確かに雪が降った。気温も零下になった。しかしきょうの写真のように、ここら辺りはそれ程大騒ぎすることはなかったと言っていい。気になっていた小学生の通学路の雪掻きにも行かずに済んだ。
昨日呟いた沢底の「鎮大神社」のことについてもう少しだけ言い足しておきたい。神社の名前が「鎮める」という言葉を持つからつい戦乱を想起するが創建は江戸の時代であるらしい、自然災害や病気から守ってほしいという願いがあって造営されたとも考えられる。
南側の山を越したマツタケで知られる「後山(うしろやま)」の人たちは先祖が水害に遭い、諏訪から移り住んだのだと、以前に土地の人から聞いたことがある。確か、この集落でも行われる御柱を見に行った時のことだった。
どちらも東から西に下る細長い谷の中の似たような集落だが、面積、人口は沢底の方が少し広くて大きいだろう。また、沢底は諏訪市ではなく辰野町である。
集落の規模に比べて神社は過ぎたる、と言ってもいいかもしれない。参道の鳥居から始まり、石材が多く使われていた。手水舎はさすが沢底という地名を裏切らず大きな石の水盤にはいつも水が流れ、本殿までの石段は三段階に分かれて続いていた。
その途中、中段階の石段の左右にあった「社」もしくは「祠」を、昨日は「摂社」とか「末社」とか、うろ覚えの言葉を不用意に使ってしまったが、間違っていた。で、その数は合わせて10近くもあっただろうか、これだけを見ても多くの神々が祀られていて驚く。もしかすれば建御名方(たけみなかた)神や大社と関連する祭神ばかりではなかったかも知れない。
石段を登り切った本殿はあまり古さを感じない、意外と簡素な建物だった。ありふれた、と言ってもいいかもしれない。ここでも、多数の篤志家の浄財で多くの石材が目立ったが、近くの案内板にによれば造営されたのは1751年から64年とある。それに比べると石材はあまり古いとは思えず、きっと後の世のものだろう。
境内は古杉に囲まれ 、過ぎた年月と、人々の祈りが 淑気となって、ひっそりと鎮まっていた。
あれだけの立派な神社を建てるということは、当時の人々の信仰の深さが想像できる。鎌倉の時代から知られ、全国に分祀されるようになった諏訪大社である。その威勢はもちろんのこと上伊那にも及んでいた。まして山ひとつ越えたこの土地の人々であれば、その結び付きや影響力はより強く、深く人々の心に浸透していったであろう。
なお、本殿の傍にあった地元の教育委員会による案内板だが、建物の説明もいいが、せめて肝心の祭神の名前や、同じく神社の名前の由来ぐらいは記しておいてほしかった。「鎮大神社」、人々は一体何を鎮めてほしいと祈ったのだろうか。
本日はこの辺で。
昨日呟いた沢底の「鎮大神社」のことについてもう少しだけ言い足しておきたい。神社の名前が「鎮める」という言葉を持つからつい戦乱を想起するが創建は江戸の時代であるらしい、自然災害や病気から守ってほしいという願いがあって造営されたとも考えられる。
南側の山を越したマツタケで知られる「後山(うしろやま)」の人たちは先祖が水害に遭い、諏訪から移り住んだのだと、以前に土地の人から聞いたことがある。確か、この集落でも行われる御柱を見に行った時のことだった。
どちらも東から西に下る細長い谷の中の似たような集落だが、面積、人口は沢底の方が少し広くて大きいだろう。また、沢底は諏訪市ではなく辰野町である。
集落の規模に比べて神社は過ぎたる、と言ってもいいかもしれない。参道の鳥居から始まり、石材が多く使われていた。手水舎はさすが沢底という地名を裏切らず大きな石の水盤にはいつも水が流れ、本殿までの石段は三段階に分かれて続いていた。
その途中、中段階の石段の左右にあった「社」もしくは「祠」を、昨日は「摂社」とか「末社」とか、うろ覚えの言葉を不用意に使ってしまったが、間違っていた。で、その数は合わせて10近くもあっただろうか、これだけを見ても多くの神々が祀られていて驚く。もしかすれば建御名方(たけみなかた)神や大社と関連する祭神ばかりではなかったかも知れない。
石段を登り切った本殿はあまり古さを感じない、意外と簡素な建物だった。ありふれた、と言ってもいいかもしれない。ここでも、多数の篤志家の浄財で多くの石材が目立ったが、近くの案内板にによれば造営されたのは1751年から64年とある。それに比べると石材はあまり古いとは思えず、きっと後の世のものだろう。
境内は古杉に囲まれ 、過ぎた年月と、人々の祈りが 淑気となって、ひっそりと鎮まっていた。
あれだけの立派な神社を建てるということは、当時の人々の信仰の深さが想像できる。鎌倉の時代から知られ、全国に分祀されるようになった諏訪大社である。その威勢はもちろんのこと上伊那にも及んでいた。まして山ひとつ越えたこの土地の人々であれば、その結び付きや影響力はより強く、深く人々の心に浸透していったであろう。
なお、本殿の傍にあった地元の教育委員会による案内板だが、建物の説明もいいが、せめて肝心の祭神の名前や、同じく神社の名前の由来ぐらいは記しておいてほしかった。「鎮大神社」、人々は一体何を鎮めてほしいと祈ったのだろうか。
本日はこの辺で。