goo blog サービス終了のお知らせ 

郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

謎の招賢閣 三田尻(防府)紀行

2006年01月16日 | 幕末長州
長州三田尻、現在の防府は、毛利水軍の根拠地だった港湾都市で、江戸期を通じて、軍港、商港として栄えました。
幕末、七人の公卿が八・一八政変で京都を追われ、長州に身をよせましたが、その落ち着き先が、三田尻の招賢閣だったのです。尊皇討幕派の諸国の志士たちが、招賢閣をめざして集まり、そしてその多くは、維新を見ることなく命を落としました。

池田屋で闘死した郷土の男

上のページで、招賢閣について書いたとき、ざっとぐぐってみましたら、「今はない」と書いているサイトさんが多くて、あれ? っと思ったんです。
「ぐぐったところ、どうも現存していないようですね。そういえば、取り壊しのニュースを見たような気がします」
と書きはしたものの、慌てて写真をひっぱり出し首をかしげ、ぐぐりなおしてみました。
と、なんだか、謎は深まるばかりなんですが、とりあえず、現存はするようです。



十数年前の写真ですが、招賢閣と呼ばれた、山口県指定史跡・三田尻御茶屋(旧構内付大観楼)の門と説明書きの看板です。
御茶屋は、参勤交代の折りの宿舎などに、毛利家が使っていた施設で、七代藩主の隠居所となったこともあって、かなりの広さがあり、複数の建物がありました。幕末になって、招賢閣と呼ばれたわけなのですが、看板の解説は、昭和56年、山口県と防府市の教育委員会によるものです。七卿が宿舎としたのは、本館(大観楼)で、それは跡形もなく、付随していた旧構内のみが、史跡として残っている、というように読めます。




門の中、こちらが英雲荘です。英雲荘については、下の「坂本龍馬と海援隊へようこそ!!」というサイトさんのページをご覧になってみてください。

龍馬脱藩の道独り旅  6 海路を上関・三田尻へ
文久3年8月京都の政変で都を追われた七卿が、三田尻に滞在するにあたり、長州藩はこの地に設けられていた行政の拠点・「三田尻御茶屋」の「英雲荘」を休泊所として提供した。この時、諸国の尊攘派志士たちも七卿を慕い長州藩を頼って、続々と三
田尻へ集結してきた。長州藩はその対応策として、「英雲荘」の構内に志士たちの宿舎として「招腎閣」を設けたのである。
(中略)
なお、現在の「英雲荘」は後に立て替えられたもので、往時の建物ではない。

こちらでは、この「英雲荘」が志士たちの宿舎だったことになっているんですよね。
現地で、教育委員会だったかの方に、お話をうかがったはずなのですが、さっぱり覚えてません。
ただ、七卿が、だったか、志士たちが、だったか忘れたのですが、英雲荘も使ったと、お聞きしたと思うのです。
そして、たしかに「立て替え」ではあるのですよね。幕末の建物がそのまま残っていたら、建物も文化財に指定されるはずなんですが、されていませんでしたし。
ただ、上のサイトさんが載せておられる古写真と、私が撮った写真は、そっくりです。




こちらは茶室「花月楼」。これも古写真とそっくりでしょう?
そっくりに再建したと、お聞きしたように思うのです。それも、かなり以前に。
ともかく、十数年前の時点で古びていました。




英雲荘の内部です。
畳敷きだったはずの部分が、かなり安手の赤い絨毯になっていたりしました。
廊下が畳敷きだったということは、かなり豪華で、七卿がこちらにいた可能性は高いように思います。




七卿の居室と聞いて、写真に撮ったような気がするのですよねえ。
だとすれば、やっぱりそっくりな再建で、またこの英雲荘も、七卿の宿舎としてか、あるいは会議場としてか、ともかく、招賢閣の一部として、使われていたにはちがいないのです。
有限会社ユニックさんの下記ぺージも、英雲荘七卿宿舎説ですね。
最近取材されたもののようですし、防府市教育委員会は、そういう説なのかも、です。

防長歴史紀行 周防国府のまち2
幕末の文久3年(1863)月、京都の政変で当時急進派だった三条実美(さんじょうさねとみ)ら7人の公卿が退けられ、長州藩もまた京都を追われた。そこで、三条実美ら七卿は長州に逃れ、三田尻港に入り、藩主敬親(たかちか)はお茶屋(英雲荘)を七卿の宿舎にあて、構内には七卿やその他の志士の会合所を設け招賢閣といった。




英雲荘、二階からの眺めです。
建物も、当時そのままではないですし、三田尻も大きく変わったでしょうけれども、こうして若い志士たちも、空を眺めたかな、と。

 空に聴く昔日の声 夏周防     郎女


関連記事
池田屋で闘死した郷土の男
続・謎の招賢閣 三田尻(防府)紀行


◆よろしければクリックのほどを◆

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 トラックバックテーマ 幕末長州へ幕末長州
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幕末維新文献のお値段

