雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

物忘れと、忘れ物

2011-10-12 | 日記

 現在は車の運転をやめているが、以前スーパーの広い駐車場に車を止めて買い物をし、駐車場に戻ると車を置いた場所を忘れてウロウロすることが度々あった。私を見ている人がいる訳でもないのに、これかがやたら恥かしい。こんな物忘れは、年の所為で仕方がないことなのだと自分に言い聞かせていた。

 スーパーで買い物して、レジで並んでいる最中にサイフを忘れてきたことに気が付く。並んでいる時ならまだしも、レジを打ってもらっている最中に気付くと冷や汗ものだ。仕方なくレジ係の人に訳を話して、慌ててサイフを取りに帰る。これも「年の所為」 しかし、しんどい。

 郵便物をポストに投函しようと持ってでかけるが、そのまま忘れて投函せずに帰ってくる。こんなことを2~3回繰り返しているうちに、郵便物はポケットの中でクシャクシャ。また、買ってくる物を忘れて帰ってくることはなどは度々。病院に行ったとき、診察券や保険証を忘れて来たことに気付く。それならまだしも、予約していたことすら忘れていて謝って予約の取り直しをしてもらう。年の所為だから仕方ないことだと自らを慰める。

 妻のネット友達だった人たちと掲示板で「物忘れ」の話をする機会があり、「メモ」をとることを薦められた。また、置き忘れの場合、「ここへ置くぞ」、「ここへ置いたぞ」と意識して置いたものは、わりにしっかり覚えているものだとか。忘れ物も、やはり書き留めておくことで防止できるとか、そのような助言を貰った。

 玄関に、サイフ、携帯、診察券、保険証、投函する郵便物などと書いた「忘れ物注意表」を貼ってみた。ここで大切なことは、出かけるときにこの「忘れ物注意表」を見ることだ。「忘れ物注意表」でいくら注意を促しても、これを見ることを忘れたのでは何もならない。玄関で一呼吸おいて「持っていくもの」を意識することが必要だ。そして、物忘れは横着をせずに「メモ」を取っている。最近、こうした努力で「忘れ物」「物忘れ」は少なくなってきた。これからは、「物忘れ」「忘れ物」は年の所為ではなくて、横着の所為だと思うことにする。


爺の料理2

2011-10-11 | 日記

  業務スーパーでアメリカ産牛肉の安売り(100g 98円)をしていたので、肉じゃがでも作ろうかと買ってきた。めっちゃ不味い。大げさに言えば段ボールを煮て食っているような(食ったことはないけれど)感じ。まだ半分のこっているので、ちょっと工夫をしてみた。あの不味い肉が、結構美味しかった。これなら、度々買ってきてもいいかな?と思えるくらい。

 鍋にお湯をぐらぐら煮立たせて、一気に肉を入れる。赤みが消えたら、すぐに取り出して水に晒す。流水で丁寧に洗い、アクを流す。水をよく切り市販の「焼き肉のたれ」を絡めてしばらく置く。「おお、いけるいける」と想いながら全部たいらげた。


レシートと空き箱

2011-10-08 | 日記

 私は街で買い物をしたら、レシートを必ず受け取る。必要経費云々ではない。もし「万引き」に疑われた時の用心だ。もう、10年ほど前のことになるが、隣の市に「ニノミヤムセン(倒産した)」が開店した。新聞の折り込みに「開店大安売り」のチラシが入っていたので車を転がして行ってみた。買ったものを大きな紙の下げ袋に入れてもらって意気揚々店を出ようとしたら、おばさんの警備員がすっとんできて「ちょっとこちらへ来て下さい」と私をつれていき、男の警備員に引き渡した。引き渡すと、おばさんは「一丁上がり」みたいな感じで、次の警備に。男の警備員に紙袋の中を調べられ警備員は「あれ?タグを外すのを忘れとるわ」と平謝り。万引き防止用の警報タグが付いたままだった。そういえば、カウンターの奥で袋詰めをしていたのは、臨時にかりた出された経理担当ふう年配の人だった。こんなこともあるので、レシートは店から出るまでは捨てない方が良いと思う。

 電気製品などを買ったとき、空き箱は保証期間が過ぎるまで捨てないほうが良い。ことに、通販で買ったときは、中のクッション材も、外函もとっておくと良い。保証期間内に故障したとき、販売店または、メーカーに送らなければならないからだ。


