昨5月10日は須藤康花の命日。早朝松本駅から特急あずさで東京の菩提寺に墓参してきました。お寺には昨年同様、縁者の他、康花の友人二人が来てくれました。墓参後、縁者との話の中で、夫を亡くし子供もいない縁者は残される自分たちの先祖代々の墓のことについて心配していました。近年、特に都会に在住する墓を持たない人たちは、子供がいるいないに拘わらず、散骨、あるいは樹木の下に埋葬するとか、墓を作らないこともあるようです。これも東京一極集中と核家族化・少子化がもたらした結果と言えるのでしょう。墓があってもそれを継ぐ人がいない、となれば墓を作っても意味がないということになるのでしょうか。
「歴史を知らぬ者に未来はない」とはよく言いますが、家族の歴史そのものが詰まっている「墓」をも不要となってきている時代、民族や国、そして他国との歴史等に目が向けられなくなるのも当然です。祖父母はもとより父母の歴史を知らない世代が、アメリカとの戦争があったことを知らないのも驚くに値しないことなのかもしれません。しかし、縁者が心配するように、墓は家族親族だけのものではありません。墓があればこそ、康花の友人たちは毎年命日には墓参してくれています。それは小生も含めてそれぞれの人にも当てはまることのように思います。お墓が繋ぐ“縁・過去”は決して小さくはないような気がします。
哲学的に解釈するならば、人の判断・推理基準の一つとなる「帰納」は、過去の経験則に依存している部分が大であって、人は“自己中”的な状態にある「即自」に止まっている限り真理(本人、家族、友人、国の平和も)は見えてこないと言うことです。お墓はその「帰納」「即自」を見つめる最も身近な存在だというのが小生の見解です。大学での講義で、経済学における基礎単位としての家族の有様の中でのお墓の意義を話したことがあります。お墓は生きている人間にとっても、「外部経済」であっても「外部不経済」ではないのです。そのかつての教え子・元学生諸君たちのご両親も鬼籍に近づいている方もおられることかと思います。そのご両親の孫でもある元青年たちの子供たちの未来のためにも、かつて青年であった皆さんが「墓」について考える参考の縁ともなればと、わが墓参りで思いつくまま一言触れた次第です。
ちなみに墓に眠る康科の作品の殆どは、光と影、明と闇、生と死、此岸と彼岸、存在と無、美と醜、等を題材としたもので、「即自」からの昇華・止揚を目指しています。現在、企画展示中の「裸婦変容」も、裸婦を通じた彼女の死生美醜観を表現してます。死ぬ間際まで墓参りを欠かせたことのなかった彼女自身とも繋がっているということでしょう。ご来館をお待ちしています。
「歴史を知らぬ者に未来はない」とはよく言いますが、家族の歴史そのものが詰まっている「墓」をも不要となってきている時代、民族や国、そして他国との歴史等に目が向けられなくなるのも当然です。祖父母はもとより父母の歴史を知らない世代が、アメリカとの戦争があったことを知らないのも驚くに値しないことなのかもしれません。しかし、縁者が心配するように、墓は家族親族だけのものではありません。墓があればこそ、康花の友人たちは毎年命日には墓参してくれています。それは小生も含めてそれぞれの人にも当てはまることのように思います。お墓が繋ぐ“縁・過去”は決して小さくはないような気がします。
哲学的に解釈するならば、人の判断・推理基準の一つとなる「帰納」は、過去の経験則に依存している部分が大であって、人は“自己中”的な状態にある「即自」に止まっている限り真理(本人、家族、友人、国の平和も)は見えてこないと言うことです。お墓はその「帰納」「即自」を見つめる最も身近な存在だというのが小生の見解です。大学での講義で、経済学における基礎単位としての家族の有様の中でのお墓の意義を話したことがあります。お墓は生きている人間にとっても、「外部経済」であっても「外部不経済」ではないのです。そのかつての教え子・元学生諸君たちのご両親も鬼籍に近づいている方もおられることかと思います。そのご両親の孫でもある元青年たちの子供たちの未来のためにも、かつて青年であった皆さんが「墓」について考える参考の縁ともなればと、わが墓参りで思いつくまま一言触れた次第です。
ちなみに墓に眠る康科の作品の殆どは、光と影、明と闇、生と死、此岸と彼岸、存在と無、美と醜、等を題材としたもので、「即自」からの昇華・止揚を目指しています。現在、企画展示中の「裸婦変容」も、裸婦を通じた彼女の死生美醜観を表現してます。死ぬ間際まで墓参りを欠かせたことのなかった彼女自身とも繋がっているということでしょう。ご来館をお待ちしています。
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