ままならない人生、
降りかかる不幸、
自分の手には負えない運命が、
行く手には多く横たわっている。
それを一人で
背負わねばならないとしたら、
世界はつらいばかりである。
(用もないのに、奥田英朗)
社会全体で、
国難を背負う、
みたいな表現が
よく使われますが、
それは、社会全体のなかでは、
薄められていくっていうことかな、
とも思います。
テレビで報道される、
東日本大震災の映像や、
大雨台風の被害を受けた映像…
そこには、たしかに、
ふつうじゃない現象が見えてくる。
一方、自分の身のまわりに、
目を戻してみれば、
街には、携帯をいじりながら、
ふだんどおり歩く人、
仕事のために慌しく過ごしている人、
楽しそうにしゃべる子どもたちと、
それを眺める親や携帯に夢中な親。
いつもと変わりない光景が見える。
それが悪いことじゃないと思う。
人一人を見れば、
たいへんなことだけれど、
その一人一人が集まった社会は、
単細胞の生き物というよりは、
いくらでも分割できるムカデの
ような生物のように思えます。
痛手を受けたところがあっても、
そこを抱えながら、
もしくは切り離しながらも、
生きていかれる。
影響を受けることも大切だけど、
影響を受けないことも大切な気がする。
人生には必ず、
手に負えないことが起こりうる、
自分にも他人にも。
他人の苦労を背負ってくれる人が、
身近にいたらラッキーだし、
国に頼ることで対応してもらえる人も、
ラッキーだろう。
けれど、みんながみんな、
そうラッキーでもない。
そうなれば、
目に見えない「偉大な存在」を信じて、
そこに癒しを求めることでしか、
救われない人もいるでしょう。
降りかかる不幸、
自分の手には負えない運命が、
行く手には多く横たわっている。
それを一人で
背負わねばならないとしたら、
世界はつらいばかりである。
(用もないのに、奥田英朗)
社会全体で、
国難を背負う、
みたいな表現が
よく使われますが、
それは、社会全体のなかでは、
薄められていくっていうことかな、
とも思います。
テレビで報道される、
東日本大震災の映像や、
大雨台風の被害を受けた映像…
そこには、たしかに、
ふつうじゃない現象が見えてくる。
一方、自分の身のまわりに、
目を戻してみれば、
街には、携帯をいじりながら、
ふだんどおり歩く人、
仕事のために慌しく過ごしている人、
楽しそうにしゃべる子どもたちと、
それを眺める親や携帯に夢中な親。
いつもと変わりない光景が見える。
それが悪いことじゃないと思う。
人一人を見れば、
たいへんなことだけれど、
その一人一人が集まった社会は、
単細胞の生き物というよりは、
いくらでも分割できるムカデの
ような生物のように思えます。
痛手を受けたところがあっても、
そこを抱えながら、
もしくは切り離しながらも、
生きていかれる。
影響を受けることも大切だけど、
影響を受けないことも大切な気がする。
人生には必ず、
手に負えないことが起こりうる、
自分にも他人にも。
他人の苦労を背負ってくれる人が、
身近にいたらラッキーだし、
国に頼ることで対応してもらえる人も、
ラッキーだろう。
けれど、みんながみんな、
そうラッキーでもない。
そうなれば、
目に見えない「偉大な存在」を信じて、
そこに癒しを求めることでしか、
救われない人もいるでしょう。