荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『いたづら』 中村登

2011-06-21 02:31:00 | 映画
 中村登の『いたづら』(1959)を見たら、これが思いの外よかった。よかった点の大部分はひょっとすると、志賀直哉の原作短編のせいだという気がしないでもないが、脚本、撮影、演技が三位一体となって、なんとも言えず悲喜劇的に、成就しない2つの恋の成り行きを跡づける。
 高橋貞二は、中村登のものが一番いいと思う。もしかすると、有馬稲子もそうだ。お調子者で惚れっぽい英語先生の高橋貞二のもとに赤紙が届く。出征前夜の壮行会で、年配の殿方が寄せ書きに筆をとった「君去春山誰共遊(君去らば春山、誰とともに遊ばん)」という惜別の詩句に、私は泣けて泣けて。
 その晩はロマンティックな小事件がもろもろあって、翌朝、駅のプラットフォームで高橋を見送る一同がそれぞれ身勝手な人間関係の理解をもとに、ちぐはぐな視線を交錯させながら、別れを惜しむラストのシーンとなる。これは、出発する列車を横移動でとらえる長岡博之のすばらしいカメラで、滑稽さと真心がない交ぜとなっていた。


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1 コメント

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補遺 (中洲居士)
2011-06-28 02:08:35
蛇足となりますが、壮行会の寄せ書き「君去春山誰共遊」について。これは、中唐の詩人で劉商(字は子夏。彭城の人)の『送王永』からの引用です。

君去春山誰共遊
鳥啼花落水空流
如今送別臨渓水
他日相思來水頭

(読み下し)
君去らば春山、誰とともに遊ばん
鳥啼きて花落ち、水空しく流るゝ
如今、送別し渓水に臨む
他日、相思わば、水の頭りに来たれ

(意味)
君が去ってしまうと、春の山をいったい誰と遊べばいいのか。鳥は啼き、花は散り、水もただいたずらに流れるばかり。今、君を送って、渓流のそばに来ている。もし他日、たがいに思い出すとしたら、水のほとりに来ようではないか。

「君」というのは、いとしい女のことではありません。春山の風流をともに過ごせる、物の分かる親友を指します。おそらくこの友は、朝廷から嫌われて都を追われたのか、僻地に左遷となったのか。友との惜別を謳った詩です。この詩を受け取った高橋貞二は、友であり同僚である杉浦直樹、そしてまだ見ぬ心の恋人だと勘違いする有馬稲子の両方を重ね合わせたことでしょう。
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