僕自身が当事者の端くれのようでもあり、でも実際当事者になり得ないことにつき、なるべく端折ってまず冒頭に。(恐らく本来言及の必要は無いと理解しながらも、いくらか憤りと恐縮を覚えましたので余計を覚悟で)
他所のブログに於いて、僕がここでアップした内容を引き合いにした上でそのブログの書き手の方(遠慮が働き、一応名は伏せておきます)を誹謗する(貶める)ようなコメントを書き込んだ方がいたことを知りました。曲解して比喩比較するような趣旨のそのコメントを書き込んだ人物がこのブログをご覧になっているであろう方とのことで、、「そのコメントを書いた方」に向けて。
二度と同様のこと、不快感を与える目的のコメントを他ブログでなさらないようにお願いします。指摘(?)は見当違いのことです。
検証(と言うに価するか別として)、批判にかこつけてその実、他者に不快感を与えることが目的であるとすれば、その行為は紛れもなく実存する自己(匿名のやりとりであろうが)を貶めることのみのつまらないものです。私憤だろうがなんだろうが雲散霧消。誰も感心(と関心)なんてしません。どうかやめて下さい。
宜しくお願い致します。
なお、ブログを書かれている当事者様(お名前を出すべきか迷ったまま不自然な呼称で失礼)に対しては気詰まりというか、、恐縮を覚えていることをあらためてお伝えするしかありません。逆にお気遣いまで頂いてしまい、、鷹揚に対応して下さったことありがとうございました。
以下は長くなりそうですが、契機といえばそれもそうだし以前からのことでもあります。
昨年(2013年)末、記事内に短く記してみた、現在の考え方と傾向についての補完を試みます。「表現」「趣向」「趣好」「手法」「他との隔たり、相違」「好悪(好きか嫌いか興味がないか)」。
望外なほど長く続けてこられた
「ファッションをテーマにしたブログ」に関連させて。
" 嗚呼ブログってなんだそれ。仕事中心の生活(僕の場合)の別館(アネックス)の端っこの片隅の非常口の外の踊り場、、あまりに些末な一事、そんなに意気込んで『語る』ことかというと難しい。 ..恥ずかしさは大いにありながらとりあえず書きます。論を以て誰かを説諭、納得させたいなどと願ってではなく、ウェブ上に小さく限定された内側に在るだけの程度のものとしての(?)、考え方と憤りについてです。 契機はあった。 これはエクスキューズ。 険のある論調になります "
僕は「ファッション」(複合的に用いるのに便利な用語として)を「風景」として捉えたいと考えています。その志向を可視的に反映させたいというぼんやりとした狙いがあります(脱力がてらにだが)。繋がってるような、断片のような..定かならぬ、ここで近年綴っていることどもです。不完全は当然の自覚として。
首をひねることがあります(怪我じゃなく)。 自分が美しいと感じる風景、どなたかが気に入ってくれるかもしれない景観の細部を敢えて意気込んで「解説」する野暮はなんだろう。(僕自身そうしてきました) ..その魅力、その背景、「つまり魅力を感じる契機はこれで因子はこれでさらにどこどこに起因してるんだと思う」と、とくとくと説明されてみるとどうだろう。
僕はそういうのが幾分嫌いだという意味で、自分が描くなら自己顕示性のような何か(人間らしい『臭気』というとひどいか)による濁りを出来る限り和らげたいのです。
或る景色をたたえた小さく美しい一葉の「絵はがき」。 絵はがきは何故ひとからひとに贈られるのかと。 雑多な言語表現を駆使しない、感性的な趣好を伝達共有したいと願い、そうするに先ず至便だからではないだろうかと思う。ブログって僕にはその類のツールみたいです。
人間らしい臭気(自身では気づきにくいが他人には俄然及び易いものの筈)と書きました。悪い(?)意味などとしているのではないけれど、我々(時々ファッション綴り者、片手間にライフスタイル綴り者、これら)の大抵が醸しどこかに及ぼすかもしれないこの「臭気」を中和する努力を払うなら、ユーモア感覚を生かすと覿面(てきめん)のように思うのは必然の繰り言です(結果的に仲の良い内輪に支えられて楽しむためのユーモアは知らない)。
