長州三田尻、現在の防府は、毛利水軍の根拠地だった港湾都市で、江戸期を通じて、軍港、商港として栄えました。
幕末、七人の公卿が八・一八政変で京都を追われ、長州に身をよせましたが、その落ち着き先が、三田尻の招賢閣だったのです。尊皇討幕派の諸国の志士たちが、招賢閣をめざして集まり、そしてその多くは、維新を見ることなく命を落としました。
池田屋で闘死した郷土の男
上のページで、招賢閣について書いたとき、ざっとぐぐってみましたら、「今はない」と書いているサイトさんが多くて、あれ? っと思ったんです。
「ぐぐったところ、どうも現存していないようですね。そういえば、取り壊しのニュースを見たような気がします」
と書きはしたものの、慌てて写真をひっぱり出し首をかしげ、ぐぐりなおしてみました。
と、なんだか、謎は深まるばかりなんですが、とりあえず、現存はするようです。
十数年前の写真ですが、招賢閣と呼ばれた、山口県指定史跡・三田尻御茶屋(旧構内付大観楼)の門と説明書きの看板です。
御茶屋は、参勤交代の折りの宿舎などに、毛利家が使っていた施設で、七代藩主の隠居所となったこともあって、かなりの広さがあり、複数の建物がありました。幕末になって、招賢閣と呼ばれたわけなのですが、看板の解説は、昭和56年、山口県と防府市の教育委員会によるものです。七卿が宿舎としたのは、本館(大観楼)で、それは跡形もなく、付随していた旧構内のみが、史跡として残っている、というように読めます。
門の中、こちらが英雲荘です。英雲荘については、下の「坂本龍馬と海援隊へようこそ!!」というサイトさんのページをご覧になってみてください。
龍馬脱藩の道独り旅 6 海路を上関・三田尻へ
文久3年8月京都の政変で都を追われた七卿が、三田尻に滞在するにあたり、長州藩はこの地に設けられていた行政の拠点・「三田尻御茶屋」の「英雲荘」を休泊所として提供した。この時、諸国の尊攘派志士たちも七卿を慕い長州藩を頼って、続々と三
田尻へ集結してきた。長州藩はその対応策として、「英雲荘」の構内に志士たちの宿舎として「招腎閣」を設けたのである。
(中略)
なお、現在の「英雲荘」は後に立て替えられたもので、往時の建物ではない。
こちらでは、この「英雲荘」が志士たちの宿舎だったことになっているんですよね。
現地で、教育委員会だったかの方に、お話をうかがったはずなのですが、さっぱり覚えてません。
ただ、七卿が、だったか、志士たちが、だったか忘れたのですが、英雲荘も使ったと、お聞きしたと思うのです。
そして、たしかに「立て替え」ではあるのですよね。幕末の建物がそのまま残っていたら、建物も文化財に指定されるはずなんですが、されていませんでしたし。
ただ、上のサイトさんが載せておられる古写真と、私が撮った写真は、そっくりです。
こちらは茶室「花月楼」。これも古写真とそっくりでしょう?
