昨日、遠照寺から帰る途中、久しぶりに「高遠歴史博物館」に立ち寄ってみた。目的は二つあり、一つは高遠城の概括的な歴史のおさらい、もう一つは、博物館に隣接するもう一つの絵島の囲い屋敷を覗いてみたいと思ったのだ。
囲い屋敷は最初は長谷の非持に建てられ、その後高遠に移ったようだ。以前に呟いた非持の囲い屋敷には建物はなく、今回訪れたのは高遠に復元された方である。
絵島とは江戸城大奥で大年寄りの地位にありながら一種の政変の巻き添えにされ、この高遠の地に流され数奇な運命を生きた女性で、小説にもなっている。
記憶は定かでないが、以前にも囲い屋敷を訪れたことがある。が、それがこの場所だったか、それとも最初に住んだ非持という場所であったか、はっきりとしない。ただし、どちらであっても菜の花が咲いていて、建物があったことは間違いがない。
現在の博物館の隣に復元された囲い屋敷は中に入ることができず、外から建物の中を窺うだけだが、記憶の中にある囲い屋敷へは内部にも入ることができた。訪れる人のいなかったのを幸い、そこで長い別れを前に友人と語ることができたと、以前にも呟いた。
高遠がなぜ絵島の流刑の地になったかは分からない。事件のあらましについても複雑で、ここでは詳らかにすることはできないので、興味のある人は他の資料に当たって欲しい。
ただ、20と数年、紙も筆も与えられず、1日一汁一菜が2回与えられ、衣類は木綿以外は許されず、冬でも火鉢だけの生活であったという。見張り役の武士2名と世話をする女性が1名いたらしいが、そういう窮屈な暮らしの中で、日蓮宗に帰依し法華経を読む日々であったと伝えられている。
多くの人を巻き込んでしまった事件は終生重く彼女を苦しめ、さいなんだとことだろう。それでも、寺を訪れることと医者の世話になることは赦されていたと話す人もいる。あるいは、訪れた寺で碁を打ったということも聞いたような気がする。徐々に高遠藩の扱いが寛大になったのかも知れない。
ある時から魚を絶ったとか、宗教的な理由も考えられるが、そうやって死期を早めようとしたと想像できなくもない。ともかく、何の希望もない、ただ生かされているだけの長い年月であっただろう。それでも彼女はそういう日々を生き通した。
あの囲い屋敷からは仙丈岳が見えたのだろうか。三峰川の流れはどうだったろう。四季折々の自然と法華経だけが生きるよすがであったろうと、そう思うしかない。人柄などについては、あまり多くは伝わっていない。61年の生涯であったという。
久しぶりに雨が降っている。本日はこの辺で、明日は沈黙します。