靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

ピクニック

2011-07-22 00:01:23 | 出来事や雑感や (その他)
近所の公園でピクニック。

雨もちらほらのなか集まったけれど、しばらくして青空!

砂で、


ボールで、


チョークで遊んで。


ホットサンドイッチ!

友人の用意周到さに舌を巻く。料理道具一式、食器類、テーブルクロス、飲み物(湯、茶、コーヒー、ジュース)全て揃っている! ありがとうございます。美味しく温まりました。

わいわいと食べる。


走って走って、


ママ~、リスリス!

こども料理

2011-07-22 00:00:58 | 
長男手を怪我しても料理。「ドーナツどうしても食べたいっ」といてもたってもいられず。

ユーチューブからレシピを左手で書き留めて、


本人にだけ読める。


ギブスの中に小麦粉入ったかも・・・、とつぶやきながら。


三女は、スモーク・サーモン手伝い。

小説「砂漠の紅」(仮題)1、推敲中

2011-07-20 01:27:30 | 詩・フィクション・ノンフィクション・俳句
 金色の砂が風にふかれ、真っ青な空に舞い上がる。ついさっき水筒の底に張り付いた最後の一滴の水を飲み終えたところ。空っぽになった赤色の水筒はあまりにも軽すぎて、手を放せば今にも空の彼方に消えていきそう、風船のように。

 もう歩くのやめてしまおう。

 砂の上に空を仰いで寝転がる。熱を含んだ砂が背中に当たる。まるで砂の一粒一粒が目に見えないほど小さな粒子となって、服を皮膚を通りぬけ身体の奥深くまで入り込んでくるかのよう。こうして寝転んでいれば、やがて死んでしまうのだろうか。熱いだろうけれど、炎に炙られるのに比べたらずっと楽に、痛みもそれほどなく眠るみたいに死ぬことができるのだろうか。身体中の水分が蒸発し、徐々に軽くなっていくのを想像してみる。浮かんでいく、赤い風船みたいに。

 両手で砂を掴み、真っ直ぐ伸びることしか考えなかった幹のように、高く高く空へ掲げてみる。サラサラと落ちる砂の粒がいくつもの小さな光を放ちながら、胸のあたりに積もっていく。一粒一粒の砂が集まって、こんな果てしのない砂漠が出来上がっている。見渡す限りどの方角を見たって砂しか見えやしない、気が遠くなるくらい広大な砂漠。


 目を閉じると、黒と白に彩られた部屋が見える。仲良く並んだ二つの棺。棺と棺の間には、ちょうど私の手の平を広げたサイズの隙間。私は静かに横たわる父と母をすっぽりと包んだその二つの直方体の入れ物の間に、そっと手を差し入れてみる。父と母の手の温もりが、私の手を包み込むのを待つかのように。
 二人ともきれいな顔をしていた。体の損傷は結構なものだったらしいけれど、「頭部は奇跡的にほとんど傷がないんですよ」と解剖医が言っていた。死に化粧はほとんどする必要がなかった。丁寧に塗られた白粉と頬紅、母が化粧をするのはどこか特別なところへ出かける時だけだった。あの日は母にとって特別な日だったのだろう。どんなに楽しみにしていたか、あの高田川の桜を父と見に行くことを。
 父と母が見ることのなかった今年の桜も散り、梅雨がやってきた。いつもうっとおしく思う雨続きの日々も、今年は心地よく感じた。まるでぬぐってもぬぐっても湧き出てくる痛みを洗い流してくれるようで。灰色の雨雲がまぶしい真っ白な雲と入れ替わり始める頃、私は日本を出た。雨の全くない地へ、太陽の光を何一つ遮るもののないこの砂漠へ。

洗い流すのが無理ならば、焼き尽くすのはどうだろう?


 目を開け、砂漠にいる自分へとゆっくり戻ってくる。まっすぐ見上げた先から少しずれたところに太陽がある。再び目を閉じ、首をゆっくりと左右に揺らしてみる。まぶたの上を熱が動く。太陽の中心からのびた光の筋は、まぶたに触れるたびそれが中心からの光なのだと分からせる一際高い熱を帯びている。この光の筋を身体中にあてていこう、足の先から手の先まで、皮膚を突き破り内臓の一つ一つまで、胸の奥の照らしても照らしても一瞬にして吸い込まれていく闇へ。

 このまま横になっていたら、いつしか境界を越え、また父と母に会えるのだろうか。あの母の飾り気のない笑顔と、あの父の薄汚れた作業服の匂いと。明日の新聞には「日本人の女が砂漠で行方不明」という見出しがでるのかもしれない。赤い水筒しかもってなかったらしい、日本のどこかの町に散歩にいくつもりでいたのだろうか、今時の日本の大学生、なんて笑われたりもするのだろうか。一瞬眉をひそめ、人々はまた日常のリズムに戻っていく、何事もなかったように。そもそも私がいなくなったからって私のことを話題にする人なんているのかな。悲しんでくれる人? 一体私がいなくなったということに気がつく人が何人いるのだろう、あの東京から私がいなくなったことに。

(続く)

ブログの更新、書いていくということ

2011-07-18 00:01:39 | お知らせ
週2~4回をめどにブログ更新をしていこうと思っています。

とにかく「書きたい」という気持ちが強く、こうして書くことができる状況に感謝しています。

「書くこと」の中でも、小説に時間と力を注いでいきたいという気持ちが日に日に大きくなっているのですが、かといってこれ以上書くことに費やす時間を増やすことは、今のこの7人家族の状況では難しく。ブログに小説を発表していこうとも考えたのですが、何度も何度も遡って推敲してしまうので、今の私にはまだ無理です。

