
零下25度にも耐えるという川上犬のHALでも、暖かいに越したことはないらしく、日当たりの良い場所を選んで猫のように日向ぼこをしている。柿の実も椋鳥の旺盛な食欲でもう、大方が片付いてしまった。
随分と昔の山の記憶だ。あの時は仙丈岳から始めたのか、両股からだったかもう覚えていないが、南アルプスの主要な峰々を珍しく縦走しようとしたことがあった。7月の終わりで、その年は梅雨が遅くまで残り、1週間ばかりの山行で晴れたのは赤石岳から聖岳間のみという、ずぶ濡れのひどい山の日々だった。20食以上用意した食料は3分の1も食べられず、濡れたテントのせいもあって、ザックはいつまでも重かった。
すでに何度か訪れていた両股小屋に泊まったのか、近くでひとり幕営したか、それも覚えていない。ただし、ここの女主人のHさんから煙草を貰ったことは覚えている。山では煙草は貴重だから、普通そういうことはもちろんしない。まして、煙草は止めたつもりでいた。ただその時の彼女が、あまりに美味そうに吸うのを見ていて、魔が射したのかも知れなかった。すでに煙草の誘惑はとっくに克服したつもりでいたから、高をくくって、彼女から貴重な煙草を1本貰い吸った。ところが、これが美味かった。山の中の湿った大気が、紫煙に一味盛ったのも分かった。
それから4泊目だか5泊目だったか、茶臼岳の小屋にいつごろ着いたか、その日も雨だった。小屋の入り口で休んでいると、下から登山者が登ってきた。しかも彼は煙草の煙をくゆらせていた。瞬間、猛烈な喫煙への欲求がぶり返してきた。翌日の最終となる光岳往復への気持ちが、そこで呆気なくもグラついた。
小屋の主人からは、今からでは畑薙の最終バスはとても無理だというのを振り切って、文字通り一目散で駆け出した。とてもではないが、美味そうに煙草の煙を吹かすその登山者を尻目に、一夜を悶々と耐える苦痛が嫌だった。幸いバスには間に合い、その前にシャワーさえ浴びる時間があった。
実はしかし、静岡である女性と落ち合うことになっていた。それが約束の日よりも1日早く下りてきたことになった。見知らぬ街でその夜は1泊するつもりでいたが、にもかかわらず、まるで余勢にでも押されるようにして東京へ帰ってきてしまった。
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