覚馬の視力が急速に衰えて行くのと相呼応するように、会津藩の命運は転変します。
薩摩藩、長州藩を中心とする討幕勢力が勢いを増し、将軍・徳川慶喜は大政奉還を決断、ここに250年続いた徳川幕府は名目上終わりを告げました。もっとも慶喜自身は、これを機に新たな巻き返しを図ろうとしていたようですが、「王政復古の大号令」の発布により、その目論見は外れたようです。
京都の会津藩士は血気にはやり、薩摩討つべし!と声高に主張するものが続出しますが、その中にあって覚馬はあくまでも非戦論を唱え続けます。西欧列強が虎視眈々と日本侵略を狙っている今、薩摩だ長州だ会津だと争っている場合ではない。と、見えにくくなった目をおして懸命に主張しますが、頭に血が上った藩士たちには受け入れられず、覚馬は京都藩邸で孤立していきます。この頃には脊髄を痛め、歩行も困難となっており、介添えを受けながら自由の利かない身体で戦争回避に奔走します。
将軍・慶喜が二条城から大阪城に下がると、それに付き従って藩主・松平容保も大阪に移り、大半の会津藩士たちも京都を離れます。しかしそんな中、覚馬は京都に残り、戦争回避に務めようとします。知人たちは身の危険を心配して転居を勧めますが、覚馬は聞き入れません。逆に
「会津藩士 山本覚馬」
と大書きした表札を、玄関先に堂々と掲げていたそうです。
覚馬という人は大変豪胆な人で、禁門の変の折には、長州軍が陣を敷いた伏見へ敵情視察の為潜入し、長州兵で沸き返る八幡宮に堂々と参拝しています。こういう人ですから、少々の危険など、ものともしていなかったでしょう。
しかし覚馬の願いも空しく鳥羽伏見の戦いが勃発。覚馬は薩摩藩士達に捕えられ、京都の薩摩藩邸に幽閉されます。もっとも待遇は決して悪いものではなく、懇切丁寧に対応してくれたようです。覚馬の名声は、西郷隆盛や大久保利通、小松帯刀などを通じて薩摩藩内に響き渡っていましたし、おそらくは西郷さんあたりが、粗略に扱わないよう指示していたのではないでしょうか。
幽閉の身でありながらも、覚馬は和平への道を探り、自分を和平交渉の使者として容保公の下に使わしてくれと掛け合いますが、薩摩には和平の意志など最初からなく、この申し出は却下されます。
覚馬が危惧していたことは、もし会津藩が賊軍の汚名を着せられたなら、最後の一兵卒までも玉砕覚悟で戦うであろうし、そうなれば多くの犠牲者を出し、戦費に巨額の費用を投じることとなり、国力の疲弊に繋がるであろう。そこへ外国勢力に付け込まれたら大変なこととなる、ということでした。日本国と会津の両方を救うためにも、戦は避けねばならない。
薩摩としても、覚馬のいうことはわかる。しかし、武力革命の象徴として会津を血祭にあげることは決定事項であり、もはや後戻りは利かなくなっていたのです。
覚馬が悶々とした日々を薩摩藩邸で送る中、戊辰戦争は東北、会津へと展開していきます。
幽閉中に覚馬は、ある建白書を薩摩藩に提出しています。
「管見」と題されたその建白書には、新しい日本の国のグランドデザインというべきものが書かれていました。その項目は「政体」、「議事院」、「学校」、「変制」、「国体」、「建国術」、「製鉄法」、「貨幣」、「衣食」、「女学」、「平均法」、「醸酒法」「条約」、「軍艦国律」、「港制」、「救民」、「髪制」、「変仏法」、「商律」、「時法」、「暦法」、「官医」の22項目から成っており、西欧列強に負けない強い日本を創るため、富国強兵と殖産興業を奨励しています。
政治形態としては、天皇を頂点にいただき三権分立を唱え、大院と小院から構成される二院制の議事院(国会)を置く。大院は公卿や諸大名、小院は藩士から選出する。
国家体制に関しては、藩を廃止し郡県制への移行を提起。幕藩体制は分権制でしたが、それを天皇をトップとする中央集権制への移行を提起したわけです。後の廃藩置県のまさに先取りです。
世襲制の廃止や能力による官吏登用も提起しており、軍隊については徴兵制の採用、それに伴って廃刀も提起しています。
経済面では商工業に重点を置くことを提言しています。国が富めば国民も恩恵を受け、一層稼業に励むようになる。それで益々国が富み、富国強兵が実現されるという論法でした。
また外国に負けない文明国とするため、学校の設立と女子教育に力を入れることを求めています。女子の教育に着目するあたり、教育熱心な会津藩の気風が感じられます。特に覚馬の家庭では、母・佐久が非常に聡明な女性であったことや、妹・八重が女性であるが故に才能が生かせない苦悩を見てきたことも、影響されているかもしれませんね。男女同権は、覚馬の中では極自然のことだったのかもしれません。
このように、覚馬の「管見」は後の明治政府が行った政策にほぼ合致するものが多く、これを覚馬はたった一人で練り上げたわけで、とてつもないとしか言いようがありません。巷では坂本龍馬の「船中八策」が大変有名ですが、はっきり言ってこちらの方が遥かに具体的でより優れています。龍馬も覚馬も、横井小楠という思想家の影響を受けて、これらを書いたわけですが、龍馬より覚馬の方が、オリジナリティとしては上ですね。にもかかわらず世に知られていないのは何故か。
それは敗者だからです。会津は敗者で、土佐は勝者の側だったからです。
理不尽だとは思いませんか?
