郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

『八重の桜』第19回と王政復古 前編

2013年05月14日 | 幕末大河ドラマ

 えーと。
 今回、おそらくは最初で最後になるだろう、NHK大河ドラマ『八重の桜』の感想です。
 あるいは、歴史秘話ヒストリア 「坂本龍馬 暗殺の瞬間に迫る」の続きで……、いえ、それよりも8年前のこの記事、モンブラン伯王政復古黒幕説、そしてモンブラン伯の長崎憲法講義の続きでしょうか。

八重の桜 前編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)
クリエーター情報なし
NHK出版


 最初に書いてしまいますが、今回の大河『八重の桜』、いままでのところ、京都におきます政治劇だけは、ストレスを感じず、けっこう楽しんで見ています。つっこみどころがないわけじゃあないのですが、どこの国のいつの時代のつもりなの??? ただのコスプレが見たいならコミケに行くわよっ!!!と、うんざりしますような大きな勘違いはなく、安心して見ることができます。

 ただね、視聴率が低い理由も、わかるような気がします。
 私が楽しんでおりますのは、主人公の八重には関係ない部分でして、八重の身辺の話になりますと、どーでもいい感じよねえ、と本を読んだりしはじめるから、です。

 どうしても『Jin- 仁』の咲さんとくらべてしまいます。

Jin- 仁 OST 最終回 咲さんからの手紙 MISIA ver.


 咲さんの場合、恋だけではなく、医者になりたいというその思いにも切実さを感じますし、婚約を破棄し、母親に勘当され、葛藤をかかえつつ、ひたむきに志を貫こうとします姿が、まっとうな意味で、時代に関係のない普遍的な感興をそそるのだと思うんですね。
 簡単に言ってしまいますと、感情移入しやすい、ってことでしょう。

 森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上において、私、森有礼夫人の常がグラスゴー大学医学部に留学したかもしれない可能性にからんで、以下のようにシーボルトの娘イネのことを書いております。

 とりあえず、常が離婚後にグラスゴウ大学医学部で学んだ可能性です。
 その一つのきっかけになったかもしれない出会いが、明治8年2月に森有礼と結婚し、12月30日、長男の清を生んだときに、あったかもしれないのです。
 清をとりあげたのは、もしかすると、日本で初めての女医といわれるシーボルトの娘・楠本イネではなかったか、というのは、それほど突飛な推測ではないはずです。
 イネは文政10年(1827)の生まれですから、この年、48歳。4年ほど前から東京へ出てきて、異母弟アレキサンダー・シーボルトの援助もあり、産科医院を開業していたんです。評判が高く、宮内省の御用掛にもなって、明治天皇の第一皇子を取りあげたほどでした。
 森有礼の明六社仲間で、常との婚姻契約書の証人でもあった福沢諭吉は、西洋医学を学んだ女医であるイネに心をよせ、妻の姉で未亡人になっていた今泉とうをイネに紹介し、弟子入りさせて、産科医として身を立てる道を歩ませてもいました。
 イネのもとに、福沢諭吉の義姉がいたんです。
 もともと産婆さんは女性ですが、産科医の多くは男性でした。ただ、そのほとんどが医者の娘や妻にかぎられていましたが、女性が産科医になって父や夫を手伝う、というのは、江戸時代かあったことなのだそうです。
 しかしそれは、いってみれば家業の受け継ぎですし、一般の女性に開かれた職業とはいいがたかったわけですが、そういった背景があればこそ、当時、女性が身を立てる高級技術職として、西洋式産科医は有望な職業だったのではないでしょうか。
 

 常の最初の子をとりあげたのはイネではなかったか、という話は、広瀬常と森有礼 美女ありき15に書きましたように、常が父親とともに元大洲藩上屋敷の門長屋に住んでいたことは確かで、どうやら常の父親は、武田斐三郎の紹介で、元大洲藩主・加藤家の財産管理の手伝いをしていたわけですから、可能性が大きくなります。
 なぜならば、イネの娘・タダの夫だった三瀬周三は、大洲藩領の出身で、武田斐三郎と三瀬周三は、大洲の国学者・常磐井厳戈の同門だったりするからです。

 話がそれましたが、当時、女性が医者になることは難しいことでしたが、不可能なことではなく、ちょうど幕末ころから、欧米でも女性に大学医学部への狭き門が、ひらかれようとしていたんです。
 実際、『Jin- 仁』の原作漫画では、咲さんとイネとの出会いが描かれていまして、幕末におきまして、女が医者になることは、現実にがんばれば望みはかなう!ことでした。

 一方、ですね。
 女が鉄砲を持ったからって、なにになるんですかね?
 当時の西洋近代軍隊は、女性に開かれておりませんでした。
 まあ、南北戦争に男装して従軍した女性がいたり、というような話はありますが、郷土が戦場になるような場合のイレギュラーな例でしかありませんし、職業軍人になる道は、閉ざされておりました。

 結果的に、八重が戊辰戦争の会津籠城戦で戦いましたことは、あきらかにイレギュラーな例で、それ以前に八重が鉄砲を手にしていましたのは、趣味でしかないんですね。
 年頃の武士の娘が趣味にのみ没頭し、そのわりには周囲との葛藤がほとんどなく、暖かく趣味を許容してくれる夫にも恵まれ、気楽に暮らしているだけですから、ああ、そうですか。と、見ている方は、ドキドキ感がまるでなく、どうでもよくなってしまうんです。

 おそらく、戊辰戦争までは見ると思いますが、京都時代は、どうですかね。
 桐野の愛人で、新島襄のもとで洗礼を受けていたといわれます村田サトさんが出てきたら、見ます! 会津開城式の官軍代表・薩摩の桐野の愛人だった、ということで、八重さんにいじめられたりしなかったんでしょうか(笑)