偉そうなことは言えないのですが、ささやかでも表現する者として大切そうな克己の一様。これも自制且つ自省の活用だとしたい。
ブログを通じて知遇を得(あくまでウェブ上で)、よくやりとりをさせていただいてきた NBCPNさん(※これは伏字です)は天性のものかはたまた、、その自然な具現者として稀有な偉材と識りました。
(逸れました)
あらためて、ファッションは僕の中には風景として漠としてこそあるものです。扱われるべきものです。個々に具わる感性に立脚し、人生の、特に観念的側面に同伴させたい一要素として。同時にそれは結局飾られていて、作為的で(プレゼンス、ステータス性、経験値の顕現、それら他からの外的孝評を得たいとの欲求に依る作為)、コンプレックス補完云々.. 内的素因が母だとしても、極めて表面的要素に過ぎないという「諦観」が自制とバランスの覚醒と維持を促すのではないかと思っています。
抑制、添削の意を以て「私」の構築を試みる精神。自身にとって、先にあるかもしれない「成熟」をいうならつまりそのあたりのはずです。
長く活発だった「弁じ癖」、、数年前からかブログを書くことにこれを活用しようと実践してきたわけですが、やっと今こそ脱却したいと思っていて。
巧拙問わず、好きな"景色"がアップ出来るなら「引用的知識」や「修辞」で粉飾したくない、表現手法の体裁上レトリックや美的引用を用いるとしてもぎりぎりまで抑えながら。僕の場合そう望むことで、多岐に変遷、好影響はあったと顧しています。
小学生の頃、クラス新聞の作成に粛々と(?)取り組んだのは「作品群」の束積に喜びがあったからです。満足いくものとつまらぬ駄作と、どちらもあったけど、とりどりの作品が集成されることが面白く、大人になってから余暇として好きな事ごとを主題にまた何か書き起こすようになったのが同様の意味であるブログです。
「こういう理由でこのように考えますが(致しましたが)皆さんいかがでしょうか?」「これ、いいですよ!ぜひ!こちらで手に入ります」「ほらこういう素晴らしいのがありますよ!(参考になさって下さい)」
こういうブログを僕は見なくなっています。
「これ、いいなあ!うーん、いい..」(※ニュアンスとして)
適当そのものの例示ですが好きなのが上のように端的な実感の現れているもの。そのひと(書き手)が「これが好きだ」と感じている「景色」を見てみたいと思うので、どちらかというと淡々と滲み出すように描かれている(描こうと意図的にかどうかは別として)いくつかのブログを楽しませて頂いています。その人となりの面白味も静かに感じられるからです。
僕はその程度であって、描いたり捉えたりする際そうあるのが好きなのです。こう書くことの全ては僕が好きな趣向と、嫌いな趣向が明確に隔たっているからに帰結します。でもまたそれも変わっていくことかもしれません。
飛躍すると、生き方、というか自己の社会性に鑑みて、修辞に彩られたものをよしとせずと望んでいるからです。
(カッコつけながらもボタン忘れ)
ここで飛びます。コメント欄をどう義すか。(先ほどもなんともいえない不可解なコメントを見ました)
他者の意見(異見も)をコメントとして伺うのはとても好きです。(論旨を離れた中傷のようなことは少し意味が変わるが)ただ、それが更新を続けている理由ではなくて、コメントを頂くことは目的(作品を現して集成)と別のところで二次的に発生する果実(嬉しいご褒美)そのものです。
共感を示して下さったり、激励を下さったり、ご質問にしても、反芻するきっかけになるような面白く拝見するものがたくさんあります。
一方で、これはファッション系ジャンルのブログに限らず普遍的に、、、もっと反論、批判、諌言、あっていいものと考えます。
お褒めの言葉と同様に、異論、趣旨への疑義などを頂くこともまたご褒美なのです。きれいごとじゃなく。
