諦めていたカタクリが新たに2枚の葉ばかりか、開花まであと一歩の蕾まで見せてくれている。きょうは気温も上がるようだし、紫(桃色だと言う人もいる)の花が開くかも知れない。植えてから4,5年もかかったが、そうなれば一株のカタクリがさらに増えていくことも期待できる。今でも10年以上前に作った山野草の一覧表は残してあるが、そこに記しておいた多くの種類はすっかり庭や畑から姿を消してしまった。これで、昨年新しく植えたイカリソウと、待望久しかったこのカタクリを表に新しく書き加えることができる。
イカリソウは、今では5か所に植わっている。一群だけは白い花で、他は紫色の花を咲かせる。これらも開花の時期はそれぞれが違い、白い花が一番遅い。山野草に関心を持ち始めた10年以上も前、雨飾山の山麓で見付けた自生のクリンソウの花がやはり白かった。白い花は北の方で咲き、その為に発芽が遅いのだろうか。
今春は、ハッカクレンの発芽が弱く、ヒトリシズカはまだその芽すら見せてくれない。
昨日、秋葉街道に関して、入笠にも縁のある宗良親王や、山頭火のことには触れないでおいた。そしたらいつも何事であれ、こじつけてでも、入笠を呟くくせにと、ある人のご指摘を受けた。
しかし、このお二方(一人はやんごとなき親王)に登場してもらうと、呟きが混乱する。大鹿村の大河原と吉野の往還に、歌人の親王の目に触れた自然が、数奇な運命と重なるとどう映ったのか、あるいは「行乞(ぎょうこつ)」しながら井月の墓に詣でんとした俳人の心中を思えば、勝手な空想に歯止めがかからなくなる。親王の姿はしかと見えないが、山頭火の旅支度はこの時も僧衣に、地下足袋だったろう。「行乞」とは、乞食することを「行」と捉えた山頭火の思いである。井月(せいげつ)は山頭火と同じく風狂に生き、その生涯を伊那の地で終えた出自不明の幕末から明治にかけての俳人である。
今、神坂峠に刺激され、東山道に関する本を読んでいる。松崎岩夫著「長野県の東山道」。こんなふうに歴史に興味を持つのは、短い生涯ではとても及ばない分を、少しばかり補ってみたいという希いでもあるからだろうか。丼子(どんぶりこ)