取り残されたような気分を感じながら皆を送る。それから小屋の火元を確認し、戸締りをして、忘れ物がないかと何度も点検する。それでも前回は携帯電話を忘れたことに気付き、牧場へ入った所で引き返した。
雪の中の山小屋、何より恐れるのは失火で、小屋を離れる時にも頭の中で見落としがなかったかと記憶を呼び戻す。電話は以前から切ったままで、最後にガスの元栓を占めたこと、テレビやPCの電源を切ったことを頭の中で確かめた。
大晦日からきょう10日まで、里よりか上にいる方が多かった。そのせいでだろう、目が覚めて、どこに寝ているのかと少し混乱した。上にいようと、下にいようと気分は似たようなものだが、暮らしの便利さやいつでも風呂に入れるのが有難い。なにより炊事の際に、栓をひねれば水道から水が出てくるというごく当たり前のことが、どれほど安心できることか。
北海道が寒波の影響で大分寒いらしいが、それでもまだ零下4度や5度とか、そんなことで取り立てて騒ぐ都会者の感覚の方がおかしいと、零下10度以下を体験してきた者は思う。冬は寒いのだ。
昨日の今ごろは、荒れた雪道を先へ先へとスキーを滑らす単調な行動を続けていた。一人であること、雪の山の中であること、それに幾度も通った過去の記憶も重なって、いまこうして炬燵の中で思い出していると、それなりの愛着を覚える。もっと、ゆっくりと味わいながら飲むべき特別な酒を、そうとも知らずに空にしてしまったような気がしないでもない。
こんなどうでもいいような写真だが、これを撮る前にはまずストックのベルトを手から外し、ストックを雪に突き刺し、手袋を脱いでその上にかぶせ、窮屈なズボンのポケットから携帯電話を取り出す。ろくに対象も見ずに取り敢えずシャッターを押す。逆光も順光も気にしない。どんな映像が撮れたかすら確かめずに、早々にまた携帯をポケットに押し込む。
そんな一コマに過ぎないような場面だが、本人にはそれでも何倍もの印象的な記憶になって残っている。体感温度、足の疲労、背中の荷物、雪道の登り、馴染みの大曲り、サルオガセの垂れ下がる落葉松の林、そこから射し込む眩い新鮮な朝の光・・・、かつてはこの大曲りで雪掻きに汗を流したことだって一度ならずある。
それからも歩き続け、ゴンドラに乗り帰ってきて、さらに長い一日があった。しばらく山の日々は遠ざかろうが、雪の古道や、そこでの足に残るスノーシューズや山スキーの感覚が、また上に行こうと誘うだろうか。
本日はこの辺で。