郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

陸軍分列行進曲は鹿鳴館に響いた哀歌

2007年01月02日 | 明治音楽
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戦前日本の名行進曲集~陸軍軍楽隊篇~
行進曲, 陸軍軍楽隊
キングレコード

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あけましておめでとうございます。
元旦には初詣のはしごをしまして、最後は護国神社でした。いえね、うちの地方では、おそらく護国神社がもっとも初詣客が多いんです。
いつも行く近所の延喜式内社、つまり10世紀初頭から朝廷に認められていた由緒ある神社ですが、ここもまあ、かなりの人出ではあります。次に、藩政時代に藩主がこの式内社から分祀したような形の神社で、非常に格式は高いのですが人出の少ないところへ行き、そして最後が、人であふれる護国神社でした。
それで、というわけではないのですが、本日は帝国陸軍分列行進曲のお話しです。
このCD、戦前の帝国陸軍軍楽隊の演奏がおさめられていまして、トップが分列行進曲。

YouTube『学徒出陣』 昭和18年 文部省映画(2-1)

昭和18年、雨の神宮。当時女学生だった母は、学校でこの映画を見ていて、私が子供の頃、幾度もそのときの哀切な思いを話してくれていました。このとき、ずっと流れていた曲が、帝国陸軍分列行進曲です。
ところが、です。なつかしいだろうと思いまして、「これ、なんの曲かわかる?」と、母に聞かせてみましたところが、「なんだか、聞いたことがある曲ねえ。トルコの行進曲じゃない?」といわれて、がっくりきました。
「忘れたの? 陸軍の分列行進曲よ。雨の神宮でも流れていたでしょ?」というと、さすがに思い出しましたが、母に言われてみれば、どことなくトルコの軍楽に似ているんですよねえ。下のサイトさんに、「旧日本陸軍分列行進曲 抜刀隊」と「トルコ軍楽 古い陸軍行進曲ジェッディン・デデン(先祖も祖父も)」と両方ありますから、聞きくらべてみてください。もっとも、分列行進曲の方は、前奏が略されています。

MIDI pro musica antiqua 軍楽等のコーナー

さがしていたら、陸上自衛隊中央音楽隊の演奏がありました。帝国陸軍分列行進曲は、現在も陸上自衛隊に受け継がれているのです。

YouTube JSDF MARCHING FESTIVAL 2006

下は、ロック調ジェッディン・デデン(先祖も祖父も)です。あまりによかったので、ついリンクを。YouTubeには、メフテルの正調演奏もいくつかあるようですので、聞いてみてください。

YouTube zafer i?leyen ceddin deden

実は最近、前田愛著『幻景の明治』という本を読みました。これに「飛ぶ歌 民権歌謡と演歌」という章がありまして、否定的なニュアンスで、陸軍分列行進曲(抜刀隊の歌)が取り上げられていたんですね。
先ほどから、陸軍分列行進曲イコール抜刀隊の歌のように書いていますが、厳密にはイコールではありません。しかし、陸軍分列行進曲は、抜刀隊の歌を取り込んでいるのです。抜刀隊の歌は、明治10年、西南戦争時の軍歌です。

天翔艦隊 軍楽隊 抜刀隊

こちらのリンクに歌詞が載っておりますが、官軍、つまり政府軍の側の軍歌です。
しかし「天地容れざる朝敵ぞ」と歌いながら、「敵の大将たる者は、古今無双の英雄で、これに従うつわものは、ともに剽悍決死の士」と、西郷軍を褒め称えていまして、なんとも不思議な軍歌なのです。
作詞は外山正一。元幕臣です。幕末も押し詰まった慶応2年、林董(蘭医佐藤泰然の子で松本良順の弟。函館戦争に参加。日露戦争時のイギリス大使で日英同盟の立役者)などとともに、19歳にしてイギリスに留学しました。瓦解によりやむなく帰国しますが、外務省にひろわれ、薩摩のイギリス留学生だった森有礼の引き立てでアメリカ留学。化学と哲学を修めて学者となり、東京帝国大学初の総長となった人です。

東京大学コレクション 幕末・明治期の人物群像 幕末の遣欧使節団 5.幕府イギリス留学生

明治15年、正一は『新体詩抄』を発表しますが、その中に、この『抜刀隊』がありました。「フランスの『ラ・マルセイエーズ』やドイツの『ラインの守り』のような愛国歌に倣って作ってみた」という詩なんです。
作曲は、フランス人お雇い軍楽教師のシャルル・ルルー。ルルーを雇ったのは、西郷隆盛の従弟である大山巌です。

前田愛氏によれば、堀内敬三氏がこういっていたのだそうです。
「ビゼーの『カルメン』を下敷きにつくられた『抜刀隊』のメロディーは、『ノルマントンの歌』から『小川少尉の歌』を経て、添田唖蝉坊の名作『ラッパ節』にいたるまで、演歌のもっとも代表的な旋律としてうたいつがれた」
とりあえず驚いたのは、「ビゼーの『カルメン』を下敷きにつくられた」という部分です。初耳でした。

SigMidi MIDIダウンロード

上のサイトさんで、ビゼー「カルメン」組曲1番 アルカラの龍騎兵、を、お聞きになってみてください。たしかに最初の部分が似ています。
ビゼーはフランス人で、歌劇『カルメン』の初演は1875年(明治8年)、パリのオペラ・コミック座。シャルル・ルルーが、そのメロディーの一部を、日本での作曲に使ったとしても、なんの不思議もないわけなのですよね。
ただ、ふと、ビゼーもまた、どこかからこの旋律をひろった可能性はないのだろうか、と思ったりします。どこかって、もちろん、トルコの軍楽です。
以前にヤッパンマルスと鹿鳴館でも少し書きましたが、西洋のマーチ、行進曲は、オスマントルコの軍楽の多大な影響を受けて成立したものです。

