえは、おまえと同類の「少数の特別な人間だけのため」に説いたのだ。
 人類の1%ほどの者だけが、おまえの仲間になることができたのだ。

(2) 「大多数の者はどうするのだ」
 残りの99%の大多数の者は、おまえに見捨てられたのも同然ではないか。
 彼らもおまえの愛する人間ではないのか。なぜ、彼らが理解できない不可解な自由を与えたままで放っておいて立ち去ったのか?。弱くて卑しい彼らこそ、救いが必要ではないか。われわれは、彼らをそのまま見捨てておけなかった。だからこそ、われわれが、おまえが見捨てた大多数を救うことにしたのだ。


3 「われわれはおまえにかわって大多数の者を救うのだ」
 われわれは、おまえとではなく、‘あれ’とともにいるのだ。つまり、イエスが退けた悪魔の誘惑を受け取り、イエスの名を掲げて、仕事を引き継いだのだ。イエスが見捨てた大多数の者を救うために、悪魔と手を結んだのだ。
 われわれはおまえの偉業を修正し、それを奇跡と神秘と権威のうえに築きあげた。人々は、ふたたび自分たちが羊の群れのように導かれ、あれほどの苦しみをもたらしたあれほど恐ろしい贈り物(自由)が、ようやく心から取り除けられたことを喜んだ。
 そして、おまえは自分の選民たちを誇りにしているが、おまえの選民は選ばれた少数の民でしかない。しかし、われわれはすべての者、すべての人間に安らぎを与えることができるのだ。

4 「大審問官の過去」
 このわたしも、かつて荒野にあって、イナゴと草の根で飢えをしのいだことがあった。おまえが人々を祝福した自由を、祝福したこともあった。おまえの、選ばれた人々の仲間となり、あの”数を満たしたい”という願いを抱く、強くたくましい人々の一員になる心づもりであった。
 だが、わたしはふとわれに返り、おまえの狂気に仕えるのがいやになった。
 そこで、わたしは引き返し、おまえの偉業を修正した人々の群れに加わったのだ。
 わたしは、誇り高い人々のもとを去り、この従順な人々の幸せのために、従順な人々のもとに帰ったのだ。大多数の人々を救う仕事を、羊の群れを統御する羊飼いの仕事を、引き受けたのだ。
 われわれ羊飼いは、羊の群れである彼らの手で収穫されたパンを、取り上げて分配する。彼らはパンそのものよりも、われわれの手からパンを受け取れることの方がうれしいからだ。
 われわれは、彼らを働かせはするが、労働から解き放たれた自由な時間には、彼らの生活を、子どもらしい歌や合唱や、無邪気な踊りにあふれる子供の遊びのようなものに仕立ててやるのだ。
 われわれは、彼らの罪も許してやる。われわれは、彼らが罪を犯すのを許してやるので、彼らはまるで子どものようにわれわれを愛するだろう。
 彼らは、われわれに対してどんな隠しごとも持たなくなる。
 彼らは、自分の良心がかかえるもっとも苦しい秘密を、われわれのところに持ち込んでくるだろうし、われわれがそのすべてを解決してやる。
 そして彼らは、われわれの解決を大喜びで受け入れるだろう。
 なぜならその解決は、すべて自分一人で解決しなければならない現在の大きな心労や、恐ろしい苦しみを取り除いてくれるからだ。
 しかし、秘密を守っているわれわれは、代わりに不幸せになるのだ。
 何十億という幸せな子どもたちと、善悪の認識の呪いをわが身に引き受けた十万の受難者が生まれる。受難者は静かに死んでいく。おまえのためにひっそりと消えていく。
 あの世に見出せるものといえば、死しかない。それでも、われわれは秘密を守り、何十億の幸せのために、天上の永遠の褒美をえさに、彼らを呼び寄せる。


 すると、イエスは、無言のままふいに老審問官のほうに近づき、血の気のうせた90歳の唇に静かにキスをする。これが、答えのすべてだった。老審問は、ぎくりと身じろぎをし、彼の唇の端でなにかがうごめく。イエスは立ち去る。キスの余韻が残り、老審問官の心に熱く燃えるものがある。しかし、老審問官が今までの信念を変えることはない。

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(以下 私のメモ)

 人間は自由をほしいほしいといい、自由でありたいと言う。
 しかし,いざ自由を与えられるとその扱いに困ってしまい、だれかにすがろうとする。食べ物をくれる人(生活を安定させてくれる人)、奇跡、権威ある人にたより、思考を停止してしまうのだ。

 大審問官とイエスの問答はもっと大きなスケールでえがかれているのだが、今回は私は上記のような感想をもった。

 おそらく次に読んだときには、また別の感想をもつことになるだろう。

 以上です。

 夏休みがそろそろ終わりますね・・・。

 今日も来て下さってありがとうございました。