今回の大災害で、人材はむしろ地方の村長さんや
漁業のリーダーたちの中に居ることが報道されている。
つい先日、佐賀県知事さんには失礼ながら
「佐賀のがばい県知事さん」とタイトルを付けて、
このブログ上に投稿した。
なんと今朝オフィスに出たら、当の知事さんから
コメント返信をいただいた。
県知事の仕事がいかに多岐にわたりご多忙であるか。
そんな中をひとつのブログを見つけて返信をくださる。
さすがに3万人規模で、東北の被災地で苦労している
方々を迎え入れる用意をなさった方だ。
敬意を新たにした。
3万人が移動して来て、その日から困らないように、
電器製品から布団、食器の類を、すべて5年以上
使った物ははぶいて用意する。その上県庁はじめ、
県内の市町村役場に臨時職員の仕事も与えられる。
女性用には化粧水まで準備されているという。
こう書けば誰でも出来るかに思えるが、なかなか
そうは行かない。
日本にある47の都道府県の中でも佐賀県は、
人口も少ない小さな県だ。
その佐賀が明らかに一歩リードして見せた。
ここに意義があるのじゃないか。
他の大きな府県も、ぜひ佐賀に見習って欲しい。
たとえ被災者が60万人としても佐賀方式でやれば、
20の府県が参加すれば事は足りる。
実はボクには、東北被災地の人々と重なる記憶がある。
日本の敗戦後一年経ってから、旧満州国から引揚げ者
という名の難民として日本に帰ってきたのだ。
いま帰って来たと言ったが、見知らぬ土地への移住が
本当のことだった。荷物は自分で持てるだけだった。
アルバムなど想い出の品なんか、重くて持てやしない。
大村湾に浮かんで待っていた我々が、佐世保上陸を
許されるのに47日も要した。
3300人が乗った熊野丸という名の、陸軍所有の
生き残り空母の中で、トータルでは百人単位の死者
が出た。みんな栄養失調だった。
佐賀の今は鹿島市の一部になった、旧肥前七浦村の
村長さんが遠縁に当たり、佐世保から博多に向う途中駅、
肥前山口まで出迎えに来てくださった。
ピカピカ光る真っ白なおにぎりの美味しかったこと。船中
で高粱ばかり食べさせられていた身には生涯で最高の
ご馳走であった。
お言葉に甘えてお世話になった十日ばかりが、ボク
(当時12歳)にとって至福の時であった。
家の前に有明海が広がる。庭の樹木に泥まみれの
ムツゴロウが目を光らせていた。
村の人々、ボクと同年齢ぐらいの子どもたちも、
皆さん親切で優しい言葉をかけてくださった。
あそこがボクの心の中にある故郷だとの想いで生きている。
全国の皆さん! ぜひ佐賀を見習って欲しい。
ボクは今年から佐賀県鹿島市に「ふるさと納税」を行う。
全村沢山という姓の人ばかりと聞いた。沢山さんが
タクサン住んでおられた村だった。村長さんの名前を
覚えている。勘兵衛さんと言われた。
その方のご長男は当時東京で勉学中であったが、
彬さんというお名前だった。東京ナントカと言う名の
機械メーカーの社長さんだったが、若くして亡くなられた。
合掌
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おなじみの方からのコメントは本当に嬉しいものです。最高裁が国旗に向って起立し君が代を斉唱するのは合憲であるとの判断を下しましたが、こんなことがニュースになること事態が、日本は普通の国じゃなくなったとの想いにかられます。残念なことです。