『秋霖譜 森有礼とその妻』東京書籍このアイテムの詳細を見る |
これまで、たびたび出てまいりました、薩摩幕末イギリス留学生の森有礼。
江戸は極楽である に写真を載せておりますが、とても濃ゆいお顔立ちです。
実は、このお方は、日本で最初に西洋風の結婚式を挙げたといわれています。その時の相手、最初の妻は、幕臣の娘で広瀬常。
このお常さん、イギリスの駐日外交官、アーネスト・サトウが「美しい」と日記に書き残すほどの美貌で、鹿鳴館の花でもあったんですが、その鹿鳴館時代に、青い目の子供を……、つまり、いくら森有礼が外国人のような人だったとはいえ、生粋の日本人、薩摩隼人ですから、不倫をして外国人の子供を産んだという噂が立ち、そして実際、その後まったく人前に姿を現さなくなって、そのまま離婚に至っているんですね。
それで、以前にもバロン・キャットと伯爵夫人 でご紹介しました、近藤富江氏の『鹿鳴館貴婦人考』では、それが事実であったように書かれていました。その子供が女の子で、幼児のうちに養子に出されていることは、森有礼全集収録の戸籍から明白なんです。
「安」と名付けられたその子は、当初は有礼の兄の一家・横山家の養子、ほどなく原宿村の平民で、森家とはまったく血縁のない家にもらわれ、高橋安となりました。もしも不倫の子でなかったのであれば、ここまでするのは不自然です。
山田風太郎氏もまた、その「事実」を元に、『エドの舞踏会』の中の一編を書かれています。
もう20年以上前のことです。私は、この青い目の子を産んだというお常さんの生涯に、とても関心を持ちました。
なにかに、夫森有礼のイギリス公使時代、公使夫人として過ごしたロンドンで、洋装で子供を抱いているお常さんの写真が載っていたのですが、しっくりとドレスを着こなしながら、どこか寂しげで、そして、たしかにとても美しい女性でした。ただ、現在発行されている『明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム』においては、その私が見た写真はお常さんのものではなく、同時期にロンドンにいた総領事・園田孝吉の婦人のものだとされています。だとすれば、お常さんの写真は現存していないこととなり、やはり、有礼がすべて破棄したわけなのでしょう。
ともかく、です。『勝海舟の嫁 クララの明治日記』には、森有礼夫人であった時代の現実のお常さんが登場し、身近に感じられて、想像が、といいますか、妄想が、でしょうか、どんどんひろがっていく感じでした。
クララの明治日記の著者、クララ・ホイットニーの父親は、商法講習所の教師として、森有礼に招かれ、明治8年、一家をあげてアメリカから日本へ渡ってきたのです。後にクララは、勝海舟の息子と結婚し、別れて、アメリカで子供たちを育てますが、日本に来た当初からしばらくの少女時代、克明に日記をつけていて、常夫人のドレスまでもが、細かく描写されていたりするんです。
そんな風にお常さんが気になっていたとき、巡り会ったのが、森本貞子氏の『女の海溝 トネ・ミルンの青春 』でした。
後のトネ・ミルン、堀川トネは、西本願寺函館別院の住職の娘として生まれ、イギリスから政府のお雇い外国人として招かれていた地震学者のジョン・ミルンと知り合い、結婚します。明治28年、トネは帰国する夫に従い渡英。夫の死後まで、イギリスで暮らした女性です。
で、どこに常とトネの接点があるかといえば、開拓使女学校なんです。
開拓使とはなんぞや、といいますと、蝦夷、つまり北海道を開拓するための役所なんですが、ロシヤの南下を危惧していた明治新政府は、明治3年に薩摩の黒田清隆に樺太の視察を命じます。すでに樺太にはロシアの移民が入っていて、危機感を抱いた黒田は、開拓使長官となり、北海道開拓のために、さまざまな策を講じるのです。
開拓といえば、当時めざましかったのは、アメリカの西部開拓です。それを見習うべく黒田は、同じ薩摩出身でアメリカにもいたことのある森有礼に、意見を聞いたらしいのですね。
それで出てきたのが、地質学者など、アメリカから専門家を招き、北海道の殖産興業の可能性をさぐることと、もう一つは、開拓のための人材を育てることです。
一見、迂遠なようでもあるのですが、森は黒田に女子教育の必用も説き、有名な津田梅子など、5人の少女のアメリカ官費留学が実現するのですが、明治5年、東京芝の増上寺に設けられた開拓使仮学校(後に札幌に移す予定だったので仮学校と呼ばれました)には、女学校も併設され、授業料は官費で賄われることになりました。
静岡にいた常、函館にいたトネは、請願し、選ばれて、この開拓使女学校で学ぶことになったんです。同級生でした。
森本貞子氏は、トネの生涯を描きながら、常にも目を向けられ、他の本ではあまり触れられていなかった開拓使女学校時代の常の災難や、有礼と離婚後の常の手がかりを、掘り起こされていたのです。
災難とは、40になる開拓使お雇いアメリカ人鉱山技師のライマンが、常と結婚したい、と望んだことでした。どうやら、その常を助けるために、森有礼が結婚を申し込んだようなのですね。