そっくりに再建したと、お聞きしたように思うのです。それも、かなり以前に。
ともかく、十数年前の時点で古びていました。
英雲荘の内部です。
畳敷きだったはずの部分が、かなり安手の赤い絨毯になっていたりしました。
廊下が畳敷きだったということは、かなり豪華で、七卿がこちらにいた可能性は高いように思います。
七卿の居室と聞いて、写真に撮ったような気がするのですよねえ。
だとすれば、やっぱりそっくりな再建で、またこの英雲荘も、七卿の宿舎としてか、あるいは会議場としてか、ともかく、招賢閣の一部として、使われていたにはちがいないのです。
有限会社ユニックさんの下記ぺージも、英雲荘七卿宿舎説ですね。
最近取材されたもののようですし、防府市教育委員会は、そういう説なのかも、です。
防長歴史紀行 周防国府のまち2
幕末の文久3年(1863)月、京都の政変で当時急進派だった三条実美(さんじょうさねとみ)ら7人の公卿が退けられ、長州藩もまた京都を追われた。そこで、三条実美ら七卿は長州に逃れ、三田尻港に入り、藩主敬親(たかちか)はお茶屋(英雲荘)を七卿の宿舎にあて、構内には七卿やその他の志士の会合所を設け招賢閣といった。
英雲荘、二階からの眺めです。
建物も、当時そのままではないですし、三田尻も大きく変わったでしょうけれども、こうして若い志士たちも、空を眺めたかな、と。
空に聴く昔日の声 夏周防 郎女
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上のページで、招賢閣について書いたとき、ざっとぐぐってみましたら、「今はない」と書いているサイトさんが多くて、あれ? っと思ったんです。
「ぐぐったところ、どうも現存していないようですね。そういえば、取り壊しのニュースを見たような気がします」
と書きはしたものの、慌てて写真をひっぱり出し首をかしげ、ぐぐりなおしてみました。
と、なんだか、謎は深まるばかりなんですが、とりあえず、現存はするようです。
十数年前の写真ですが、招賢閣と呼ばれた、山口県指定史跡・三田尻御茶屋(旧構内付大観楼)の門と説明書きの看板です。
御茶屋は、参勤交代の折りの宿舎などに、毛利家が使っていた施設で、七代藩主の隠居所となったこともあって、かなりの広さがあり、複数の建物がありました。幕末になって、招賢閣と呼ばれたわけなのですが、看板の解説は、昭和56年、山口県と防府市の教育委員会によるものです。七卿が宿舎としたのは、本館(大観楼)で、それは跡形もなく、付随していた旧構内のみが、史跡として残っている、というように読めます。
門の中、こちらが英雲荘です。英雲荘については、下の「坂本龍馬と海援隊へようこそ!!」というサイトさんのページをご覧になってみてください。
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田尻へ集結してきた。長州藩はその対応策として、「英雲荘」の構内に志士たちの宿舎として「招腎閣」を設けたのである。
(中略)
なお、現在の「英雲荘」は後に立て替えられたもので、往時の建物ではない。
こちらでは、この「英雲荘」が志士たちの宿舎だったことになっているんですよね。
現地で、教育委員会だったかの方に、お話をうかがったはずなのですが、さっぱり覚えてません。
ただ、七卿が、だったか、志士たちが、だったか忘れたのですが、英雲荘も使ったと、お聞きしたと思うのです。
そして、たしかに「立て替え」ではあるのですよね。幕末の建物がそのまま残っていたら、建物も文化財に指定されるはずなんですが、されていませんでしたし。
ただ、上のサイトさんが載せておられる古写真と、私が撮った写真は、そっくりです。
こちらは茶室「花月楼」。これも古写真とそっくりでしょう?
そっくりに再建したと、お聞きしたように思うのです。それも、かなり以前に。
ともかく、十数年前の時点で古びていました。
英雲荘の内部です。
畳敷きだったはずの部分が、かなり安手の赤い絨毯になっていたりしました。
廊下が畳敷きだったということは、かなり豪華で、七卿がこちらにいた可能性は高いように思います。
七卿の居室と聞いて、写真に撮ったような気がするのですよねえ。
だとすれば、やっぱりそっくりな再建で、またこの英雲荘も、七卿の宿舎としてか、あるいは会議場としてか、ともかく、招賢閣の一部として、使われていたにはちがいないのです。
有限会社ユニックさんの下記ぺージも、英雲荘七卿宿舎説ですね。
最近取材されたもののようですし、防府市教育委員会は、そういう説なのかも、です。
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英雲荘、二階からの眺めです。
建物も、当時そのままではないですし、三田尻も大きく変わったでしょうけれども、こうして若い志士たちも、空を眺めたかな、と。
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幕末長州 |
今度、長州の若者5人を描いた映画がしますねーー♪♪ 長州★日本一ッ!!!!!