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『リトル・ダンサー』が伝えるイギリス社会と今

2014-02-08 10:04:08 | 日記
以下の内容は、『むすび』〈2014年2月号)に掲載された記事です。たまたま地元松本の高校生が、スイスのローザンヌで開かれたバレー・国際コンクールで第一位となり、長野県ではもとより全国版でも大々的に報じられましたが、『リトル・ダンサー』も正にバレーのスターを目指す少年の物語。聞けば二山君も、決して恵まれた環境でバレーをやってきたわけではなく、家族や周りの皆さんの支えがあって今日に至ったのことです。ただし『リトル・ダンサー』の舞台は、今から四半世紀ほど前のイギリスです。



『リトル・ダンサー』が伝えるイギリス社会と今    
                                 
映画はいつもリメイクもどき。この作品も昔の作品を抜きには語れません。昔の作品とは、この欄でも先に取り上げた『わが谷は緑なりき』(201x年x月号)です。しかも市場経済万能いわゆる優勝劣敗を原理とした新「自由主義」時代という背景も似ています。

『わが谷は緑なりき』の舞台は19世紀末の英国のウエールズ地方、『リトル・ダンサー』(2000年、スティーブン・ダルドリ監督)は1980年代後半の英国北部で、地域性も、炭鉱の町という土地柄も、主人公が少年であることも共通しています。しかし二つの物語にはおよそ100年近くの隔たりがありますが、変わらないのは、額に汗して働く労働者と、上・中産階層者との階級制が色濃く残っている英国社会の現実です。『わが谷』の秀才ヒュー少年は家族や周囲から将来を期待されながらも、結局は父親の跡を継ぎ自ら炭坑夫になるという結末に対して、『リトル・ダンサー』のビリー少年は、炭鉱の町を出て、文字通りダンサーになるという違いはあります。が、本来であるならば、ビリー少年も炭坑夫になるはずだった、という筋立ては『わが谷』と変わりはありません。それを押して彼がダンサーの道を選ぶには、階級制という高いハードルを彼のみならず家族みんなで乗り越える、というのがこの物語を『わが谷』から前進させたところであり、又時代の流れでもあったことを窺わせます。僕流に解釈すれば、ヒュー少年は100年の時を経てビリー少年に変身できた、と言うことでしょうか。ちなみにこの作品がその後舞台でも上演され、今日もなお高い人気を博しているのは、こうした英国社会の現実があってのような気がします。

幼い頃母を亡くしたビリー少年(ジェイミー・ベル)は、炭坑夫の父(ゲアリー・ルイス)と兄(ジェイミー・トラヴェン)、それに軽度の認知症になったおばあちゃんとの四人暮らし。そこに経済不況下、合理化の波が炭鉱の町にも押し寄せストライキが日常化、働く者たちを分断します。そんな中、父親の期待を背負ってボクシングの練習に通っていたビリーは、ストが取り持つ縁で? バレーを習うことになるのです。その彼の才能を見抜いたのがウイルキンソン先生(ジュリー・ウォルターズ)なのですが、父も兄も猛反対、「中産階級の先生に何がわかるか!」と食って掛かります。結論は先刻お知らせ済み、この間の家族愛、友情、そして師弟愛が彩なす情景は『わが谷』に引けを取るものではありません。

さてもう一つの共通点。古典的な「自由主義」の影響を受けていたのが『わが谷』とすれば、『リトル』は、そのリメイク、今日世界的な風潮となっている新「自由主義」の煽りを真面に受けていたという時代背景があったことです。それを先導したのが当時の英国の首相サッチャーさんで、日本では中曽根さんの国鉄民営化、小泉さんの郵政民営化が後に続きます。深読みすれば、今日の「アベノミクス」やTPP(アメリカ化)も、二極分化の加速化=英国並みの階級社会に逆戻りなんてことを考えさせるのが、この作品でもあったのです。

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