森本貞子氏も、このときは、有礼夫人となった常が、青い目の不倫の子を産んだ末に離婚されたらしいことを、否定はなさっていませんでした。ただ、「モリ・イガ」と名乗る謎の日本女性の学籍簿を、スコットランドのグラスゴー大学医学部で見つけられ、これが離婚後の常ではないか、とされていたのです。モリ・イガの出身地は東京芝、つまり開拓使女学校のあった場所になっていて、ハワイを経て、カリフォルニアのクーパー・カレッジを卒業、そして、グラスゴー大学となっていました。
これでもう、私の妄想はかぎりなくひろがり、ついに、その青い目の女の子を主人公に、ハーレイクインロマンスを書くにいたりました。いま見てみれば、赤面ものの内容なんですが、そのころサンリオが募集していたロマンス賞に応募して、一応、佳作だったかにはひろわれ、わずかながら賞金もいただいたものです。
あー、アールヌーボーの時代で、衣装やアクセサリーを書くのも、楽しかったんです。
母を訪ねて何千里、ってやつだったんですが、お常さんのほかに、実在の人物で登場するのは、津田梅子ととともにアメリカに留学し、帰国後に大山巌夫人となって、やはり鹿鳴館の花とうたわれた、会津出身の山川捨松。
それにもう一人、森有礼とともに幕末の薩摩藩留学生だった長沢鼎です。長沢鼎は、最年少だったため、森のようにロンドンで学ばず、ただ一人、スコットランドのアバディーンにあるグラマースクールに入学しました。彼の場合、西洋人になりきってしまった、とでもいうのでしょうか、江戸は極楽であるで書きました宗教家ハリスに、心底共鳴して、吉田たちがハリスのもとを離れ、森と鮫島が帰国した後もハリスのもとに残り、ハリスの片腕となります。
後にハリスは、カリフォルニアで大きな農園を開きますが、長沢はその経営の中心になり、ハリスの死後は遺産を受け継いで、ワイン王と呼ばれる富豪になったのです。
明治末年のことです。日本海軍の練習艦隊が、サンフランシスコに入港しました。その艦隊には、長沢を送り出したとき藩主だった島津忠義の息子、忠重が、士官候補生として乗り組んでいたのですが、長沢は馬車を仕立てて迎えに出て、自宅に迎え入れるときには、門前に土下座して、周囲を驚かせました。
モリ・イガという女性が、カリフォルニアからスコットランドへ向かっているとなりますと、森有礼との関係からしましても、これは長沢鼎が世話をしたのではなかろうか、と、私は想像したんですね。
ところで先日、森有礼の伝記をさがしていまして、検索をかけていたら、この本『秋霖譜 森有礼とその妻』が出てきて、驚きました。森本貞子氏ではないですか! モリ・イガが本当にお常さんなのかどうか、青い目の女の子がどうなったのか、さらに事実を掘り返されたにちがいない、と、わくわくどきどき、さっそく買い求めたのです。
そして……、なんと、有礼とお常さんの離婚の原因は、どうやら、青い目の不倫の女の子ではなかったんです。
広瀬常は、旗本の娘でした。瓦解の後、静岡に移り、しかし父親には職が無く、常の開拓使女学校入学を機会に、一家で東京へ舞い戻ったのです。広瀬家には、常と妹の福の女の子二人で跡取りが無く、心細く思った父親が、同じ幕臣の養子を迎えるのです。その養子が、自由民権運動の活動家で、静岡事件を引き起こし、伊藤博文の命を狙ったというので、有礼が激怒し、離婚となったというのが、どうやら真相のようなのです。
少女だったお常さんが、瓦解により、江戸のお姫様暮らしから、突然、他人の好意にすがらなければ満足に食べるものもないような静岡での暮らしに突き落とされ、開拓でもするしかないと一家で移り住んだ場所が、現在の藤枝市のあたりだったというのも、私にとっては感慨深いものでした。藤枝市には、現在身内が住んでいて、去年も訪れたばかりです。
また常の妹の福は、明治屋の創業者、磯野計の妻になっていたりもしまして、娘を残しましたので、そこにわずかながら、常の面影が伝えられていた、というのも意外でした。
事実は小説より奇なり、といいますか、ほんとうに驚きました。
鹿鳴館の時代、大山巌夫人の捨松も、「馬丁と浮気をして離婚の危機に陥っている」といったような噂につつまれます。しかし、久野明子氏の『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松 日本初の女子留学生』を見ますと、そんなことがありえる状況ではなかったようです。
常夫人の青い目の不倫の子も、それと同じように、根も葉もない中傷だったようなのですが、ではなぜ、常夫人が産んだ上の男の子二人は森家にとどまったにもかかわらず、最後の女の子だけが養子に出されたのか、謎は残りますし、私はやはり、森有礼が常夫人のその後を気にかけて、長沢鼎に頼んだ、という説を捨てきれません。
森本貞子氏は、榎本武揚など、旧幕臣の外務官僚たちの力添えであった、としているのですが、その部分は、確かな根拠のなさそうなことではありますし。
なんにせよ、20年の歳月を経て、森本貞子氏がお常さんの実像を追求し続けておられたと知ったことは、ちょっとした感動でした。
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