この「管見」を読んだ西郷隆盛や大久保利通、小松帯刀達は非常に感銘を受け、覚馬の知見に驚愕の念を覚えます。それがこの後の覚馬の人生に大きな影響を与えるのです。
明治2年(1869)覚馬はようやく幽閉を解かれ、晴れて自由の身となります。
…「後編」と銘打ったものの、やはり終らなかった~っ。もう一章、設けさせていただきますので、まだ続きます。あ~、次のタイトルどうしよ~っ。
参考文献
『山本覚馬 知られざる幕末維新の先覚者』
安藤優一郎著
PHP文庫
薩摩藩、長州藩を中心とする討幕勢力が勢いを増し、将軍・徳川慶喜は大政奉還を決断、ここに250年続いた徳川幕府は名目上終わりを告げました。もっとも慶喜自身は、これを機に新たな巻き返しを図ろうとしていたようですが、「王政復古の大号令」の発布により、その目論見は外れたようです。
京都の会津藩士は血気にはやり、薩摩討つべし!と声高に主張するものが続出しますが、その中にあって覚馬はあくまでも非戦論を唱え続けます。西欧列強が虎視眈々と日本侵略を狙っている今、薩摩だ長州だ会津だと争っている場合ではない。と、見えにくくなった目をおして懸命に主張しますが、頭に血が上った藩士たちには受け入れられず、覚馬は京都藩邸で孤立していきます。この頃には脊髄を痛め、歩行も困難となっており、介添えを受けながら自由の利かない身体で戦争回避に奔走します。
将軍・慶喜が二条城から大阪城に下がると、それに付き従って藩主・松平容保も大阪に移り、大半の会津藩士たちも京都を離れます。しかしそんな中、覚馬は京都に残り、戦争回避に務めようとします。知人たちは身の危険を心配して転居を勧めますが、覚馬は聞き入れません。逆に
「会津藩士 山本覚馬」
と大書きした表札を、玄関先に堂々と掲げていたそうです。
覚馬という人は大変豪胆な人で、禁門の変の折には、長州軍が陣を敷いた伏見へ敵情視察の為潜入し、長州兵で沸き返る八幡宮に堂々と参拝しています。こういう人ですから、少々の危険など、ものともしていなかったでしょう。
しかし覚馬の願いも空しく鳥羽伏見の戦いが勃発。覚馬は薩摩藩士達に捕えられ、京都の薩摩藩邸に幽閉されます。もっとも待遇は決して悪いものではなく、懇切丁寧に対応してくれたようです。覚馬の名声は、西郷隆盛や大久保利通、小松帯刀などを通じて薩摩藩内に響き渡っていましたし、おそらくは西郷さんあたりが、粗略に扱わないよう指示していたのではないでしょうか。
幽閉の身でありながらも、覚馬は和平への道を探り、自分を和平交渉の使者として容保公の下に使わしてくれと掛け合いますが、薩摩には和平の意志など最初からなく、この申し出は却下されます。
覚馬が危惧していたことは、もし会津藩が賊軍の汚名を着せられたなら、最後の一兵卒までも玉砕覚悟で戦うであろうし、そうなれば多くの犠牲者を出し、戦費に巨額の費用を投じることとなり、国力の疲弊に繋がるであろう。そこへ外国勢力に付け込まれたら大変なこととなる、ということでした。日本国と会津の両方を救うためにも、戦は避けねばならない。
薩摩としても、覚馬のいうことはわかる。しかし、武力革命の象徴として会津を血祭にあげることは決定事項であり、もはや後戻りは利かなくなっていたのです。
覚馬が悶々とした日々を薩摩藩邸で送る中、戊辰戦争は東北、会津へと展開していきます。
幽閉中に覚馬は、ある建白書を薩摩藩に提出しています。
「管見」と題されたその建白書には、新しい日本の国のグランドデザインというべきものが書かれていました。その項目は「政体」、「議事院」、「学校」、「変制」、「国体」、「建国術」、「製鉄法」、「貨幣」、「衣食」、「女学」、「平均法」、「醸酒法」「条約」、「軍艦国律」、「港制」、「救民」、「髪制」、「変仏法」、「商律」、「時法」、「暦法」、「官医」の22項目から成っており、西欧列強に負けない強い日本を創るため、富国強兵と殖産興業を奨励しています。
政治形態としては、天皇を頂点にいただき三権分立を唱え、大院と小院から構成される二院制の議事院(国会)を置く。大院は公卿や諸大名、小院は藩士から選出する。