NV-RP003U

2011-10-08 | 日記

 古いレコード・プレーヤーのメカが壊れていたのでこれを捨てて、ア〇ゾンの通販でSDメモリーに録音ができるプレーヤーを買った。昨日届いたので、今日早速アナログレコードを出してきて再生してみた。レコードの保存状態も良かったので、わりと奇麗な音で再生ができた。そこで、録音再生を試してみた。説明書のとうり丁寧にやってみたが全く録音が出来ない。SDメモリー(4GB)を代えてやってみたが全然ダメ。さっきメールでアマ〇ンに問い合わせを送ったら、早速〇マゾンから「販売店に転送した」という通知がきた。アマゾ〇の対応は迅速だが、販売店からの返事はいつ来ることやら。娘に「安いのを買うから…」と笑われそう。

 レコード再生はできるので、さっきから懐かしい音楽をかけっ放し。プレーヤーに軽い衝撃を与えても、音が飛ぶ。ダイヤモンド針といっても、すぐに摩耗するので、予備の購入先も調べておかなくてはならない。わりと面倒くさい「アナログ・レコード」ではある。


再放送

2011-10-07 | 日記

 コマーシャルの入らない某テレビ局の「番組表」には、再放送に(再)の表記をすることは少ない。もう何度も再放送しているものでも、(再)の表記をしていないことが多い。「アーカイブス」、「アンコール」、「選」、「セレクション」、「心に残るあの番組…」、「もう一度見たいあの番組…」などとタイトルに付いているのも、すべて再放送である。一度放送したものを再編集して、別のタイトルを付けたものなどを含めて、この放送局の再放送すべてに(再)の字を入れると、夥しい数になると思う。番組をより広い層に見てもらう為だろうが、制作費の節約が主な目的であろう。

 コマーシャルの入るテレビ局では、わりと生真面目に再放送には(再)の表記をしているように思う。 コマーシャルの入らないテレビ局は、(再)を表記したくない訳でもあるのかな?


語呂合わせ

2011-10-06 | 日記

 数字を語呂合わせで記憶するとしっかり頭に残ることから、電話番号の語呂合わせは古くから盛んに使用されている。(古くと言っても江戸時代とかではないので…)CMでも 「カステラ一番、電話は二番…」から、最近では「ここはにんにく…」なんてのが、否が応でも耳に残る。

 2~30年前に電話帳で葬儀店の電話番号を調べたことがあったが、ちょっと興味深い[?] 語呂合わせが多くあった。4242(死に死に)、2242(夫婦死に)、3742(皆死に)、4283(死に破産)、8442(早よ死に)、4279(死に泣く)、こんな一般では「縁起が悪い」と嫌われそうな番号を、葬儀店が引き受けのだろう。

 現在、縁起をかつぐ人も少なくなり、こんな番号を気にする人は居なくなったのだろうが、昔はアパートの部屋番号でさえ「4号」と「9号」をとばしていたものである。


100円ショップ3

2011-10-05 | 日記

我が家の近所に100円ショップが3つある。ダイソーが2つ、もう一つはコーナン。コーナンはキャンドゥ系なのか、同じ商品がある。以前に書いたフォーマーは、ダイソ゜には無くて、コーナンにある。

 数日前、引き出しに取り付けるLEDセンサーライトを買ってきた。センサーは磁力を感知するものらしく、マグネットバーを近づけるとライトが消え、離すと点灯する。最初は、仏壇に取り付けてみようと思ったが、仏壇は開いている時間が長いため、ボタン電池がすぐにきれてしまうだろう。引き出しに取り付けてみたが、真っ暗闇で引き出しを開ける「招かざる客」へのサービスになるだけなので、これもやめた。結局、流しの下の物入れが暗いので、この戸に付けてみたが、LED3個の明かりでは一番照らしたい奥には届かず、あまり役にたっているとは思えなかった。まあこうして色々考えて遊んだのだから、105円の価値は充分あったとは思うが、無駄でもあった。


寝覚ノ床の浦島伝説

2011-10-05 | 日記

 妻の実家は長野県は木曽駒の麓にある上松というところ。近くには浦島太郎伝説が残る「寝覚ノ床」がある。竜宮城から地上に戻ると、元居た家も、知る人もなく、途方に暮れた太郎は旅に出でる。たどり着いたのがこの「目覚めの床」である。海から離れて、随分遠くの山里に来たものだ。ここで浦島太郎は「玉手箱」を開けて爺になり、今までの出来事は夢に違いないと気付く。民話がいろいろと様変わりして、「浦島太郎伝説」になったもので、「竜宮城」も「玉手箱」のくだりも、もちろんフィクションである。物語の最後も、玉手箱を開けた太郎はすぐに死んでしまうものから、鶴になって乙姫のところへ飛んで行くもの、そして、うやむやに終わるものなど様々である。ここ「寝覚ノ床」の結末は、どうやら「うやむや」のようだ。

