時間的に余裕がある時、昔仕入れてそのままになっている本をぱらぱらとめくり、楽しむことがある。昔のメモを読み返す時のように、自分の中が掃除されるような感覚になり、すっきりするからだろう。今回は、3-4年前の 「鈴木大拙とは誰か」 (岩波現代文庫)。大拙にゆかりの人の回想録集。いずれもその人となりを語る中に尊敬や愛情が溢れていて、読んでいてすがすがしい気持ちにさせてくれた。
鈴木大拙 (1870 金沢-1966 東京)
この人の一生を見ると、ゆっくりと壮大な絵を描いていたことが手に取るようにわかり、感動を禁じえない。憧れさえ感じる。6歳にして父を、20歳にして母を失い、大きな喪失感の中、仏教に辿り着いたのだろうか。金沢の中学時代は西田幾多郎とともに過ごす。21歳で東京に出、27歳でアメリカへ。イリノイ州ラサールで仏教研究に11年を費やした後、1年ほどヨーロッパを見て周り、39歳で帰国。41歳でアメリカ人ビアトリス・アースキン・レーンさんと結婚。40代は学習院の英語教師、50代は大谷大学で本格的に仏教研究に打ち込む。64歳で文学博士。69歳の時に夫人没。79歳で学士院会員、文化勲章。
その年からスーツケース2つを持って、野垂れ死に覚悟でアメリカへ。ハワイ大学を始めとして、クレヤモント、プリンストン、ハーバード、コロンビア大学などで仏教哲学を講じる。大拙81歳の時、コロンビア大学で華厳哲学について講演をする。その聴衆の中にハイスクールに通う15歳の岡村美穂子がいた。彼女はその後大拙が亡くなるまでの15年をサポートすることになる。不思議な縁である。彼女を伴って88歳で帰国。それからも研究の手を緩めることなく、8年後95歳で生涯を閉じる。臨終の会話は次のようなものだったという。
岡本: Would you like something ?
大拙: No, nothing, thank you.
東洋と西洋の間にある深い深い溝。向こう岸の理性の世界に向けて、禅や日本文化を理性の論理に置き換えて伝えようとした人生と言ってよいだろう。恬淡として、しかし堂々とその一生を生き切ったと言ってもよいかもしれない。正月に相応しいお人柄に触れることができ、たゆとうような満ち足りた時間が流れた。
昨年冬、どういうわけか、西田幾太郎さんの昔の手紙を読んでいました。
そのころ西田さんは、自分の哲学をどのように方向付けるか、迷っていることを、親しい友人に、書き送っています。繰り返し、繰り返し。
その文通のもっとも心のかよう友の一人がアメリカにいた鈴木大拙さんでした。
ところが鈴木大拙さんも、翻訳仕事などをしながら、自分は何を志すべきか、全米を講演して周ろうかなどと、迷っていました。
これらの手紙を読むまで、わたしは、西田幾太郎とか、鈴木大拙という名前を耳にしただけで、その著作をほとんど読みもしないで(いまでも)、この二人が日本の生んだ哲学の頂点にいる人、精神の巨人のように思い込んでいました。
ところがこの二人は「四十にして立つ」といわれる歳になっても心は揺れており、その悩みが、痛いほどわかってきました。
あまりにも長い「心の揺れ」が二人核心だったのです。そのようにしか思えません。
すばらしいことです。
では、道元とは?
道元も迷ったでしょうか。
彼が24歳で、宋へ留学したとき、船中で中国人の僧と知り合いになりました。
そのときの会話に、
道元「何のために中国に自分は行くのか」「私は仏教の真髄を極めに大宋国にいくのです」
中国の僧の発したことばは、
道元にとってはまったく意外でした。
これこそ道元の悟りではなく、迷いのはじまりでした。
しかし道元は、日本にいるとき、夢にみた大宋国の「禅宗」が病深く、いまや衰亡の淵にあることを、見抜くのです。
そのとき彼は二十五、六歳でした。
日本から荒波を越えてやってきてまだ四年足らずの、若い道元に、師天童如浄はある日こういいました。「貴方に曹洞禅のすべてを託する」
天童如浄は道元より四十歳年上、衰退する宋の禅宗のなかにあって、その汚染されていない、達磨以来の源流を脈々と伝える最後の巨岩でした。
道元は日本に帰ると、宇治に草堂を建てます。
そこへ、日本の優秀な若者たちが、道元のもとに集まってきました。若者たちに道元は語り掛けました。そのときの語りかけは、厳しく、優しく、魅力にあふれ、矛盾に満ち、活力がみなぎっていました。Shakespeare も驚く(?)そのdiscourse、語りかけは、道元はこれを亡くなるときまで、二十数年をかけて、推敲をかさね、完成させました。
「正法眼蔵」がそれでした。
鈴木大拙、西田幾太郎、この二人の日本に生まれた魅力ある哲学者の名前をきくと、道元の名も清水のように湧いてきました。
