日本のゆくえ

日本の経済と、日本人の精神はどこへ行くのか? 新自由主義社会に反乱を起こし、生き残るためのブログ

冤罪事件と、死刑廃止論

2008-04-13 22:20:20 | Weblog
今日のサンデープロジェクトを観て、お~たまにはテレビ朝日も良い番組を作るんだな~と感心しました。(まあ、本当にごくたまになんですけど…)

交差点にて右折待ちで止まっているバスに、時速100キロの白バイが突っ込んできた交通事故で、バスの運転手が禁固刑になってしまった例の「高知スクールバス事件」を取り上げていましたが、ありゃ明らかに警察側のでっち上げでしょう。

番組では他に何件かの冤罪事件がピックアップされていましたが、状況証拠しか得られない事件で、本人がそれを否認している場合、アメリカでは有罪率が50%なのに対して、日本では98%などという数字は無茶苦茶でしょう。

又、司法の学びの場において、有罪の書類手続きの仕方は教えられるのに、無罪の手続きは教えられていない日本の司法って、なんじゃそりゃ?って感じでした。そんなんじゃあ、「推定無罪」や「疑わしきは罰ぜず」という有名な司法の言葉が、実際には日本で行われていないというのも理解できるというものです。

冤罪判決について考えてみると、ことに死刑判決の冤罪を受けてしまった場合は、取り返しがつかないことになってしまいます。

以前亀井勝手連というホームページを立ち上げ、亀井静香という政治家を応援していた立場から、死刑制度について考えることも逃げられない状況が僕にはありましたが、僕も元々は死刑存置論者でした。

亀井さんの主張は、元警察官僚の立場から、取り調べのプロセスの中で冤罪は起こり得るものだという考えを持ち、1994年に、超党派で結成した「死刑廃止を推進する議員連盟」の会長を引き受けたのですが、会長なんて、福島瑞穂にでもやらせておけば良いものを、こういう人の嫌がることを引き受けてしまうから、人気が落ちてしまうのです(笑)

しかし僕も今では、すっかり死刑廃止論者なのですが。

死刑廃止論のポイントを数点挙げれば、まず、なぜに被害者の感情的な復讐を国家が代わりにやらなければならないのかという話しになります。巷では被害者の心情はどうなるのかという、ステレオタイプの反論がありますが、被害者などは自分の可愛い子どもが腕一本折られただけでも、加害者を死刑にしたくなるものです。

2点目は、死刑制度が犯罪抑止力になっていないということです。殺人の瞬間などはたいがい理性がふっとんで、感情でカーッとなってやってしまうわけで、死刑制度が存置されていても、アメリカも日本も凶悪犯罪が減っているわけではありません。

3点目は、死刑に関する各国の状況が全世界的に廃止の方向にあるということです。現在死刑廃止にしている国は世界で91ヶ国、死刑制度を存置しながら10年以上執行されていない国は11ヶ国で、ルワンダや、エクアドル、カンボジアなどの後進国まで死刑制度を廃止にしているくらいです。早い話が、先進国で死刑を認めているのは日本とアメリカくらいで、たいがい世論をリードするような哲学者がいないか、国民的に哲学に弱い国なわけです。

4点目に、もっとも重要なのが冤罪の問題です。

EUなどは死刑廃止が加盟条件ですらあり、古くはトーマス・モアから始まった廃止論が哲学的、又は宗教的なあらゆる議論の末に冤罪の可能性を回避できないという理由で、死刑廃止の制度的な結論がなされたのでした。

僕が亀井勝手連のボードリーダーをやっていたときは、これについてかなりの論争になりましたが、「たとえ自分の娘が冤罪で死刑になったとしても、私は死刑制度を尊重して、あえて受け止める」というある方のレスポンスを戴いたときに、こりゃダメだと思って「そこまで考えているなら死刑存置論もありですね」とだけ返事し、議論を終了しました。

でも皆さん考えて下さい。自分の娘が冤罪を受けても、死刑制度の方を尊重するなんて、死刑存置論者の方が、どう考えてみたって狂気ですよ(笑)

さて、安部晋三が死刑にした回数は首相就任わずか1年で10人、福田康夫で6人、1950年以来のもの凄い早いペースで処刑が行われています。

オランウータンのような平和主義者に見えますが、ようやるな、あのオッサンって感じです(苦笑)