靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

今後の更新について

2012-04-11 00:02:33 | お知らせ
四月でブログを始めて二年になりました。書くことに、こうして読んで下さる方々がいることにどれほど励まされてきたか分かりません。ありがとうございます。

一番下の次男が二歳半となり、ここ十三年近くの間、妊娠もしておらず赤子を抱えることもなくこれほど身軽に動き回れるようになってきたのも初めてのことです。今年秋からは三女がキンダー(予定)、日中子供が一人だけという私にとってはとてつもない変化。次男がキンダーにあがる二年半後までは本格的に動き出すということはありませんが、そろそろ子供が日中いなくなる時へ向けての準備に本腰入れて取り組んでいこうと思っています。私にとってかなりのチャレンジングな道なのですが、春のせいかチャレンジしたくてむずむずとしている自分がいます。(笑)最大限自分を「使って」いけたら。

といって、ひとまず目の前には「レゴリーグ世界大会」があり、この先出発までの二週間ほどエンジニアファームでのプリゼンテーションも含めそちらにかかりきりになる予定です。そして22-30日までミズーリ州セントルイスにて「世界大会」(報告します!)、その後三女キンダー入学に向けての準備大詰め二ヶ月程、五月中旬からは三ヶ月間の夏休みも。そんなこんなで私自身の準備にじっくり取り組むのは秋になるかもしれませんが。一つ一つを丁寧に仕上げていきたいです。

今後、気にかけて下さる方々のために写真などで近況を知らせることを主流に、箇条書きなどの一言整理的な書き込みをしていきたいと思っています。時間が二倍あったら、寝ないでいい身体だったら、何度思ったことか分かりません。

春、ヴィジョンへ向けまた一歩踏み出しつつ。

これから書き込みが減りますが、細々とでも続けていきたいと思っています。

ここまで読んで下さった方々へ心より感謝を込めて。

母性スイッチ父性スイッチ

2012-04-11 00:02:18 | 子育てノート
母性スイッチ、父性スイッチ、ということをよく思う。母性父性というのは母だから父だからということでなく、一人一人の内に両性あるもの。

母性は無条件受け入れ/ 境界なし/ 抱く、父性は条件づけ/ 境界作り/ 突き放す 。

母性スイッチを常に「オン」にしておく。父性スイッチは必要なときに「オン」。それぐらいのバランスが調度いい。

母性スイッチを「オン」にするのを忘れているというシグナルが、最近分かるようになってきた。「オフ」になっているとまず子供が近寄りがたそう、ちびっ子たちの様子に如実に表れる。自身を鏡に映すと、無表情or眉間に皺がよりいかつい顔になっている。母性スイッチを「オン」にすると、眉間が緩み微笑が生まれる、そして子供たちに笑顔も。

母性スイッチ父性スイッチ両方必要。両方があって子供は育つ。時には厳しい条件つけて突き放すことも必要、それでも常に母性スイッチは「オン」にして。

このスイッチ操作が子育ての鍵なのだろう。

母性スイッチ「オン」、常に確認して。

祭行事を通して

2012-04-11 00:01:20 | 思うに
今年も過ぎ越しの祭と復活祭を祝った。過ぎ越しの祭はユダヤ教徒が「出エジプト」を思い出すための行事。復活祭はイエス・キリストの復活を祝うものだけれど、キリスト教徒以外にも広く行き渡っている。この時期アラスカでもウサギや卵をイメージしたパステルカラーのデコレーションが街中に溢れる。多産と再生を象徴するウサギと卵は、元々ヨーロッパ土着の春の祭りから復活祭に組み込まれていったとされる。

過ぎ越しの祭について去年まとめたもの

過ぎ越しの祭は、「自由」ということを見つめ直すための儀礼でもある。奴隷であるということ、自由になるということ、出エジプトの歴史を思い出しつつ体験していく。それは今現在誰にでも当てはまること、今あなたは何の奴隷になっているのかと問われる、自由の獲得に終わりはないのだと。

そして復活祭。木々が芽吹き始める春、再生のイメージが街に溢れている。

子供は祭り行事大好き。いつも指折り数えて楽しみにしている。子供たちと楽しみつつ、最近、毎年繰り返し儀礼や季節の行事を祝うことの貴さ大きさをひしひしと感じている。子供たちの内に何層にも積み重ねられた思い出として残っていくのだろう、私の内にあの夜店の並ぶ神社の祭りやお寺での盆踊りの風景が鮮やかに残っているように。

祭りや儀礼を終えた後には、いつも見慣れた風景がまた少し違って見える。節目を越え、何だかすっきりと軽く新しい気持ちで足を踏み出している。

こうして今年も心優しき友人達と家族と共に祭りを祝えたこと、感謝を込めて。


過ぎ越しの祭り準備。

レタス拭いて、


ナッツ砕いてアップルソースと混ぜて。


一つ一つ象徴的食べ物。一番上はマッツア(イーストを用いないパン)。

「カフェテリア宗教」

2012-04-11 00:00:36 | 思うに
「カフェテリア宗教」、原理主義者の人々が否定的に用いる言葉。あちらこちらから部分的に取捨選択して成る宗教のこと。

「カフェテリア宗教」でいいじゃないか、と思う。様々な宗教から学び、いいところを寄せ集めて。取捨選択の基準は、自身の良心。一人宗教。

ただ各宗教を守る人々は必要なのだろう、宗教の根幹にある知恵が伝えられていくためにも。日々決まった形をとる儀礼儀式に身を投じ知恵知識のコアを守る人々。縁によってそういった役割を担う人もいる。昔、ある宗教団体の熱心な信者の知り合いに、「あなたがどの神にしようかと選ぶのでなく神があなたを選ぶのよ」と言われたことがある。私なりに分かる、神というか縁のようなものがあるのだろうと。

科学的知識を積み重ねても至ることのない知恵、それはやはり宗教的なるもののコアに見出せるのだと思う。

聖書を読むのは好きだし、ユダヤ教の知恵は腹にくるものが多いし、仏教や父方が代々神官だったという神道については日本に育ち身体に染みついているのだろうけれど、様々な教えについてもっと学んでいけたら、そう思いつつ。