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お良しなさい日記♪

三浦半島からこんにちは!

生涯忘れられないこと・21歳の時 手術を受けた病院にて

2025年03月16日 15時20分21秒 | 気持ち・考え 告白部屋

 これを書いている今は2025年。それは今から42年前の1983年10月のことでした。

 

 今から書き記すことは、実母には話したと思います。

今日の今日まで、ほかの人に話すことはありませんでした。なんとなく、春という明るい季節が来る前に文字にして残す気持ちになったので書きます。

 

 【 この記事を書いたずっと後、6月25日 追記 】

・ 病院で見聞きしたことを こうしてブログに書き留めた後、まもなくして実父が体調を崩して亡くなりました。施設の看取り室で一夜を過ごしているときに このタイミングで思い出して記した意味を感じました。

 

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 1983年10月の中頃、私は「鼠経ヘルニア( いわゆる脱腸)」の手術をするために 神奈川県横浜市にある 横浜市立市民病院に入院しました。

病名を聞いたときは「何だろう 」と不安になりましたが、生まれつきの症状であって 外科手術で治るもので 病気じゃないので、まぁまぁ前向きな気持ちでいました。術前検査など 忙しくいろいろ受けましたが、ほかの患者さんの手術が立て込んでいるらしくて 私の手術まで1週間以上待つことになりました。

 

 入院して間もないある晩、何かの用事でナースステーションへ歩いていく途中で、入院着を着た女性が公衆電話口で大声で泣いている姿を見ました。

 

女性  「〇〇ちゃん、明日お母さんは手術して おっぱいがなくなっちゃうのよ! ごめんね、おかあさんは おっぱいがなくなっちゃうの」

 

家にいる息子さんと泣きながらお話しているようでした。泣き叫んでいる、という状態でした。40代ぐらいの女性でした。

私がナースステーションから戻ってきたときは、その女性はロビーのソファーに座っていて、周りに看護師さん1人と幾人かの女性の入院患者さんが寄り添っていました。

 

女性  「今ね、子どもにおっぱいがなくなっちゃうことを伝えたの。家でね、服をぱっと脱いで、このおっぱいを見るのは最後だからね!って、夫と息子に見せてきたの」

 

もう、わんわん泣いています。優しい女性の看護師さんが「うんうん・・・、そうだったんだね。・・・ごめんね、ほかの患者さんが不穏になっちゃうから もうあんまり大きな声で泣かないで」と肩をさすりながら諭していました。

 

 病気じゃない私は、この深い悲しみを目の当たりにしたことで、自分の立場をわきまえなければいけないと痛感しました。

 

 

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 どんなに暇でも、元気な私は あんまり出歩かない方がいいなと考えた私でしたが、生理現象のお手洗いには行きます。

私の入院部屋の正面が男性の6人部屋でした。その入口を入ってすぐ左側にいた 今思えば50代半ば~60代半ばの男性と廊下で会うと 結構お話をしていました。

 

ある日、ホントにイケナイことですが(笑) 、ベッドわきに呼ばれて(笑)、コーヒーをごちそうになっちゃいました!

 オジサン  「このインスタントコーヒー、美味しいんだよ!美味しいでしょ?」

 私  「美味しいです

 

それは今は売ってないかも?の、味の素系列の「AGF グランデージ」というインスタントコーヒーでした。

( 同等ラインの 「ネスカフェ プレジデント」は販売されてますね

 

そして更にイケナイことに、オジサンは上半身を脱いで( びっくり・苦笑 ) 「以前 胃の手術をしたんだよ、今度は2回目だったんだよ」と言って、首の付け根辺りからおへそ辺りまで続く 長く赤い傷を見せてくれたのでした。

 

※ 以上 ここまで、ちゃんと仕切りカーテンが開けてある状態で ベッドわきで飲んでしゃべっているのでした、安心してください ※  あはは・・・(汗あせ)

 

 

 そしてオジサンが退院の日、奥様とお二人で私にお言葉をかけてくださいました。

「元気でね、お大事にね。若いあなたは まだ(人生)これからです。どうぞ良い人生を送ってね。楽しく入院生活を過ごさせていただいた、どうもありがとう」

 

 

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 この男性と同じ6人部屋に、当時27歳だと言っていたオニイサンが肝臓の手術で入院していました。

私よりも先に手術の日を迎えるオニイサンは、前日に便通がない場合に飲まされる「ひまし油」を飲むのが苦痛らしくて、私の部屋の入口に寄りかかりつつ不安そうに・・・

 

オニイサン  「ねえさん・・・」

( ちょっと変な呼び方しないでよ、アタシは やくざサンじゃないのよ!と その時 思った )

「ウンチ出ないとひまし油っていうスゲーまずい油を飲まされるんだよ。気持ち悪いんだ・・・、やだなぁ!」

 

 この方も手術は初めてじゃないようでした。こんな調子で、ときどき話し相手になって励ましてました 

けれど、私の手術の時は 「ウンチ出た??? や~い や~い 出ないとひまし油飲まないといけないんだよ。」なんてからかわれました!

