入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’23年「冬」(18)

2023年01月24日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 雪でも降ればどこかへ出掛けていって、雪景色でも撮ろうと考えていたら、天気予報によれば降り出すのは昼ごろになるらしい。
「10年ぶりの寒気」だとか「不要の外出は避けろ」とか言われ、昨夜はそれなりの覚悟をして11時ごろに寝たはずだ。それが今朝6時に目が覚め、布団の中で起き出そうかどうか迷っているうちにまた眠ってしまった。再度目が覚めたら9時半を過ぎていた。

 昨日は散歩を止めて、その代わりに辰野の「沢底(さわぞこ)」という集落にある「鎮大神社(しずめだいじんじゃ)」へ行ってきた。正月、入笠へ来た77歳のご婦人がこの土地の出身者で、その時にこの神社の話を聞いて興味を持ち、一度は訪ねてみようと思ったのだ。
 
 この沢底と言う土地にはそれほど遠くでもないのに、一度だけしか行ったことがない。太平洋戦争中、甲府を爆撃したB29が、余った爆弾をここに落としていったという話を聞いて、どんな所だろうと興味が湧いて行ってみたのだ。
 まだ信州に帰ってきてそれほど経っていなかったから20年近くも前のことで、福寿草で知られた土地だということもそのころ知った。確か行ってみたら、暖かそうな土手にたくさんの福寿草が咲いていた。

 ところが今、一体どうしてこの神社に関心を持ったのかが思い出せない。多分、この集落の人たちがどういう経緯で「沢底」などという奇妙な名前の土地に住み着いたのかなどという疑問を、あれこれと話しているうちにこの神社の話も出たのだろう。
 いつのころかは分からないが諏訪大社の勢力、さらには江戸時代なら諏訪の高島藩と伊那の高遠藩との藩力の差もあり、諏訪が山を越えて伊那側に大分食い込んできている。沢底は東西に延びる長い谷でその行き詰まりの山を超えれば諏訪、南側の山を超えれば後山(うしろやま)となり、ここは今でも諏訪の地籍である。事程左様に、沢底ももしかすれば先祖は諏訪に縁の人たちかも知れないなどという話題になったのだと思う。


 
 神社では当然ながら名神式の立派な鳥居に迎えられ、境内の摂社、末社、さらに本殿もそれに劣らぬ格式を感じた。神社は江戸後期に建てられたようだが、それ以前、以後の詳しい沿革は分からなかった。
 昨年、ここでも御柱祭が行われた証の柱が立っていたが、ただ、それらの柱は他と違って外皮が剝かれてなかった。
 
 沢底が、それほど狭い谷だとは思わない。ただ、名前の通りの集落であり、奥に行くに従い、「洞」や「沢」の文字の入った地名が表示されていた。
 古い家も残っていて、大きな蔵を持つ家も目にした。豊かな集落だったのだろう。

 本日はこの辺で。
 
コメント
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