以前 「どのアイテムもほとんどまともに着ている(使用している)形跡もないですね(※要約)」との批判(皮肉かな)を頂いたことがあります。
他にも「新しいものばかりどんどん増やして、そういうのは生き様としてどうか(※要約)」 と意見を頂いたことも特に印象深かった。
自分としても内実気がかりだったこと。その方がまさしく「意見」を伝達して下さっていることは、僕が好きだと思っている「景色」を「前提からしてあまり感心しないな」と一応率直に評してくれているわけで。嬉しいというのは語弊があるがなぜかストンと心に納まりました。
「今回のはあまり好きじゃないな、、似合っていない、どちらかというとああいうのが似合いそう」とか「いい加減に目を覚ましなさい!」なんてコメントのやりとりが悪意と反感の応酬に依らずに成立したら、簡単ではないがそれもなかなか面白い雰囲気なんじゃないかとちょっと思う。
現在までここのコメント欄に、相対的に多いほうではないかもしれないが覚えてられないほどの、「誹謗」(悪意、悪戯心、様々か)と感じてもさすがに無理はないであろう言葉を頂きました。
多分、嫌いとなるとその相手が何を言っても(きっと食事の際の『いただきます』という発声さえ)気に食わないことってありそうです。服装やそれに類する志向にまつわるとまたひとによって好悪の情は強く働き、剣呑なものに陥っても不思議はなく。。人事物事に好き嫌いの激しい僕にもその傾向があります。(いやに肩入れしたくなる好きな理由にしても嫌いな根拠にしてもなるべく内省するようにとは思っていても)
それらは受け入れ難いけれど、"トイレの落書き"と軽蔑し、あるいは排除して終わらせるべきものだけでもないように思います。その都度の対応。。
内々のノリ(暗黙のうちに斟酌する必要性が生ずるような『空気感』など)が高調子に、ひとつの構成要素にまでなっているような「場」は僕には何となく敬遠すべきものです。(これは割と変わらず昔から) 私生活や実業のシーンに於いてならまだしも、、趣味の合う者同士のネットワークを構築する効果の為にブログを「頑張ろう」と今は思えません。。でもそれは入り込むと楽しいものだろうとうっすら気づいてはいますが。
極論を敢えて。場を「乱すな」という制約を "コメントする一応の権能のある不特定の閲覧者" に課す前提だとすれば、そもそも無制限にブログ公開などしなくていいのではないかとふと思ったりします。求められる「マナー」とは何か、「良識・常識」とは何か。
当事者(だと思っている方々)が好ましい、果ては気分良く、となる環境が"曖昧に"整うことが所詮マナーの維持されている状況なのだとすれば、、、釈然としませんね。。
コメント欄はそこに書き込める環境にある全員のものと原則思う(管理者は主催者だが)。これは特に自戒としたいのです。
ほとんどの方に温度差を感じさせそうな従来の一連の考慮と、それを発しようと思い立つ契機がごく最近あったことから、長くなってしまいました。熱も働き。。
「ファッション」をテーマにしようが、「消費」の側面の "自省録" としようが、僕にとってこの粒の粗いブログを書くことに一切の実利はない。しかしたくさんの無銘の利を頂いています。
"ひとそれぞれ" ..これほど原理的にして正当なあまり、まるで用いるに価しないと感じる言葉も少ない。ですから畏れながら斟酌抜きに上記を更新します。空回りでも仕方ありません。
僕は本来傲慢で、義憤(?)に駆られてたくさん誤解したり、偏見を膨らませたり、家でよく彼女に糾問されて反省、それでコロッと気が変わるなど、、終始そういう者で。
今回は「正しい・悪い」なんてハナから放り捨て、あくまで好き嫌いの原則から書いのですが、とはいえ読んで下さった方々に意見・異論、違和感があるかもしれません(意味がわからない、というのもあるだろうな..)。面倒でなければ聞かせて下さい。面倒なら..いいんです。
昨夜まで雪の北海道。今朝から颯爽と..仕事始めへ。