昨日は節分でした。
節分には豆まきがつきものですが、我が東北では、この豆まきに使う豆は、大概「落花生」なんです。
節分の豆まきといえば落花生がこちらの常識でしたから、全国的には炒った大豆を撒くのだと知った時には驚愕しましたね。
なぜ炒った大豆なのか?諸説あるでしょうが、出口王仁三郎さんが非常に面白い説を唱えております。
太古、日本神界を統率していたのはクニトコタチノオオカミでしたが、オオカミはまるで「鬼」の如くに厳しく神々を統率しておりましたので、これに辟易した悪神どもが謀って、オオカミを艮(うしとら、東北)の方角の地に幽閉してしまった。
以来、艮は鬼門として恐れられるようになったのだとか。
クニトコタチノオオカミを幽閉する際、悪神どもは呪いをかけました。それは
「炒った大豆に芽が出るまで出てくるな!」
炒った大豆から芽が出ることはあり得ませんから、これは永遠に出てくるな!という意味の呪いなのだそうです。
以来、節分には炒った大豆を撒きながら、鬼(クニトコタチノオオカミ)は外と唱えるようになったのだとか。
しかし、この説文の際の唱え言、寺社によって様々なようです。「福は内」だけを唱えるところもあれば、「福は内、鬼も内」と唱えるところもあるとか。
なんでしょう?やはり単純に鬼を「排除」すればいいという感覚に、違和感を覚える日本人は、案外多いということなのでしょうか。
「禍福は糾える縄の如し」「人間万事塞翁が馬」などとも申します。なにが「福」でなにが「鬼」かなど、人間の一方的な視点、狭い了見だけでわかるものではありませんな。そういう意味では、究極的には「福」も「鬼」もすべて「福」。
「鬼神」の如き厳しさも、「神」であることには違いない。
まあ、なかなかそんな風には、思えませんけどね(笑)
それにしても、クニトコタチノオオカミが幽閉されたと伝えられる艮・東北の地においては、炒った大豆ではなく落花生が蒔かれるという事実。
なんとも不可思議な因縁ではあります。
ここで一句
【節分けや福は内なら鬼も内】
しかし落花生はカロリーが高い!食べ過ぎに注意!
今、私は息子が出来てから、私の子育て邪魔する奴は皆んな敵ー、なんて思ってしまう時もありますが。鬼子母神も鬼がつくー。
杏果のソロの発表があって、やっぱり遊び半分の悪意で申し込みした人もいるみたいです。
申し込んで流すわ、みたいな。
なんかね、アホというか愚かなことだなーって思うんですが、皆んな頭の中が暇なんだろうと。
杏果の言う、本当に観たい誠実な人、に一度目に入らなくても、いつか観たいし、今の歌声がいつか聴けるかもしれない、平和に感謝しなきゃー。
杏果のライブ、いつかホントに行ってみたいです。
昨日の節分は、ぜっーーーーたい、巻き寿司商戦には乗らないぞ!!って決めていたので、お家でおとなしく豆撒きすらせずに溜まっていたテレビ三昧をしておりました。かおちゃん兄さまの記事を拝読して偶然に気づいたのですが、観た映画の中に貧乏神が出てきて、主人公の高畑のみっちゃん(役)がその貧乏神に優しく接する優しい女の人で、ひょんな事で亡くなってしまうのですが、生きている夫がみっちゃんを迎えに来て現世に戻ろうとしている二人が窮地に陥った時、その貧乏神がピンチを救ってくれて、無事二人は現世に戻ってこられたのです。貧乏神にすら分け隔てなく優しく出来るそんな心優しい女性に感動しました。
豆じゃなく 愛を撒こう 節分に
今度観よ。
安藤さくらさんも、アノ世の?水先案内人みたいなお役で出てはりましたネ。
かなり前の、りたまの記事に、狼、、犬神?が、大群で、りたまの命を狙って来たけど、りたまは愛情と慈悲の心で、彼等を抱きしめはりましたね。 その結果、狼霊さん達は何もせず、りたまから去りました。
己の命を脅かそうとする存在さんさえも抱き参らせてしまうりたまは凄い御人だな~て、安心し、心得ました~。
チャメゴンさんの投稿から思い出しました。