会場に向かう途中、いまにも雨が降ってきそうだった。季節の変わり目の時期に開催日があたるからか、よく花祭りの日には雨が降っているような気がする。ところどころ残雪があって驚いた。既に駐車場は満杯で、路肩の安全なところに車を停めた。シーズン最後の地区だし、暖かい方の時期の開催なので、よそからの見物客が多く感じられる。当地区と長年親しくさせていただいているのでマ半被を着て、会場へと降りていった。
花太夫さんによる「撥の舞」。
「順の舞」。今年もまさ兄は茶目っ気たっぷり(笑) 会場の女性を引き込んだり、道化役を務めていた。突然、まさ兄から「歌ぐらやれや」と言われ、他の人から歌詞が載った紙を渡され、まだそこまでのテンション、雰囲気に行ってなかったので、戸惑いながら詠い出した。この舞が終わったらすぐ、ガソリン(お酒)補給に外の売店に向かった。今年も銭湯仲間がたこ焼き、焼き鳥等を売りに来てくれていた。
「市の舞」。厳かに若者が舞う。
「花の舞」。かまどの蓋の上に「英勲」の緑のパックが置かれているのも布川の花祭りらしいところ。お酒をよくいだだけてありがたかった。
花祭りは再会も楽しみのひとつ。下粟代の若者K君も来ていた。明日仕事ということでお酒は一緒に飲めなかったが、一緒ににたこ焼きを食べた。この前の大雪の話や、勤めている消防署の勤務の話とかをした。会場にも来ていたけど、同じ下粟代の地区の人が穏やかそうな感じなのに花祭りの舞の指導が厳しかったと聞き、驚いた。古戸の人とか、色々な人の話が聞けた。雨が段々としっかりと降り始め、外に居続けることはできなくなった。
「山見鬼」の伴鬼で呼ばれた。「榊鬼」辺りでと思っていたが。下粟代と違い、かまどを周回し続ける。目の前で先程話した古戸の人が囃しながら導いてくれたので、楽しく舞えた。ただ、前を複数の面着けた豊川の花キチ少年が舞っている時は、こっちにも面の1つが向いていて、なんか船酔いみたいになったよ(汗)
年配の人も若者も、せいと衆がアツく囃していた。
「三ツ舞(剣)」。まだまだせいと衆は元気に囃していた。いつも誰かが囃している状態っていいね。
車で少し休んでから再び会場へ。「翁」。まさ兄が女性の品定めをさせていた(笑) 凄いなあ、長丁場で道化役をし続けられるって。
そして、いよいよ「湯囃し」。目一杯湯を浴びた。
本当は「茂吉鬼」でも伴鬼を誘われたのだが、もう歳なので二つはキツい。なんて言ったら、何舞もやって他のお役目もある地元の人に対して失礼だが。だったら他の人を自分であたることにした。この時間だともう会場に来ている色々な人と交流しているので、立てたスカウトアンテナがすっと反応し、ある若者(学生さん?)に声を掛けた。今回も一発でキマリv 神部屋に案内した。初めてなのに一番手で出てきて、当然上手く舞えるわけない。支度する人も罪よのう(笑) でも、他が出てきたらすぐに同じ様に舞っていて、感心した。終わって声掛けたら喜んでくれて何よりだった。
「獅子」で舞は終了。神返しの神事が始まった。「ひいなおろし」?祓い銭や干し柿などを頂いた。
花太夫さんから「本当は『ざぜち』とかの飾りは納めてから希望者は貰うものだ」と話を聞いた。ここでは「ざぜち」とかの飾りは片付けが始まるとすぐ見物客に貰われているが、確かに自分が来始めた頃は外の小屋の裏に持って行かれていた様な記憶がある。もうその様にすることはないだろうが、本来はそういうものだということは頭の隅に置きたいと思う。また、太鼓の撥をしまう箱を見せてもらった。裏に「文政六年」とあった。すぐその場で携帯で調べたら、西暦1823年辺りだそうである。
「一本箸で粥をすするのは昔の大神楽の次第の白山浄土入りに通ずるといわれています」と、東栄町花祭りのHPより。
雨は終了時上がっていたが、テントとか濡れているせいか今年は片付けをこの後やらず、地元の人は一旦引き上げていった。自分も会場をあとにした。
ドライブインにより、東栄チキンとか好物の特産品を買っていった。わさびの花が売られていて、珍しいので買った。天ぷらにしたが苦いだけだった。今度は別の食べ方をしてみようと思う。
さあ、来シーズンを楽しみに生きていきましょう!