 妻の実家近くに鉱泉の湧く旅館がある。妻の実家とは知り合いで、私も招かれて行ったことがある。たしか冷泉だったと思うが、趣のある岩風呂だった。秋は山に自生するキノコを食べさせてくれたそうで、我が家にも送ってもらったが、松茸も入ってスーパーで売っているものより数段美味しかった。そのすぐ近くに民宿があり「有料で馬に乗れる」と妻が言っていた。他には何もない。隠れ宿としては都心から遠すぎるので、木曽駒から下山した人々相手の旅館だったに違いないと想像する。

 「こんな長閑なところに暮らしていたら、妻はもっと長生できたのかなァ」と、私は少しばかり後悔している昨今である。


包丁一本、晒しに巻いて…

2011-10-04 | 日記

 藤島桓夫の「月の法善寺横丁」の出だしであるが、ちょっと違和感があるのは私だけだろうか。「包丁一本、晒しで巻いて」だと思うのだが…。そんなことはどうでもよい。これは、家庭で使う包丁の話をするための「まくら」である。

 以前は、中央市場近くの露店で買った鋼包丁を使っていたが、砥ぐのに骨が折れるので年を取ってからは出刃包丁以外はステンレス包丁を使っている。ステンレス包丁は、すぐに切れなくなるかわりに、ちょっと砥ぐだけですぐにシャープになる。 野菜切り包丁や、刺身包丁はこれで充分である。

 私は若い頃、包丁を砥ぐのが好きであった。妻が喜んでくれたからである。私が包丁を研ぐときに守っているのは、包丁が砥石に当たる角度を一定に保つこと。しゃくる(フラフラと角度を変える)と、うまく砥げない。それと、砥石は手軽な文化砥石ではなく、元来の泥岩砥石を使っている。ステンレス包丁なら片面5回、計10回程度砥いでやれば充分だ。

 セラミックの包丁ははどうだろう。買ってきた当座はカミソリのようによく切れる。刃がちょっと手に当たっただけでも血が滲んでくることも。ところが、何ヶ月か使っていると鈍くなってしまう。これをダイアモンド砥石で砥いでみるが、どうしても新品の時のようにいかず、ステンレスよりも劣るようになってしまう。

 ど素人の私が、プロが使うような高価な包丁を持っても「宝の持ち腐れ」だろう。少し肉厚の国産ステンレス鋼の包丁でも贅沢かも知れないが、大切に使えば一生もの(残り少ないくせに)だと思っている。


暴れん坊将軍4-19

2011-10-04 | 日記

 いっとき妻がはまって、松平健さんのCDまで買ったくらいである。それならと毎回録画を始めた。妻が寝たきりになったら、毎日見せてやろうと思ったから。ところが、やがて妻の方は飽きてしまい、今度は私がはまってしまった。年を取ると、理屈抜きで単純に楽しめるものが良い。毎回楽しみに見ていたら、娘夫婦が来たとき、妻までが一緒になって茶化し、ドラマの矛盾を突いては大笑いしていた。

 水戸黄門では、葵の御紋を見せられただけで、悪代官などは「震えがくる」のに、暴れん坊将軍では、将軍と知れても刃向ってくる。将軍よりも副将軍の方が偉いらしい。

 正義の人がやられそうになったら、閉まっている障子の向こうから、将軍が投げた「正義」と書かれた扇子が飛んでくる。障子は破れていないし、障子の向こうから、よく悪者の刀を持つ腕に扇子を命中させることができたものだ。

 将軍が、深夜の江戸の町を一人で歩いたり、ひとりで遠くの村まで出向いたり、町人ひとりを助けるために城をを抜け出したりするのも考えられないことだが、そんな突っ込みを入れながらドラマを見るのも面白いものだ。

 で、暴れん坊将軍4-19がどうしたか。これは江戸の町に彗星が落ちてくる(衝突する)はなしである。望遠鏡を覗いていた吉宗が、見たことのない赤く輝く星を見つけて長崎から天文学者を呼び寄せる。天文学者は、軌道を計算して彗星が江戸から離れた小さな村に落ちることをつきとめる。

 そんな物語がネットで話題になったとかで、娘夫婦が「持っていたら見せて」と言って来た。どうせ若いのが寄って、「茶化し会」でも開くのだろうと思いながら、暴れん坊将軍4-19を見せてやった。

