日本のゆくえ

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ゴルディアスの結び目

2008-04-05 11:48:48 | Weblog
世の中には、複雑に絡(から)まって、なかなかほどけない紐のようなものがあるようです。

現在、テレビ番組やニンテンドーDSなどでは、雑学問題やらクイズ番組やらが花盛りです。僕も、中学校の先生にIQテストの点数がそうとう高かったことを告げられたことがありますが、そのせいなのか、当時ベストセラーであった「頭の体操」という本の問題は、たいがい難なく解けてしまいました。

「ゴルディアスの結び目」という逸話がありますが、フリルギアの王ゴルディアスが複雑に結んだ結び目を解いた者は、世界の王になれるという言い伝えがあったのですが、何人もの人がそれを解こうとしましたが、果たすことはできませんでした。それを剣で強引に一刀両断したのが、後にオリエントを支配したアレキサンダー大王なのでした。

それ以来「ゴルディアスの結び目」は、万人が挑戦しても解くことの出来ない複雑な問題に喩えられる言葉になりました。

近年でいえば、ロシアの数学者グリゴリ・ペレリマンは、百年もの間、誰も解けなかった数学の難問「ポアンカレ予想」を証明し、2006年に数学界のノーベル賞といわれているフィールズ賞を受賞しました。彼によって、宇宙がとりうる複数の形が初めて明らかになったのですが、しかし、彼はフィールズ賞と100万ドルの賞金をあっさり辞退し、孤独を好んで失踪してしまいました。

日本で言えば、青色発光ダイオードを発明した中村修二氏もそうでしょう。彼も日亜化学工業の中では異端児でしたが、万人の解けなかった「ゴルディアスの結び目」を解いてしまうような人間は、かなりの確率で変人が多いようです。

さて、庶民にとっても、身近ではありますがもっとも大きな意味を持つ「ゴルディアスの結び目」が存在します。

例えば、人の言葉。

人は言葉でものを考えたり、文章で伝えたりしますが、どうして人が言葉でものを考えるのか、いったい言葉とは何なのかを、真剣に考えたことのある人は、あまりいないのではないでしょうか。

僕は猫を飼っていますが、つくづく猫も、ものを考えているなあと感じることが多いです。家の猫(チャコ)は、僕の髪の毛を引っ張って、餌を要求します。僕が外出するタイミングを見計らって脱走することもありますし、最近は窓の鍵をかけて脱走もしますし、お腹がすいたら食器棚の扉を開けて、餌を自分で勝手に盗んで食べたりします。かなり頭がいいです。

ところが面白いことに、猫は言葉というものを持っていないのです。

では、「言葉を持たずにどうやって、ものを考えているのか?」というのが、僕の用意した「ゴルディアスの結び目」の問題になります。

答えを先に言ってしまえば、たいがいの動物は「非言語でものを考える」ということになります。

動物だけではありません。言葉を教えられる前の、人間の赤ちゃんも、非言語でものを考えています。ひょっとすると、植物も、鉱石も何か考えているかもしれません。

「何を言っているのだ?」と思われる方も、いらっしゃると思いますが、そこから踏み込んで考えるが、実はとても大切なことなのです。

まず、言葉というものは何なのか? という問題に答えてみたいと思います。

人間の持つ認識能力には、「単体相違」というものがあり、複数の事項でも似た性質のものを一つに捕らえて、それを区切って一つの名前を付けることができる性質のものがあります。

たとえば、リンゴの形はすべて色も大きさも味も微妙に違うのですが、人間の単体相違の能力を使えば、だいたい似たものをひとくくりに捕らえる能力があるので、それらをひとまとめにして「りんご」という言葉を与えて使っているのです。

もう少し視野を広げて、テーブルがあって、その上にりんごも、みかんもぶどうもあったとします。それらを更に一まとめにして、「果物」という言葉を与えて使うこともできるのです。

言葉にはものを「切る」性質がありますが、たいがい物質の一部を区切ったり、似た性質のものを一まとめにして、それに言葉、つまり名前を与えたのが「名詞」というものになります。

動物の場合は、言葉以前の「非言語」で直接認識しているので、言語表現することなく、ただただ、まとまった性質の自称の一つとして直接認識をしているのです。もともと人間のように発達した言語野(大脳新皮質)がないのでしょうがないのですが、「非言語」でものを考えればいいので、言葉で考える必要もないのです。