ジェッディン・デデン(祖先も祖父も) トルコ軍楽隊

バー ステイツ コラム

上のバー ステイツ コラムさんの投稿「Vol.174 ウィーン包囲 投稿者:KEN1 投稿日:2004/05/09(Sun) 16:04 No.553」が、とても詳しく、トルコ軍楽の西洋音楽への影響を、まとめておられます。
さらにいえば、『カルメン』の中で一番有名な『ハバネラ』なんですが、ビゼーは、キューバのハバナの民謡と信じた曲をモチーフに使っているんですね。その曲は民謡風でしたが、実はスペイン人の作曲者がいて、裁判沙汰になったりしています。

さて、堀内氏の「演歌のもっとも代表的な旋律としてうたいつがれた」という後半の部分なんですが、前田愛氏は、さらにこの旋律から、「私の家内が、群馬県の疎開先で聞きおぼえた手合わせ歌を三十年ぶりにおもいだしてくれたのである」とおっしゃるのです。

ごんべ007の雑学村 なつかしい童謡・唱歌・わらべ歌・寮歌・民謡・歌謡

上のサイトさんに『一かけ二かけて』というわらべ歌があります。これがその「手合わせ歌」です。

一掛け二掛けで三掛けて 四掛けて五掛けて橋を架け
橋の欄干手を腰に はるか彼方を眺むれば
十七八の姉さんが 花と線香を手に持って もしもし姉さんどこ行くの 
私は九州鹿児島の 西郷隆盛娘です
明治十年の戦役に 切腹なさった父上の お墓詣りに参ります
お墓の前で手を合わせ 南無阿弥陀仏と拝みます
お墓の前には魂が ふうわりふわりとジャンケンポン

昔、NHKの大河ドラマで司馬遼太郎氏の『翔ぶが如く』をやったんですが、そのラストで、この歌がうたわれていたんです。
私にとっては、まったく知らない童謡だったんですが、いっしょに見ていた父母が、突然、声をあわせて歌いはじめて、びっくりしました。なんでも手まり歌で、子供の頃によく、この歌を歌いながらまりをついて遊んだんだそうだったんです。
似ているんでしょうか? 陸軍分列行進曲、抜刀隊のメロディーに。
いえね、明治から昭和へ、戦前の日本に流れていた、どこか哀しく、それでいてなぜかなつかしいような、そんななにものかが、地下水脈となって、陸軍分列行進曲とこの手まり歌をつないでいることは、感じられもするのですが。

江藤淳氏の晩年の著作に、『南洲残影』があります。
最初にこれを読んだとき、ほんとうに久しぶりに泣きました。
なんといえばいいんでしょうか、『海は甦える』で、明治海軍を取り上げ、近代海軍が代表する西洋近代の合理性を、肯定的に描いた江藤氏が、まさかこんな風に西南戦争を描き、西郷軍とともに滅び、そして先の敗戦で再び滅びた「何ものか大きなもの」、「もう二度と取り戻すことができないもの」への哀惜の情をつづられようとは、思いもかけないことでした。
そして私は、この本ではじめて、陸軍分列行進曲と抜刀隊の関係を知ったのです。
江藤氏によれば、シャルル・ルルーが作曲した日本陸軍分列行進曲は『扶桑歌行進曲』という曲で、後に定まって、雨の神宮でも流れた日本陸軍分列行進曲とは、似ても似つかないものだったのだそうです。
ルルー帰国後、陸軍分列行進曲は変遷を経ますが、最終的に、扶桑歌行進曲の前奏のみを残し、同じシャルル・ルルー作曲の『抜刀隊』に入れ替えられたのだというのです。
「この改変の過程から浮かび上がって来るのは、明治の日本人にとって『抜刀隊』の歌が、いかに特別な歌だったかという動かし難い事実である」と江藤氏。

実は、『抜刀隊』の歌が最初に演奏されたのは、明治18年の鹿鳴館だったのです。
それを、前田愛氏は、皮肉なこととして描いておられますし、江藤氏もまた「少々グロテスクな様相」としています。
しかし、続けて江藤氏は、『抜刀隊』を作曲したルルーの心情について、「作曲者自身に国籍を超えた西郷への共感がなければ、あのような曲譜が生まれるはずもないではないか」とし、またルルーを雇った大山巌の存在を描きます。
さらに、作詞の外山正一についても、「この稀代の秀才が、その心の奥底に西郷、桐野や貴島の、そして特攻隊の諸士のエトスに通じるものを共有していたとしても、少しも不思議ではない。外山もまた二十一歳のとき、幕府留学生として滞在していた英京ロンドンで、幕府の瓦解、つまりは滅亡を遠望していた一人だったからである」というのです。
鹿鳴館の舞踏会もまた、二度と帰りこないものへの哀惜とともにあった、悲壮な舞いであったのかもしれないのですよね。それがいかに皮相に見えようとも、そうせざるをえなかった人々の心情としては。

『南洲残影』の最後もまた、あの不思議な手まり歌で結ばれるのです。

お墓の前には魂が ふうわりふわりとジャンケンポン


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コメント (4)
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