2006年01月15日 | 幕末長州
幕末維新文献のお値段

昨日電話した、久坂ファンの男性。
久坂さんに関する出版物だったら、あまりにも高価な古書をのぞいて、たいていのものはお持ちです。
『久坂玄瑞全集』は、たしか、私と同じ時期に買われたのではないかと思います。
というのも、昭和9年発行の『久坂玄瑞全集』は、古書店で、ものすごい値段がついていたのです。よくは覚えてないのですが、10万近かったかと思います。当初に出した部数が少なくて、希少価値が出ていたんでしょうね。
昭和53年に、徳山のマツノ書店さんが復刻しておられたようなのですが、それも限定五百部だったため、ほとんど古書店に無く、入手不可能に近かったのですが、平成4年、再びマツノさんが、限定600部で出されて、ようやく手に入れました。
現在ではさらに再版され、簡単に手にいるようになっているみたい、ですね。

現在、悩んでいるのは、『世外井上公伝』です。

モンブラン伯王政復古黒幕説

上に書いておりますように、井上武子夫人について調べていまして、『世外井上公伝』に出てくる書簡などに、彼女のことが見えるようなのですね。
これが、原書房で復刻はされているのですが品切れ状態な上に、もともとが高価でして、一冊18000円の全5巻で10万近いんです。
他に、武子夫人の伝記がないかどうかも含めて、国会図書館ででもあさってみた方がよさげ、ですね。

井上武子夫人については、下のページにも書きました。

鹿鳴館と伯爵夫人

中井桜洲の伝記は、古本で手に入れたのですが、武子さんのことは載ってないですねえ。
もう一つ、欲しい、といいますか、見たい本が、あります。

『革命期・19世紀 パリ市街地図集成』 柏書房発行 地図資料編纂会編集
近代都市地図の最高傑作といわれる「ヴェルニケ図」、カフェやポストの位置まで記入した「ペロー図」、オスマンのパリ大改造プランを示すはじめての「行政区分図」の3種類の地図を収録。詳細な解説と補訂を付した本格地図資料。*
本書は、全3時期のパリ市街地図を写真復刻し、年代順に1冊に集成したものである。
ヴェルニケ図 
Plan d'Edme Verniquet
1791年(総72枚+索引図。縮尺1/1734。本書収録×0.76 74丁)
パリ市街図の最高傑作。精確な三角測量が実施され、後世のほとんどの市街図のモデルとなった。
行政区分図
Atlas administratif des 20 arrondissements de Paris
1868年(総16枚+全体図2枚、縮尺1/5000。本書収録×0.68 カラー21丁)
初の公的実測行政区分図。街区・教区の境界、主要地点の標高等がカラーで示されている。
ペロー図 
Plan de Perrot
1834年(総48枚+索引図。本書収録×1.2 55丁)
1830年代初めのパリ12区を各街区(48街区)ごとに作図した区分図。7月王政当初の情報が満載。

しかし、値段が14万。しかも、見たいページはわずか。
やはり国会図書館ですかしらねえ。


◆よろしければクリックのほどを◆

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 トラックバックテーマ 幕末長州へ幕末長州
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続・久坂玄瑞の法事

2006年01月14日 | 幕末長州
以下に書いた「久坂久坂玄瑞の法事」のときの写真のことで、久しぶりに、久坂ファンの知り合いに電話しました。

久坂玄瑞の法事

なんということでせう!
「没後百何十年とやらの個人的な法事に招かれた」
と思い込んでいたのですが、あれは、久坂さんの法事ではなかったのです。
年に一度、政経界で活躍する山口県出身の方々によって営まれている、防長殉難志士の法要だったのです。場所は、東福寺の退耕庵でまちがいありませんでした。
なんで久坂さんの法事とまちがえたかと申しますと、当時、久坂玄瑞のご子孫の久坂恵一氏が奈良に住まれていて、その法要の世話人かなんかをなさっておられたのです。
で、一文字三星の毛利家家紋の幕を背景として、久坂恵一氏を真ん中に、久坂ファンさんと私がおさまった写真は、たしか久坂恵一氏の方から撮ろうと誘っていただいたもの、だったと思います。久坂ファンさんも私も、ネガは持っていないんです。

今回、電話しましたのは、写真をブログにあげるならば、久坂恵一氏の了解をいただかねばと、ご連絡先を聞くためだったのですが、久坂ファンさんによれば、なんでも、恵一氏は九州の息子さんのところだったかに移られ、現在、どうなさっておられるか、まったくわからないのだそうです。
彼と電話で話していて思い出したのですが、そのときの法要で、久坂恵一氏の詩吟を聴かせていただきました。久坂玄瑞も、詩吟が得意だった、という話ですよね。
伊予松山藩士を祖先の一人に持つ私は、なんか、とても不思議な縁だなあ、と思いながら、防長殉難志士の法要に参加させていただいたのでした。
まあ、そんなわけでして、写真をあげるのは無理ですね。