3月に書き上げた小説1作目は、寝食の時間を大幅に削り、まさしく肉体の限界に挑戦という状態でかなり無理をしたのですが、「書くこと」をできる限り長く続けていきたいので、それには続けていける形を整えていかなければ、と思っています。2作目、周りの状況や身体とのバランスをとりながら、前回よりややゆっくりのペースで書き続けています。

このブログを見、原稿を頼んでくださる方も出てき、「書いていく」というライフスタイルを整えるためにアクションを起こすときが来ているのだと感じています。


このブログは早朝の内面整理、日々進んでいく上での方向性や力を与えてくれます。すぐに迷宮にはまってもがき始める私にとって大きな支えとなってきました。ブログに今まで書いてきたこと、いただいたコメントの数々、読んで下さる方々の気持ち、これから進んでいく上での土台になると確信しています。

近い将来、皆様に読んでいただけるような小説が書けることを願いつつ、日々精進していきます。

感謝を込めて。

ある体験、そしてある詩集との出会い

2011-07-15 23:59:04 | 私史
4年ほど前、状況的に難しい時期で、毎晩枕が涙で濡れていた。

ある晩、風に揺れる窓の外の木々を見ていると、自身の奥底から、不思議な感覚がふつふつと湧き出てくるのに気がついた。その感覚はやがて炎のように体中を駆け巡る、まるでそれまでの自分を焼き尽くすかのように。

その感覚を言葉で表すのなら「感謝の集積」といったようなもの、「爆発的な喜びであり幸福」のようなもの。涙はいつしか歓喜の涙に変わっていった。

絶望的にも思える自身の置かれた状況で、喜びの涙にあふれている自分がいた。


そんな体験をしてしばらくのこと。大手ホールセールの店で、まだ赤子だった三女をあやしながら本売り場を通り過ぎようとしたとき、一冊の本が目に入った。同じ向きに均等に積まれた何冊もの本の上に、その本だけ斜めにポンと置かれてあった。何気なく手にとってみる。周りを見、その本が積まれた箇所を探してみても同じ本は見当たらない。その店で売られている本にはその店の名前や値段のついたシールが貼ってあるのだけれど、青いカバーのどこにもそのシールが見当たらない。

誰かが置き忘れていったのかもしれない、そう思った。

レジで「この本この店のものではないのかもしれないのだけれど、もし売り物なら買いたい」と差し出すと、店員たちは首を傾げながら値段のついたシールを探している。試しに本自体のバーコードを機械に読ませてみると、ピッという音とともに「7ドル」という数字をはじきだした。

こうして手にしたのが、

“I Heard God Laughing” by Hifiz 

Hifiz(1325/26–1389/90)はペルシアの詩人、イスラム神秘主義スーフィーの修行者。

この詩集には喜び溢れる詩が並んでいる。希望や喜びに満ちた詩、なんて能天気な人なのだろうとあきれるほどの。


このブログの『引用』にも一度載せたのだけれど:

I am happy even before I have a reason.

I am full of Light even before the sky can greet the sun or the moon.

(引用終わり)


私は理由ある以前でさえ幸福である

空が太陽や月に挨拶する以前でさえ私は光に満ち溢れている



この詩を読むと、あの歓喜の涙に溢れた夜を思い出す。


幸福であることに理由などいらない。

日々、瞬間瞬間に、あの歓喜の源に戻る。


幸い、あの夜以来、周りの状況は改善していった。

まずは内に。外の状況は、内の状態の表れとして後からついてくるのかもしれない。

レゴ・リーグ、第一回ミーティング

2011-07-15 23:58:06 | レゴリーグ
長男が今年初め参加した『レゴロボット競技会』、学校から参加したのだけれど、「来年は自分たちでチームを組んで参加してみたい」と言い出した。

「それにはコーチが必要だよね」と話し合あった後、夫と近所のスーパーへ買い物に出かけた長男、夏休みに入ってすぐに参加した『レゴロボット・ワークショップ』のインストラクターと偶然再会。「今こんな話をしていたとこなんです」と伝えると、「コーチやってあげるよ」と! 

とんとん拍子で話は進み、昨日は第一回ミーティング。

このコーチ、今まで州大会を勝ち抜きナショナル大会、インターナショナル大会へと何度か進んだことのあるチームのリーダーだったという実績の持ち主。昨年、一昨年は『レゴロボット競技会』の審査員だったとも。

メンバーは今のところ主に同じ学校の子供たち5人(長女も!)。


一月の州大会に向けて、月ごとの目標を話し合う。

エキサイティングな冬になりそうだ。

Aさんのたどり着き方

2011-07-14 01:25:13 | イメージ・ヴィジョン
Aさんの絶対へのたどり着き方は 

Bさんや Cさんにとっては あくまで「Aさんの絶対へのたどり着き方」であって

Bさんや Cさんの 絶対へのたどり着き方ではない


各々の絶対へのたどり着き方には 共通点もたくさんあるだろう

だから参考にはなる 他人の絶対へのたどり着き方を知ることは

ただ 基本前提は あくまで「それは自分の絶対へのたどり着き方ではない」ということ


「絶対」なんてありやしない というたどり着き方だってある

本当の絶対は 絶対/ 絶対でない を超えたところにあるのだから