 そんなこともあり、調子に乗ってローカルテレビの再放送まで録画していたら、死ぬまで見続けても全部終わらないくらいたまってしまった。


ボス猫と半ノラたちのはなし

2011-10-03 | 日記

この猫、阪神大震災の仮設住宅が撤収されたあとに残されたノラ。私が勝手に「ボス」と呼んでいた。毅然とした態度で、姿勢も良く、人間から一定の距離をおいて微動だにせずに座っている風格はまさに「ボス」。他の猫たちは、餌をくれる人にはすり寄ってきたり、膝の上に乗ってくることもあった。しかし、ノラはノラ。膝の上に乗ってきても、膝にしっかり爪を立てているので、飼い猫とは違いギンギンに警戒をしている。抱き上げようとでもしたら、爪を立てて大暴れをする。半ノラとでも言おうか、この猫たち20匹以上いたが、半数は飲み水に入れた毒物で、何者かに殺されてしまった。残りの半数は、この事件を憂えた愛猫家の人に引き取られた。庭に6畳ぐらいの小屋を建ててその中に閉じ込めて飼われた。解き放せば、殺されてしまうからだ。捕獲には私も手伝った。捕獲用のゲージを仕掛けて餌で引き付けたが、3日かかってしまった。

 「動物の愛護及び管理に関する法律」では、「愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、一年以下の懲役又は百万円以下の罰金」とあるが、ノラたちはこの法律で護られることはなかった。


なぜ自殺

2011-10-03 | 日記

 高齢者の自殺が取り沙汰されている。元来ならば家族に囲まれて、幸せな老後を送っていたであろう高齢者が、震災や津波によって何もかも失い前途を悲観して自殺をする。被災地ではこのような悲劇が少なからず起こっているようだ。自殺をした人の言動を思い返してみると、多分に「鬱」の症状が出ているのではないだろうか。前途を悲観してとか、寂しさに耐えきれずにとか理由はいろいろ考えられるだろうが、それらの要因から「鬱病」を発症し、衝動的に自らの命を絶つてしまう、そんなことも往々にして起こりうることだと思うのだ。

 小中学生の中には、虐めを受け、思い悩んでまるでゲームをリセットするような感覚でビルの屋上から飛び降りていることもあるように思えてならない。「生まれ変わる」とか、「来世」とか、「怨霊」とか、そんなものは生きている人間の想像でしかない。心肺停止を経験した人が、「あの世を見てきた」と言って臨死体験を語っているのを耳にしたことがあるが、それは、まだ意識がある時に見た夢で、その記憶が間脳に残っていただけだ。

 ひとりの命は一つしか無い。「死ねば楽になる」は嘘。苦痛も消えるかわりに、楽も消えるのだ。辛い、苦しい、もう耐えられない、その思いを打ち明けられる知人も居ない、では「いのちの電話」ならどうだろう。一度相談してから、自分の命の行方へを定めよう。


捨てきれなかったレコード盤

2011-10-02 | 日記

 若い頃に買い集めたアナログ・レコード盤が、専用のラックに立てたまま眠っている。カラヤン指揮フィルハーモニアや、映画音楽のLPがかなりあるので、時には昔を忍んで「かけてみたいな」と思うが、悲しいかなプレーヤーが壊れたままで、これもまた捨てきれないで置いてある。音質には拘らないので、安いプレーヤーを買おうかなと近くのジョーシンとミドリ電化を覗いてみたが、適当なものはみつからなかった。では、ネット通販はどうかと検索してみたら、好みのものがたくさん引っかかってきた。

 眠っているレコード盤のなかから、笑福亭仁鶴師匠の落語が出てきた。師匠、多分30代だろうと思える歯切が良く若々しくテンポの良い「初天神」「青菜」「向う付け」「七度狐」が収録されている。いや、決して今の師匠は歯切れが悪く、年寄臭くて、テンポが悪いとは・・・・・かな? そんなことは「こっちゃに置いといて…」、このレコード、私が落語好きになったきっかけで、よく笑わせてくれた逸品である。もしかしたら、YOU TUBEで探せば、4席とも見つかるかも知れない。1席14分前後。


Do it my seif

2011-10-01 | 日記

「お父さんが吊ってくれた棚、落ちたよ」、「お前、何か物を乗せのとちがうか?」 とは、落語の一節であるが、私の日曜大工も、この程度のもの。今使っているダイニング・テーブルは私が作ったものであるが、娘が訝かっている。「炊飯器乗せても大丈夫?」、「失礼な!一つぐらいなら、倒れるかい」 電化製品の修理をしたり、パソコンの設置や設定を私がやったら、「ご苦労さん」の代わりに、「大丈夫?」。

 妻の電動車椅子が両輪パンクして空気が入らなくなった。検査で病院に行くときなどに必要なので、チューブやら、むしゴムを買ってきて、自分で修理をしようと思っていた矢先、妻は亡くなってしまった。乗り手が居なくなった車椅子は、私から娘に移った車に乗せたままである。処分しようかと思うが、妻の思い出がいっぱいつまっているし、自分が歩けなくなった時のために取って置こうかとも思うが、邪魔でもある。いまだに迷っている自分が柔弱だと思う。