久しぶりに、幕末のことをあれこれ、しゃべりましたが、もう一つ、ご注意を受けました。

土方歳三 最期の一日

で、私は「初回が池田屋で、殺陣の下手さかげんに腹を立てまして」と書いたのですが、彼いわく「あれは池田屋じゃないから」。
あらま、そーだったんだ。池田屋事件のころではあっても、池田屋そのものじゃないんだそうです。
「よかったよ。あの大河の新撰組は。長州の描き方はちょっといただけなかったけど」とのことで、「いや、本編よりも最期の一日の方がいい」という私とは、だいぶん隔たりがありましたが、まあ、そこはそれ、彼は久坂ファンで、久坂玄瑞が死去して後のことは、あんまり関心が向かないのだそうですから、そのせいだ、ということにしておきましょう。
彼は、会津好きの方などから、「会津は薩長に朝敵にされて」と言われると、「いえ、僕の知るころの会津は官軍で、長州が朝敵にされてました」と答えるんだそうです。

さらに、彼から聞いた話ですが、一坂太郎氏によれば、久坂玄瑞の史伝を、井上勲氏が、書かれる予定があったんだそうです。
井上勲氏は、下記の記事に書きました、『王政復古』(中公新書)の著者です。

モンブラン伯王政復古黒幕説

井上勲氏が書かれる久坂玄瑞、読んでみたいですねえ。残念なことに、なかなか実現しないそうです。
ついでに、「『王政復古』の評判は?」と聞いてみましたところ、幕末ファンの間では、とてもいいんだそうです。
よかった! と、安心いたしました。
井上勲氏は、きっちり、鹿児島県資料を読み込んで書かれていて、幕末も押し詰まった時期の政治情勢の解説書として、非常にすぐれたものだと、私は常々思っていたのです。

それにしても……、久坂ファンさま、ここをのぞいてらしたとは、お人が悪い(笑)

関連記事
唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』
珍大河『花燃ゆ』と史実◆27回「妻のたたかい」


◆よろしければクリックのほどを◆

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 トラックバックテーマ 幕末長州へ幕末長州
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久坂玄瑞の法事

2005年12月11日 | 幕末長州
に出たことがあるんです。京都東福寺の塔頭の一つで、黄檗宗でした。

なんでそんなことを突然思い出したかというと、『ブラザーズ・グリム』でぐぐっていましたところが、長州好きらしい方のブログにいきあたりまして。
幕末にはまっていたころ、長州好きの知り合いが多かったことは、以前に書きましたが、長州好きの方々には、調べもの好きが多いんですね。
久坂玄瑞好きは、男性でしたが、ご子孫と知り合うところまでいきまして、没後百何十年とやらの個人的な法事に招かれたんです。で、いっしょに行かないかと誘われまして。
旅先だったので、法事だというのに派手な色の服を着ていってしまったような記憶があります。
よく覚えてないのですが、久坂のご子孫は、二通りありまして、その方々が仲が悪くていらしたかなんかで、こっちではあっちの話はしないで、みたいな注意を受けたような気もします。

ともかく、長州好きには徹底した方が多く、入江九一好きの女性とも知り合いでしたが、彼女は北海道までご子孫を訪ねて行って、ついに、多くの資料をまだご子孫が持っておられてということをつきとめたり。ご子孫は、資料をまとめて出版しようとされていて、それはほどなく完成し、資料そのものは国会図書館の憲政資料室だったかに寄付されました。その資料集、彼女からいただいて、まだ持っています。いえ、まあ、微力ながら、彼女の資料さがしに協力したりもしましたので。

私が長州系の資料をあさっていたのは、桐野が高杉晋作に心酔していたという話がありまして、彼の維新以降の通称は、新作だったか、なんですが、実は高杉晋作の名をもらったんだというようなことが、当時の新聞だったかに載っていたもので、接点がないものかと、さがしていたんですね。
結局、接点を示す資料は見つからなかったのですが、東行庵の一坂太郎氏は、桐野について、気づかれた資料とかを教えてくださったり、コピーを送ってくださったりで、とてもありがたく、長州に足を向けては寝られないかも、と、思ったものでした。
ちなみに私は、律儀に幕府に従い、大島に攻め込んで悪評を立て、戊辰戦争では長州に攻めてこられて進駐していた土佐藩兵に守ってもらった、なんともしまりのない伊予松山藩の生まれ育ちです。曾祖母の生まれた家は、五百石ほどの元藩士でした。

関連記事
続・久坂玄瑞の法事
唖然呆然長州ありえへん珍大河『花燃ゆ』
珍大河『花燃ゆ』と史実◆27回「妻のたたかい」

◆よろしければクリックのほどを◆

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村 トラックバックテーマ 幕末長州へ幕末長州
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする