「もう腹一杯だ。」
わざわざ休みを取って城を見に来た筈の我々が、思わず漏らした一言がコレ。
馬出、枡形(食い違い虎口?)、横矢、馬出、枡形、横矢、、…。
※全体図。現地案内看板。
延々と続く見どころの連続に、思わず、
「もうええわぁぁぁぁ!」
と、言ってしまいたくなります。
『中世山城の最高傑作のひとつ』という現地案内看板の言葉に嘘偽りは一切ございません。こんなすごい城は滅多にあるもんじゃありません。これは城巡礼を行っている我々のような人間としては、訪れなければならない聖地のひとつに間違いございません。(自然と敬語になってしまいます。)
※現地案内パンフを見る我々。立派なパンフでありがたい。しかし、固まる。
しかし、この城の『クドさ』と言ったら、もう・・・。
そう、この城、くどいんです。
この城については、あまり資料が残ってないようで、詳細についてよくわかっていないようです。
しかし、なんでこんなすごい城について、あまりわかってないのか、というのも不思議。
曰く、後北条氏が作ったのだ。
曰く、その前の杉山氏が作ったのだ。
曰く、織豊系城郭に似てるので、かなり後だ。
まぁ、私のような素人には、出土物や縄張状況からの考察・比定などと言った高度なことはわかりません。
大いに議論して盛り上がってもらうことが一番楽しい、と、言うのが正直なところです。
さて、そんな杉山城の分かっているところはこんなところ。
長享2年(1488年)に須賀谷原で多くの戦死者を出す激しい戦闘の記録があり、杉山城から出土した遺物の年代がこの戦いの少し後に当たることから、山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗して築城したと考えることができるそうです。
発掘調査では焼土があったそうで、戦いのあったことがわかります。輸入陶磁器なども見つかっているようで、出土物は15世紀末から16世紀初頭だそうです。
この杉山城がある比企地域には69もの城館群(!)があるそうで、比企城館群として国指定史跡になっています。
高度な築城技術から後北条氏の城だろうといわれていたそうですが、発掘調査により、それより前の両上杉、古河公方の戦いの城と考えているそうです。
(以上参照:現地案内パンフ「比企城館群 杉山城跡」(発行:埼玉県比企郡嵐山町))
ただ、重複しますが、上記のような主張に対し、出土品の少なさから、あまりに高度な縄張のためにもう少し時代が下がったものだろう、という論争が続いているようです。(参照:『日本名城百選』小学館)
ま、私にとっちゃ、どっちゃでもいいです。
とにかく結果的に存在している城の凄さは堪能できましたので。
個人的には、かわらけなどが出ているので居住使用もされていて、磁器などがあれば、結構身分の高い人もいたのだろうという推測は成り立つと思いますが。
後、これは完全に私の戯言ですけど、こんだけスゴイ城にもかかわらず、あまり書物に残らず地域で謎扱いされている、という点では、新城市作手の古宮城と共通する部分があります。あれは、地元民からすると敵方の城(武田方)だったため、愛着がなかった故だろうと考えています。実際、古宮城近くのオラが殿様の城である亀山城は、地元の手により大切に保存されています。
杉山城の記録の少なさは、そうした影響もあったかも?
ま、わかりませんけど。
さて、城です。まず、入口から進むと、
写真撮ってる場所は既に写真右の高台から猛攻撃されてることになる訳です。そして我々は中央の土橋から左手の郭に行った後、攻撃してくる写真右の高台への土橋を再度渡ることになる訳です。
高台へいく土橋はこんな感じ。
虎口で綺麗に守られてますね。
しかし、ここで突っ立っていると、
写真中央の佐渡は写真左手の紀伊と珠光から攻撃されるようになっている訳です。
切岸の高さも見事です。
さらに本丸目指すには、こんな道をうねらせて攻撃ポイントを増やしているんですね。
とにかく、こんなのが連続する。
気がつけば横矢。そんな感じ。
なんか、築城者の執念を通り越した「情念」を感じさせます。
この城の築城に出役した住民にしてみれば、
「殿様も、ここまでやらんでもええんではないかのぅ・・・。」
と、思わずつぶやきたくなるんじゃないでしょうか。
それこそ今なら、
「殿、クド杉ワロス」
と、つぶやかれるとおもいます。
我々もあまりの城から受けるインパクトに食傷気味。
しばらくは写真でお楽しみください。
そして、なんとか落城させてます。
その後、北側の郭も全て見ましたが、北の方が造りがあっさりとしており、今まで見てきた城的には、通常な感じがして、好感が持てました。
そしてそれは、皆、同じ意見でした。
若干郭の配置の見事さと考えると、堀の狭さを感じますけど、高低差や狂気すら感じる横矢掛かりへの執念がカバーしている感じがしました。
とにかく、いろんな意味でスゴイ城です。
