荻野洋一 映画等覚書ブログ

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Whose sleeves?

2014-12-19 01:01:07 | アート
 いま根津美術館で《誰が袖図 描かれたきもの》というのをやっている。「誰が袖(たがそで)」が何なのかというと、英語では「Whose sleeves?」。衣桁や屏風に、誰かの脱いだ着物がかかっている無人図のことである。安土桃山時代、江戸時代初期に流行した。「先ほどまで、かの人はいた」「だけど、もういないよ」という淡い時間推移の戯れを描くという点で、日本的でありつつも超現代的なジャンルと言える。脱ぎ捨てられた着物、置かれたままの文房具、読みかけの書物、そして、まだ匂い立つ香炉。「その着物に梅の花弁が触れたらしい。その残り香が、その人のおもかげを際立たせる」といった繊細な感覚は和歌でも詠われてきたが、無人ショットを1枚の画で見せられるインパクトは、小津安二郎の映画を思い出せばいい。
 画面上こそ無人ショットかもしれないが、フレームを少しだけずらしてみると、男女のあられもないマグワイが写りこんでしまうかもしれない。あるいは、お付きの者に手伝わせて湯浴みの最中なのかもしれない。しかし、画面に少し前まで人がいた気配が漂っているのに、現にいまはいなくなっている、というのが肝心である。
 ヴェンダースが20年前に出した写真集『かつて…』(PARCO出版)は、完全に「誰が袖」である(過去のヴェンダース記事を請参照)。画面に「映る、写る」とはつまり、「移る」と同じことなのだから。画面内の存在は写っていることによって、移ろいゆき、いつしか変化し、溶け出していってしまう。着物、香炉、文房具といった証拠物品だけを丹念に描きこむ「誰が袖図」は、単に不在を示すものではない。ゼロではない。ワンプラスワンプラスワンプラスワンプラス…=ゼロとしてのゼロなのだ。
 このことは今春、久世光彦の遺著『死のある風景』について書いた記事のなかで、久世が「演劇の空舞台(カラブタイ)が好きだ」と述べていることについて触れた時ともつながっている。
 今展では同館所蔵の3点の「誰が袖」を中心に、これらの着物の持ち主である女たちの実態、正体を追い求めるかのように宮川長春、歌川広重の美人図を動員する。伊万里焼の色絵婦人人形まで持ち出している。しかしそれが空しい試みであることは、主催者も鑑賞者も分かっている。そして…、この点が肝心なのだが、これらを見る私たち鑑賞者自身もまた、「誰が袖」的不在に秒刻みで近づいていることを意識せざるを得ないのだ。


《誰が袖図 描かれたきもの》は根津美術館(東京・南青山)で12/23(火・祝)まで
http://www.nezu-muse.or.jp


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2 コメント

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Unknown (大木)
2014-12-19 10:18:13
お久しぶりです。フェリーニの『悪魔の首飾り』でテレンス・スタンプがフェラーリでぶっ飛ばす前に街かどの店先をへッドライトで照らし出すシーン、大好きなシーンですが、荻野さんが言われていることに通じるものを感じます。また路上観察の「トマソン」なども通じるものを感じます。
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お久しぶりです (中洲居士)
2014-12-20 08:13:15
大木さん、お久しぶりです。若松孝二『キャタピラー』記事にコメントをいただいて以来でしょうか。またこうして拙ブログに足跡を残していって下さってうれしく思います。

路上観察といえば、今週火曜に千葉市美術館の《赤瀬川原平の芸術原論》を見てきました。こちらの記事も近日中にアップできればと考えています。
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