それでMail をお送りせずにはいられなかったのです。
2007.8.28
Kobori Hojo in Nara
kobor@kcn.jp
西田幾多郎さんも苦笑しておられることでしょう。お詫びいたします。
読まれるかたは、全部頭のなかで「幾多郎」と校正してください。
2007.8.28
Kobori Hojo
kobor@kcn.jp
今回、西洋の哲学がどういうものなのか、西洋人はどのように頭を使うのかについて学ぶことになりますが、その上で東洋や日本の哲学を見、自分なりの何かに辿り着くことができれば・・・などと不遜にも考えております。今後ともご教示の程よろしくお願いいたします。
成田のホテルにて
近くの急坂をのぼりかけたとき、薄い雨雲から雨粒が落ちはじめ、即豪雨となりました。私が「杮葺きハウス」と勝手に名づけた古家が目のまえにありましたので、その正門の屋根の下に雨やどりすることにしました。
そして沛然たる虚空をながめていました。
すると、道元の話を、きのう深夜になにげなく見かけた貴方のブログに、二、三落書きさせていただいたことを思いだしました。
私は、以前、といってもむかし、栂ノ尾の高山寺が気に入り、その石水院という書院をときどき訪ねました。
春先、石水院の黒光りした廊下から、濡れ縁にでて、腰をおろしました。すると、もみじの若葉がかさなりその向こうに峰が曲線を描いていました。燃立つようなわかみどりでした。
で、真冬は、同じもみじの細枝が、白くひろがり、全山は雪におおわれ、灰色の空に茫々と小雪が流れていく日もありました。
ここは明恵が古い寺の後に高山寺として建て直したと伝えられています。その明恵は、1173年に生まれていますから、道元より27歳ほど年上だったことになります。
道元は少年時代、高僧明庵栄西((1141-1215)
みょうあん・ようさい)を慕って、建仁寺で修行しました。が、まもなく栄西は亡くなっています。
1223年、道元24歳のとき、栄西の高弟明全について宋へ渡ることになります。
ところが、いま分かったのですが、明恵はこの栄西に禅を師事したとのこと。彼は高山寺を拠点に、衰退していた南都仏教の復興に力を尽すとともに新興の浄土諸宗の勢力拡大と対抗したといいます。
道元は明恵に会ったことがあるかどうか知りませんが、宗派は異なっていても、明恵の存在は意識していたことと想像しています。
明恵は、高山寺のウラ手の山にあった巨石に日夜座禅していた姿を、石水院の掛け軸で見ることができます。
明恵は夢を書き留めてそれが伝世されていました。二十年ほどまえ河合隼雄氏が「明恵 夢を生きる」で、フロイト的な分析をして河合隼雄氏ありと知られましたが、それを、読みたいと思っているうちに、忘れ、忘れているうちに、河合氏はついこの間亡くなりました。
道元の「正法眼蔵」には、海をゆく大魚の、道元自身が大魚になりきったような叙述や、竜樹菩薩が白々とかがやく月明の下で説法する、それに聞き耳を立てている聴衆がすべて経験するおどろくべき共通意識についてかたる章があります。
しかし彼自身の夢を日記に知記していたかどうかは、わかりません。
道元の論理
道元の論理、あるいは弁証法とでも言うべきものがあるかどうかですが、私の印象では、彼の説くところでは、存在そのものは意識の中でしか生成せず、しかしモノというものは、存在しており、また存在していない、という論理になるのではなでしょうか。
私が少年時代から、知らず知らず自他ともに沈殿させてきた論理、つまり矛盾をできるだけ排除することによって客観的に確立した結論に達する、という思考法。正・反・合というように対立を経て生成する論理、あるいは現実という考え方。それらとは、まったく異なった論理が星雲のよう渦巻いている、という強い印象を受けます。
これを、私なりにあえて名づければ「矛盾即存在の弁証法」とでもいえるでしょうか。これこそ混沌たるものですね。ヨーロッパ人のみならず、日本人も道元の思考法に立ち往生してしまいます。
現代人が常に避ける論理であり、それに陥らないように、苦心してきたのですから。むしろ、同じヨーロッパ発でも「量子論」の展開のほうが道元式認識論に親和性があるのかもしれません。
構造主義の巨人、ミッシェル・フーコーは日本に来たとき、禅寺で座禅を観察して、これは「話にならん」ということばを漏らしたとか、伝えきいていますが、もう少し詳しく知りたいところです。
フランスに行かれて、確かめてみられては、いかがでしょうか。21世紀に入ったいまでも、このへんの追及は話題性十分かと存じます。
よきお旅を。
2007.8.29
Kobori Hojo in Nara
kobor@kcn.jp
山を春先、紅葉が
巴里のホテルにて