荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『花芯』 安藤尋

2016-08-12 23:19:04 | 映画
 果たして瀬戸内寂聴と映画の相性はいいのか、悪いのか。熊切和嘉監督『夏の終り』(2013)を見るかぎりでは、良さそうに見えて、じつはさして相性がいいように思えない。しかしそれは熊切和嘉監督と満島ひかりが、単に瀬戸内寂聴とマッチしなかっただけなのかもしれない。豊田四郎=市川崑共同監督、三田佳子主演の『妻と女の間』(1976)なんかは意外な拾い物だったのだから。
 安藤尋監督と瀬戸内寂聴の組み合わせは、一見してミスマッチのように思える。でも、意外とそうじゃないという点が、映画というものの良さであろう。『blue』(2001)『僕は妹に恋をする』(2006)『海を感じる時』(2015)で組んできた盟友・鈴木一博のカメラが良かったからなのか、それとも黒沢久子のシナリオが女性の性と心理をうまく捉えていたからなのか、それは分からないが、いやそれだけではないだろう、青春映画のジャンルに偏っていた安藤尋のフィルモグラフィーが、今回いっきに変態を遂げたように思える。

 理工系学部に転籍することでたくみに徴兵を回避したフィアンセ(林遣都)を軽蔑していたヒロイン(村川絵梨)は、なぜ両親の言いなりになって、この凡庸なフィアンセと結婚しなければならないのか? そのことは、林遣都を秘かに慕うヒロインの妹(藤本泉)が、「あれだけ奔放に振る舞っておきながら、肝心要の結婚という段になって、なぜ親の言いなりになったのか?」と、姉に向かって詰問していた。 
 この、肝心要のところで我を通さなかった、という既成事実こそ、この映画の真の主題だと、私は見ながら思った。つまりヒロインは、不幸な結婚を必要としていたのではないかということである。親に言いなりに、「結婚は愛やロマネスクではなく、現実である」などとうそぶきながら、不実なる犠牲をすすんで背負いたいのである。この不幸の発動によって、ヒロインの否定の身振りにガソリンがまぶされていく。彼女は夫のことを一瞬たりとも愛したことも慕ったこともない。それは本人が夫に面と向かって宣言していることである。夫と久しぶりに燃えた一夜、彼女は言い放つ。「愛がなくても、感じるのね」と。さらに「愛する人とセックスしたら、どうなっちゃうのだろう?」とも。
 つまり、身の丈に合わぬ不幸をまとうことによって、彼女は心身共に禁忌を犯す、この身振りを本能的に必要としていたのだ。もっと言うなら、愛する人との幸福な恋愛や結婚を望んでさえいないということになる。事実、恋した間男(安藤政信)と初めて一夜を共にした時の村川絵梨の呆然とした絶望的表情を見てみればいい。責め苦を負い、孤立し、蔑まれ蔑み、絶望することが、彼女の必須課題だったのだ。
 その人生レッスンにつき合わされた夫、子ども、妹、間男、両親などがまことに気の毒なことであるが、彼女は自分がそもそも毒まんじゅうであるという自覚のもとに行動していたのである。その径路を丹念に辿っていく安藤尋の演出は、これまでのフィルモグラフィーから一線を画した。安藤の求めに応じ、裏切りと孤立を選び取っていく冷血漢女性を、体当たりで演じた村川絵梨に喝采を送らねばならない。


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