 ともかく。
 あと、ストレスなく楽しめます京都の政治劇で、これはちょっと……とつっこみたくなりましたのは、NHK大河ではいつものことなんですが、勝海舟が後年の大ボラ回顧談そのままに大活躍しすぎ、なのと、秋月悌次郎にからみまして、失脚の理由が池田屋事件って、悌次郎が「貶められて」蝦夷(北海道)の斜里に左遷されましたのは慶応元年9月のことでして、池田屋事件はそれより一年以上も前のことですから、あんまりにもばかばかしく、そのことにも関係しますが、最大の欠陥は、新撰組を馬鹿にしすぎ!な点、ではないでしょうか。

 秋月悌次郎に関しましては、一夕夢迷、東海の雲でご紹介しております、松本健一氏の『秋月悌次郎 決定版 - 老日本の面影』
がよかったのですが、最近出ました徳田武氏の『会津藩儒将 秋月韋軒伝』も、あまり憶測をまじえることなく、淡々と書かれました労作です。

会津藩儒将 秋月韋軒伝
徳田武
勉誠出版


 現在まだ、飛ばし読んだだけなのですが、ただ、一つ、時期の特定を間違えておられるかな、と思えます部分があります。
 後年の秋月の語り残し(牧野謙次郎『維新伝疑史話』)に、「薩長の密約が成ったという説が盛んになっていたので、昔から知っていた小松帯刀を、京都の薩摩藩邸に訪ねたが、他に用件があって会えないといわれた。一日待っていたが会えず、実は、薩長の密約はこの日をもって京都においてなった」 というような話があるのだそうですが、これを徳田氏は、「密約とは、慶応元年6月24日、京都で西郷と龍馬、慎太郎が会談して、薩摩が長州の武器購入に名義貸しを約束したことを言うのだろう」と、推定しておられます。
 先に書きましたように、秋月は慶応元年の9月には蝦夷にとばされ、一般に薩長同盟が結ばれたとされます慶応2年の正月には、京都にいないからです。

 しかし、慶応元年6月には、小松帯刀が京都にいません。

 
小松帯刀 (人物叢書)
高村 直助
吉川弘文館


 上の本によりますと、この6月、小松帯刀は薩摩にいて、6月23日に薩摩を出立、26日に長崎に到着しているんだそうです。
 松浦玲氏は『坂本龍馬 』(岩波新書)で、近藤長次郎たちは、あるいはこのとき、小松に伴われて長崎に出たのではないか、と推測されています。

 結局、語り残しですから、おおざっぱな話でしょうし、秋月が再び京都へ呼び戻されました慶応3年、「討幕の密勅が出た日」のこと、と考えれば、ぴったりするのではないでしょうか。

 私、大政奉還と桐野利秋の暗殺に次のように書いております。


 この3日後の朝彦親王日記に、赤松暗殺のことが見えます。
 朝彦親王とは、青蓮院宮。8.18クーデターの中心人物で、佐幕派です。
 もともとは、薩摩藩と良好な関係だったのですが、薩摩が長州よりに大きく舵をきって以降、一会桑政権との連携を深めてきたお方です。

 慶応3年9月6日
 深井半右衛門参る。過日東洞院通五条付近にて薩人キリ死これあり候風聞のところ、右人体は信州上田藩洋学者赤松小三郎と申す者のよし、右人体天誅をくわえ候よし書きつけこれあり候。
 もっとも○十印、よほどこのころなにか計これあるべくか内情難斗よし、よほど苦心の次第仍摂公へもって封中申入る。もっとも秋月悌次郎へ申し入る。

 やはり、どうも、秋月悌次郎がかかわっていた可能性が高まります。
 そして、高崎正風の日記。(fhさまのご厚意です)

9月29日条。
朝、小松を叩、秋月(会)堀(柳河)を訪、後、大野と村山に行。

 やはり、秋月悌次郎に会っています。
 ふう、びっくりしたー白虎隊でも書きましたが、後年、秋月が熊本の第五高等中学校で漢文を教えていたところへ、高崎正風がたずねて来ます。8.18クーデターから30年数年の後、二人は終夜酒を酌み交わし、秋月は翌日の授業の準備も忘れるのです。
 私、なにかこう、ですね、中村彰彦氏の小説に出てくるように、慶応三年の高崎が、秋月に冷たくて、居留守を使うような状態であれば、このときの会合が、それほど秋月にとって、心に響くものとはならなかったと思うのです。
 クーデターを成功させた二人が、時勢の変化をかみしめ、それでもなんとかならないものかとあがいてみた、そんな共通の体験があったのではないでしょうか。
 

 大政奉還 薩摩歌合戦もあわせてごらんいただきたいのですが、大政奉還の時期、薩摩も一枚岩ではなく、秋月は高崎正風に会っています。
 そして、徳田氏によりますと、秋月はこのころ、ひじょうに朝彦親王の信頼を得ていて、しかも、幕府の大小目付で、9月11日に暗殺されました原市之進の代わりとして、朝彦親王が新撰組の近藤勇を推薦しようとしたことに、大いに賛成しているのだそうです。

 池田屋事件のとき、会津藩の意向を無視しまして、新撰組がつっぱしった、という『八重の桜』の設定からしておかしなものだったのですが、ドラマのように、秋月が新撰組を迷惑視したかのような描き方は、妙なものだった、といわざるをえません。

 えーと。
 『八重の桜』が描きます王政復興にまで話が進む前に、話が長くなりすぎましたので、後編に続きます。
 今回はけなしてばかりでしたが、後編では褒めます(笑)。

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