( 私は「ひまし油恐怖」の話のおかげで、前夜に便通があり ひまし油・下剤服用は免れました  )

 

 

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 たまたま二人部屋に入院した私と同室だったのは、K・Oさんという92歳の女性でした。起き上がって食事をすることはできましたが、ベッドから下りて歩くことはできませんでした。頻繁にナースコールをしてしまうクセ(・・・といっては申し訳ないのですが)があるので、少々のことは病気ではない手術前でピンピンしている私が代わって見守っていました 食事の上げ下げ とか 話し相手、写真を見せたり・新聞の読み聞かせ、落ちた物や手が届かないところにあるティッシュを取るとか。あ、そういえば看護婦さんが置いていった清拭布でお体を拭いたり、靴下を履くお手伝いもしたっけ~(*^^*)

 

 いよいよ翌日に手術を控えた私は、看護師さんから 「明日の手術に備えてしっかり眠って体力を温存しておくように」ということで睡眠薬を飲まされて、ぐっすりとした眠りについていました。

その真夜中のこと。

「おじいさん! おじいさん! 早く迎えに来て! あぁ、おじいさん!!!」という大声が聞こえてきて、すぐに ドッサーン!というものすごい衝撃音が響いたのです。

 

 隣りにいるK・Oさんがベッドから落ちてしまったのです。これは大変だ!と思って 私は廊下に出て「看護婦さ~ん! Oさんがベッドから落っこっちゃったー!!!!!」と叫びました  睡眠薬の影響で ふらふらして歩けない

看護師さん達が数人がかりで Oさんをベッドに上げて、Oさんは点滴で、私は薬で再び眠らされました・・・。

 

 

 K・Oさんが退院されるとき息子さんご夫妻が来られて、その時はもう手術後で寝ている私に「お世話になったお礼の品」だと 本場中国の月餅とハンカチ、切り絵細工をくださいました。そして、「どうぞお元気でね。母親はもう こうしてトシ(高齢)だけど、あなたはまだ若い。あなたも元気で長生きしてください」というようなお言葉をかけていただきました。私も もちろん、K・Oさんと明るく元気な息子さんと奥様のご健康をねがう言葉を返しました。

 

 K・Oさんと息子さんご夫妻がお住まいだという場所を 京浜急行線の電車で通りかかる時、今でも この日々のことを思い出します。

 

 

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 私は手術後、看護師さんから「病気じゃないんだし、傷が癒着しちゃうから、どんどん起きて動いてね!」とハッパをかけられたので、屋上までの階段の上り下りを日課にしてました。

 

ある日、屋上で7歳だという男の子を連れて洗濯物を干しているお母さんに出会いました。

 

お母さん  「この子は扁桃腺が酷く腫れてしまって・・・。これから切ってしまう手術をするんです。心配なんですけど。でも、無くしてしまえば、あんなに苦しくなることはもう経験しなくてよくなればって思って・・・」

 

 私とお母さんはご一緒にベンチに座り、ちょっと離れたところでぴょんぴょんと跳ねて遊ぶ男の子を見ていました。

 

 男の子と私は、ちょっとだけお話したかな?

 

 

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 そして最後・・・・・・

K・Oさんが退院された後に同室になったのは、鼻から酸素を吸入している50才前後の女性でした。

いつもカーテンを閉め切りにして、ベッドでじっとお過ごしでした。

 

背広姿の小柄で細身のご主人様が毎晩、お仕事の帰りに面会に来られていました。私は手術後数日が経過していたので、ご主人様が来られるとご挨拶して ロビーへと中座することにしていました。

 

 でも ある晩のこと。

奥様 「ごめんなさいね、こんな病気になって・・・」

ご主人 「いや、いいんだよ、いいんだ、、そんな・・・」

 

そのあとは、奥様は小さな声で泣いていました。

 

 その時のことを私ははっきりと憶えています。ベッドの上で 身じろぎもできず、ただ天井の模様を見つめて、、、それから布団をかぶってじっと息を殺しているしかありませんでした。

 

「外には広い世界があるけど、今この部屋にお二人だけの小さな世界があるんだ・・」と、もう堪んなくなっちゃって、私も泣くのをこらえていました。

 

 神様ですか? ご先祖様ですか? どなたですか? 私に次々にこんな、こんないろいろな人を見せて、何の意味があるんですか? 何か私に言いたいことがあるのですか?  苦しい大泣き

 

 18日間の入院生活で、最後にこんな気持ちになってしまいました

 

そして 強く思いました。「病気じゃない私が、いつまでもここにいてはいけない。ここは今 私がいる場所ではない。早く退院させてくださいって、明日 先生に言おう」と。

 

 私はこれから長い時間を生きていくんだ(年齢的にという意味)。これからしっかりしないと、ここで出会った方々に申し訳ない。と決心した晩でした。

 

 カーテン1枚隔てたご夫婦の会話を聞いてしまった翌朝、この女性のベッドわきにある洗面台で顔を洗うことを躊躇してしまっていた私に、「どうぞ、使ってください(*´▽`*)」と、珍しくカーテンを開けた状態で 奥様は微笑んで言ってくださったのでした。

 

そして私が退院する日、「どうぞお大事にね、お元気で・・・」と。

もう酸素吸入はしていらっしゃいませんでした。

 

 

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 鼠経ヘルニア(脱腸)にしては長い18日間の入院生活は、主治医お二人が、若い女性だという理由で大事を取って 術後も長居をさせて経過観察してくださっていたためです。

 

 ありがたいお言葉をもらって、21歳にしてようやく「これからの人生、しっかりしなくちゃ!」という気持ちになって退院してから1カ月もたたないうちに、当時お付き合いしていた彼氏にフラれました 青天のへきれきで半年ぐらい凹んだ気持ちを引きずりましたが、そこから アルバイトをしたり、本就職したりの生活が始まって社会に出たことにより、子ども時代とは違った「前に見えてきた広い道を進んでいく」という感覚を得た気がします(うまく言えませんが)。

 

 入院から42年という年月が経ちました。

 

所詮、私はみなさんの本当の苦しみ・悲しみなんてわかっちゃいないと思います。

 

 主治医のS先生・執刀医のN先生、優しく厳しく面白い看護師さん達も含めて、あの時の みなさんはどうされているかなぁ?

 

 自慢できない 弱虫 コムシで生きてきちゃったけれど、わたし 今、元気で生きてますよー って伝えたい。