さて、次は「動詞」の説明になりますが、動詞には「する」「しない」、「行く」「行かない」、「動く」「動かない」、「食べる」「食べない」、「愛する」「愛さない」など、人間の行動の意志決定に、それぞれ言葉を与えたものなのですが、これはみて分かるとおり、「する」「しない」などの二元的な表現しか持っていません。コンピュータの電気信号と同じで、電気が通っているか、通っていないか、「0」か「1」かの二元論に縛られているのが、動詞のもっとも大きな欠点であり、特徴となっています。

二元論が動詞の最大の欠点といいましたが、「行く」という動詞だけではどんな感じで「行く」のか、あまりイメージが見えてきません。

「いつも」とか、「ときどき」などという「副詞」表現があれば、少しはイメージが見えてくるでしょう。「働く」という動詞にも、「あくせく」とつければ、二元的な動作よりさらに、その働いた動作のレベルがわかるようになります。

同じように「形容詞」には、「赤い~」や「明るい~」などというものがありますが、これには名詞の表現を補足する能力があります。

もっと正確に表現を行うために、「数値」という言葉があります。

「数値」を用いれば、456.3ミリメートル「動いた」とか、400ルクスの明るさでRGBの比率が、47:40:50の色の「花」だなどと言えば、動詞や名詞に、かなり厳密な言語共有を与えることが可能になります。

広辞苑を紐解けば15万の言葉があり、数値化すればかなり厳密なレベルまで伝達可能なので、言葉というものが万能表現だと思えてしまう錯覚が人間にはあるのですが、ところが基本的には「単体相違」という大ざっぱに区切った名詞というものと、「二元論」というデジタル信号のような動詞表現に意識を集約させてしまいがちなのが、言葉というものの欠点なのであり、本来は、心のすべてを表現できるわけではないのです。

中西保志の名曲『最後の雨』のフレーズのように、「言葉にできないのが愛さ、言葉では君をつなげない」というのが正解で、言葉の欠点をあえて避けて、非言語で愛情交換することが本当は正しいわけです(笑)

二元論という動詞の欠点について考えると、インチキ政治家の詐欺に大衆がひっかかり易いことも二元論が元凶なのですが、「郵政民営化に賛成か、反対か?」という二元論で選挙を強行されて、「自民党か、民主党かの二大政党」などという二元論しか選択肢を与えられなくなれば、そこで思考停止に陥ってしまう人間が、大半になるのは当たり前でしょう。

長年の仲間に刺客を立てるなど、血も涙もない政治をみた子供の方が、「どうして?」などと大人の欠点をついてきたりするので、子供の方が、大人の忘れてしまった真実を捕らえてしまうこともままあるのですが、天才発明家であるとか、哲学者というのも、たいがい子供っぽいのはそういうところに要因があるのでしょう。

さて、言葉の話に戻ります。

川端康成は、「言葉よりも言外が大切だ」と言ったそうですし、ビートたけしも「言葉の世界なのだから、そこで生きていくしかない」といって養老孟子さんを唸らせたそうです。

言葉の世界と、非言語の世界は表裏一体ですが、ほぼ99%の人が言葉の世界に囚われて生きていますし、それが分かったとしても、非言語を認識できた人間自ら言葉の世界で生きていますから、命ある限りどうにか言葉という欠陥のある道具を使って真実を表現し、対応していかなけばならないということなのでしょう。

人は大人になると、たいがい言葉で脳が支配されてしまうので、どうしても忘れがちなのですが、人間も、犬や猫、または鳥などと同じように、言語にする直前の「思い」である、「言外」あるいは、「非言語」によってものを考えることは可能なのです。

そのプロセスは、体験した人なら下の数行で瞬間的に分かることでしょう。

ある日、人が自分の眼でしっかりと、自分の心から極力「言葉」を除外しようとした状態で、周りの風景見ようとしたときに、ごくたまに周りの風景がツルツルと照り輝いて見えてきたり、鳥のさえずりが非言語として直接認識できる瞬間に出くわすことがあります。言葉が完全に外れた瞬間です。あなたはそこで、こう叫ぶでしょう「あ~、そういうことだったのか!」と。

それが仏教でいうところの、「悟り」であり、表題でいえば、人間にとっての「ゴルディアスの結び目」を解いた瞬間であり、神の仕組みが理解できたことへの喜びの対峙であり、仏教の涅槃であり、この世の苦しみから解放された解脱という神秘体験なわけです。

非言語なるものを、言語で伝えるのことが元々至難の業なので、有史以来世の中に隠されてきたのですが、言葉と非言語の関係をここまで分かりやすく説明したのは、有史以来、またはインターネット広しとも、僕のこの文章だけかも知れません。(←ホントか?)

でも、わっかるっかな~(・ー・)ニヤリ