国家体制に関しては、藩を廃止し郡県制への移行を提起。幕藩体制は分権制でしたが、それを天皇をトップとする中央集権制への移行を提起したわけです。後の廃藩置県のまさに先取りです。
世襲制の廃止や能力による官吏登用も提起しており、軍隊については徴兵制の採用、それに伴って廃刀も提起しています。
経済面では商工業に重点を置くことを提言しています。国が富めば国民も恩恵を受け、一層稼業に励むようになる。それで益々国が富み、富国強兵が実現されるという論法でした。
また外国に負けない文明国とするため、学校の設立と女子教育に力を入れることを求めています。女子の教育に着目するあたり、教育熱心な会津藩の気風が感じられます。特に覚馬の家庭では、母・佐久が非常に聡明な女性であったことや、妹・八重が女性であるが故に才能が生かせない苦悩を見てきたことも、影響されているかもしれませんね。男女同権は、覚馬の中では極自然のことだったのかもしれません。
このように、覚馬の「管見」は後の明治政府が行った政策にほぼ合致するものが多く、これを覚馬はたった一人で練り上げたわけで、とてつもないとしか言いようがありません。巷では坂本龍馬の「船中八策」が大変有名ですが、はっきり言ってこちらの方が遥かに具体的でより優れています。龍馬も覚馬も、横井小楠という思想家の影響を受けて、これらを書いたわけですが、龍馬より覚馬の方が、オリジナリティとしては上ですね。にもかかわらず世に知られていないのは何故か。
それは敗者だからです。会津は敗者で、土佐は勝者の側だったからです。
理不尽だとは思いませんか?
この「管見」を読んだ西郷隆盛や大久保利通、小松帯刀達は非常に感銘を受け、覚馬の知見に驚愕の念を覚えます。それがこの後の覚馬の人生に大きな影響を与えるのです。
明治2年(1869)覚馬はようやく幽閉を解かれ、晴れて自由の身となります。
…「後編」と銘打ったものの、やはり終らなかった~っ。もう一章、設けさせていただきますので、まだ続きます。あ~、次のタイトルどうしよ~っ。
参考文献
『山本覚馬 知られざる幕末維新の先覚者』
安藤優一郎著
PHP文庫
そのなが~い課程。描くもので、行動も言葉も違ってくるのですね。
覚馬さん、今頃なにしてのかな~?薫風亭さんの、話し聴いてたりして?な~んておもうと楽しいな~。実在の偉人に感謝します。m(__)m。お疲れ様です。ありがとう御座います。
?もし?セイントセイヤて、ペガサスリュセイ拳て、…たぶん?人違いです。m(__)m
楽しみに、お待ちしますです。私。お疲れ様です。ありがとう御座います。
痛!、誰だ今叩いたの?
血気溢れるものに、正しさを説いても聞いてはもらえなかったり、日和見だと愚弄されたかもしれません。
覚馬のような素晴らしい人でも孤立するなら、私なんぞが言うことに耳を傾けて貰えなくても当たり前だなぁ、と逆に真剣に自分が良いことをすれば良い!と腹を括れます。
ただ何故か現実生活では百姓仲間で論客なせいか、農業関連の名誉職、役員などが私に回ってきています。形だけ名誉なだけで内容が無いよう、なこともあります。
しゃべり過ぎが良くないのだ、と本当に私がしたいことは何だ?と自問自答してます。
誉められずとも、ただ黙って人の役に立てることがしたい。
誉められもせず、苦にもされず…っていう風にはなかなか成れないですよねえ。嗚呼、憧れのデクノボー。
テクノポップじゃないよ。♪チャ、チャ、チャーン。チャッチャッチャチャチャラチャッチャッチャーン♪ライディーン!…あれ?
次のタイトルですか・・・こんなんどうでしょう?「山本覚馬・ファイナル」「山本覚馬・復活編」「山本覚馬 - そして伝説へ - 」・・・すいませ~ん(汗)
うむ、「帰ってきた山本覚馬」とか、「山本覚馬A(エース)」「山本覚馬タロウ」…っん?何か違う…。
この言葉イイッ!今度どこかで使わせて貰います(笑)
ライディーン…トリオ・ザ・テクノ(ひょうきん族)を急に思い出しましたわ。