杉浦 ひとみの瞳

弁護士杉浦ひとみの視点から、出会った人やできごとについて、感じたままに。

・シリア化学兵器の外交決着を評価する

2013-09-17 00:14:45 | 平和問題

シリアのアサド政権が内戦で化学兵器を使用した疑いがあり、子ども426人を含む、1,400人以上が殺害された、という問題で
アメリカは、アサド政権が行ったと断定し、
当初、オバマ大統領は
「今、やらなければいけないのは、多くの人がやるべきと思いながらも、誰もやりたくないことだ。
シリアに責任を取らせるのは、世界のリーダーとしての義務だ」
と述べ、武力行使に踏み切ることも言及していました。

その後、ロシアが「シリアが化学兵器を国連に預けること」を提案し
シリアはそれを受け入れ、アメリカもそれに合意し、当面武力行動を停止しました。
これによって、とりあえずはアメリカの攻撃による市民の死傷という被害がでることは避けられました。

国が武力ではなく、知恵を出すことで、目に見える形で人々の死傷、その肉親の逃れることのできない悲しみが
避けられたわけです。
このことには、とても心を動かされました。
こんな簡単なことで、一般の人々の人々の生命が救われること
そして、これほどに一般の人々の命は軽い駒でしかないこと
まさに“命は鴻毛のごとし”だと思いました。

ただ、この鴻毛のたとえは、その原点は

〔原文〕
人固有一死。或重於太山、或軽於鴻毛。用之所趨異也。
〔読み下し〕
人は固より一死あり。或いは太山(泰山)より重く,或いは鴻毛より軽し。用うるの所の趨(おもむき)は異なるなり。

つまり、人の死というものは,泰山より重い時もあれば,鴻毛よりも軽い時もあって,その趣(趨)は様々であるというような意味です。
これが軍人や任侠の世界では「義は泰山より重く,命は鴻毛より軽い」とされたようです。

原点は、命を持つ本人が、主体的に、その価値を理解して、死を重くも軽くも判断するものであるのに、
後者は、軍の指令や任侠道に価値が決まっている点で、その主体的な価値判断は失われていますが
それでも、死を判断するのは自分です。

でも、戦争による市民の被害は、価値の判断も、死の判断も市民にはできないのです。
ただただ、争いを選択するあるいは争いに巻き込まれる指導者の判断によって
一方的に、鴻毛のように軽く扱われるということです。
それでも、鴻毛のような市民の命は、戦争を主導する側の者と同じように
いとおしく思う家族や友人がる大切な存在なのです。


そう考えると、
オバマ大統領の判断が迷走したとか、誤算だったとか
あるいはアメリカの世界の警察としての力が弱まったとか
いろんな声はあるとしても、
ロシアの提案を受けて攻撃を停止した判断はよかったと思うのです。

そして、この経験が世界の中でプラスの評価を受けるものとして
あちこちで使われていったらいいと思います。




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