郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

花びら餅と和製ピエスモンテ

2007年01月26日 | 幕末文化
昔、母がお茶の先生から、花びら餅をもらってきました。
たしか、そのお茶の先生が、京都で買ったかもらったかしたもののお裾分けだったんですが、ともかく、おいしかったんです。やわらかい白い羽二重餅が、ほんのりと紅を透かして、食べると、白味噌の風味と牛蒡の芳しさが、ふんわりと口にとけて出まして。
正式の名は、菱葩(ひしはなびら)。江戸時代、京の朝廷で、正月に食べられていたお菓子だと聞きまして、納得の雅な趣でした。
以降、花びら餅と称するものを、何回か食べたことがあるんですが、これがまったく味がちがうんです。餅の部分が堅かったり、白味噌の風味が利かず、甘すぎたりしまして。
ネットで調べましたところ、老舗中の老舗は京都の川端道喜とのこと。しかし、電話で予約した上、12月末の3日間の間に京都のお店で受け取り、となりますと、とても買えるものではありません。
今年の正月、通販しているところをさがし、買ってみました。



悪くはなかったんですけど、やはり、あの昔食べた味とはちがっていました。
薄紅の菱の入り方と、あとはやはり、白味噌の風味が足りなくて、甘いんですよねえ。

『和菓子の京都』

岩波書店

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上は十五代川端道喜氏の随筆のような本です。川端道喜といえば、粽が有名、といいますか、一月の花びら餅をのぞけば、粽しか置いていない和菓子屋さんですが、それほど凝ったお菓子でもない粽を、ともかく材料を厳選し、手間暇惜しまず、昔ながらに作っている様子を読みますと、これは一度は食べてみなくては、という気になります。
川端道喜は餅屋さんで、朝廷に餅を納めていたのであって、お菓子ではない、ということなのですが、季節の行事によって、さまざまな餅を納めていた江戸時代の話は、とても興味深いものです。
明治、天皇の東行に従わないで京都に残り、明治4年には、東京に呼ばれて、これまでの御定式を伝えたのだそうです。そして、京の川端道喜は、お茶菓子の店になったのだとか。

朝廷料理といえば、白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理で書きました、幕末幕府の饗応に登場します和風ピエスモンテ、です。幕末の幕府料理役で、明治朝廷の料理人となった石井治兵家の『続 料理法大全』の復刻版を見まして、驚きました。M・ド・モージュ侯爵の描写力は、的確です。
野菜を刻んで花を作ったり、鶴と松、ススキにウサギなどの飾り物を作る方法が、絵入りで載っているのですが、これがもう、牡丹といい菊といいカキツバタといい、気が遠くなるほど手が込んだ細工なんです。たしかに、フランス貴族もびっくりの盆栽と花束、だったことがわかります。
その前書きに、石井治兵家のことが以下のように書いてあります。

延宝の頃に伊勢の国から江戸に出て、京橋鈴木町(その頃魚市場)に住んで、元禄、宝永、正徳と続いて、料理師範と幕府用達をして、勅使参考、朝鮮人来聘、また諸家の馳走などを引き受けた六代目石井治兵衛と七代目の新形の教授目録(手記は文化・文政。新形は天保以来明治十年頃まで)によって、むき物、むき花、作り物などの名目を記載する。

こうなってきますと、幕末の石井治兵衛さんが、フランス使節団正式饗応料理を手がけたことは、確かなことのように思えるのですが、わからないのは「幕府用達」という言葉です。御台所組頭といったような、幕府の正式な役人ではなく、お抱え料理士みたいな形なんでしょうか。
ペリーのときにも、正式な饗応料理は、石井治兵衛さんが受け持ったのでしょうか。料亭の仕出しだという話も伝わっていますから、両方使い分けたとも考えられます。
宮廷料理と装飾菓子 で紹介しましたリュドヴィック・ド・ボーヴォワール伯爵などは、正式の使節ではありませんから、幕府の接待を受けたのは、料亭であったと書いていたりします。


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