参りました。
わざわざ休みを取って城を見に来た筈の我々が、思わず漏らした一言がコレ。
馬出、枡形(食い違い虎口?)、横矢、馬出、枡形、横矢、、…。
※全体図。現地案内看板。
延々と続く見どころの連続に、思わず、
「もうええわぁぁぁぁ!」
と、言ってしまいたくなります。
『中世山城の最高傑作のひとつ』という現地案内看板の言葉に嘘偽りは一切ございません。こんなすごい城は滅多にあるもんじゃありません。これは城巡礼を行っている我々のような人間としては、訪れなければならない聖地のひとつに間違いございません。(自然と敬語になってしまいます。)
※現地案内パンフを見る我々。立派なパンフでありがたい。しかし、固まる。
しかし、この城の『クドさ』と言ったら、もう・・・。
そう、この城、くどいんです。
この城については、あまり資料が残ってないようで、詳細についてよくわかっていないようです。
しかし、なんでこんなすごい城について、あまりわかってないのか、というのも不思議。
曰く、後北条氏が作ったのだ。
曰く、その前の杉山氏が作ったのだ。
曰く、織豊系城郭に似てるので、かなり後だ。
まぁ、私のような素人には、出土物や縄張状況からの考察・比定などと言った高度なことはわかりません。
大いに議論して盛り上がってもらうことが一番楽しい、と、言うのが正直なところです。
さて、そんな杉山城の分かっているところはこんなところ。
長享2年(1488年)に須賀谷原で多くの戦死者を出す激しい戦闘の記録があり、杉山城から出土した遺物の年代がこの戦いの少し後に当たることから、山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗して築城したと考えることができるそうです。
発掘調査では焼土があったそうで、戦いのあったことがわかります。輸入陶磁器なども見つかっているようで、出土物は15世紀末から16世紀初頭だそうです。
この杉山城がある比企地域には69もの城館群(!)があるそうで、比企城館群として国指定史跡になっています。
高度な築城技術から後北条氏の城だろうといわれていたそうですが、発掘調査により、それより前の両上杉、古河公方の戦いの城と考えているそうです。
(以上参照:現地案内パンフ「比企城館群 杉山城跡」(発行:埼玉県比企郡嵐山町))
ただ、重複しますが、上記のような主張に対し、出土品の少なさから、あまりに高度な縄張のためにもう少し時代が下がったものだろう、という論争が続いているようです。(参照:『日本名城百選』小学館)
ま、私にとっちゃ、どっちゃでもいいです。
とにかく結果的に存在している城の凄さは堪能できましたので。
個人的には、かわらけなどが出ているので居住使用もされていて、磁器などがあれば、結構身分の高い人もいたのだろうという推測は成り立つと思いますが。
後、これは完全に私の戯言ですけど、こんだけスゴイ城にもかかわらず、あまり書物に残らず地域で謎扱いされている、という点では、新城市作手の古宮城と共通する部分があります。あれは、地元民からすると敵方の城(武田方)だったため、愛着がなかった故だろうと考えています。実際、古宮城近くのオラが殿様の城である亀山城は、地元の手により大切に保存されています。
杉山城の記録の少なさは、そうした影響もあったかも?
ま、わかりませんけど。
さて、城です。まず、入口から進むと、
写真撮ってる場所は既に写真右の高台から猛攻撃されてることになる訳です。そして我々は中央の土橋から左手の郭に行った後、攻撃してくる写真右の高台への土橋を再度渡ることになる訳です。
高台へいく土橋はこんな感じ。
虎口で綺麗に守られてますね。
しかし、ここで突っ立っていると、
写真中央の佐渡は写真左手の紀伊と珠光から攻撃されるようになっている訳です。
切岸の高さも見事です。
さらに本丸目指すには、こんな道をうねらせて攻撃ポイントを増やしているんですね。
とにかく、こんなのが連続する。
気がつけば横矢。そんな感じ。
なんか、築城者の執念を通り越した「情念」を感じさせます。
この城の築城に出役した住民にしてみれば、
「殿様も、ここまでやらんでもええんではないかのぅ・・・。」
と、思わずつぶやきたくなるんじゃないでしょうか。
それこそ今なら、
「殿、クド杉ワロス」
と、つぶやかれるとおもいます。
我々もあまりの城から受けるインパクトに食傷気味。
しばらくは写真でお楽しみください。
そして、なんとか落城させてます。
その後、北側の郭も全て見ましたが、北の方が造りがあっさりとしており、今まで見てきた城的には、通常な感じがして、好感が持てました。
そしてそれは、皆、同じ意見でした。
若干郭の配置の見事さと考えると、堀の狭さを感じますけど、高低差や狂気すら感じる横矢掛かりへの執念がカバーしている感じがしました。
とにかく、いろんな意味でスゴイ城です。
参りました。