雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

金環日食

2012-05-17 | 日記
 5月21日の朝、金環日食が日本で282年ぶりに観測できるのだが、どうぞ晴天であるようにと金環日食ファンの方たちの為に祈るばかりだ。 282年前と言えば江戸時代、徳川吉宗の代であるが、ドラマ「暴れん坊将軍」で見たような、見ないような。 さっきまで輝いていた太陽が徐々に欠けていくのだから、その知識が無い者はさぞかし恐れ戦いたことだろう。

 太陽を直接見たら網膜がやられると、盛んにテレビで注意を呼び掛けているが、それでも何人かは眼科のお世話になる人が出るだろうと予想もしているらしい。 而も、市販の観測用のメガネ類の中には粗悪なものがあるので気を付けなければいけないそうだ。 その判定の仕方は、蛍光灯を見てはっきりと蛍光灯の輪郭が見えるものはダメだそうなので注意しよう。

 今は至れり尽くせりで、眼科の医師などが注意してくれるのだが、私の子供時代は学校で観測の方法を教わっただけで、それほど注意らしいことはなかった。 観測用のメガネは、カラスの破片とローソクを使って自分たちで作ったものだ。 今ここで作り方を書くと、万が一「作ってみよう」と思う人が居たりして、その中から目を傷める人が出ては大変なので控えるが、昔の子供はそれで目を傷めた子供など聞いたことがなかった。 放っておかれると、案外子供は自己防衛力を発揮するもので、まだ眩しいとなると目を細めるとか、煤ガラスを2枚重ねるなど工夫をしていたと思う。 

 さて今回、私はどうしょうか。 金環食を観測することに、それほど興味を持っている訳ではなく、子供時代の日食を懐かしむ程度なので、虫眼鏡で地上に太陽を写して、欠けてゆく様を観ようと思う。 真昼間に独りでウ〇コ座りで線香花火でもしているような恰好で…。   (写真は、種から育てた蜜柑の木)

軍歌「戦友」

2012-05-17 | 日記
 私は「軍歌」が好きだ。 信条的には左寄りで、理論としての社会主義を支持する。 「理論として」とことわるのは、実存する社会主義の国々は、支持するに値しないからである。 例えば、共産主義では「一党独裁」を提唱しているが、世襲独裁などは主張していない。 況してや一般国民と共産党員の間に格段の貧富の差があることなど、明らかに共産主義の理論から逸脱した政策ではなかろうか。

 こんなことを書く私が、軍歌が好きとは「どこかおかしい」と、ひんしゅくをかうかも知れないが、これには訳がある。 私は、軍歌を子守唄として育った世代である。 年の離れた兄が、軍歌をよく歌って聞かせてくれたのだ。 それ故に、軍歌の持つ意味や、果たしてきた役割の罪をよく知った上で、私の心が軍歌を懐かしんでしまうのだ。 

 軍歌「戦友」は14番まであるが、私はこの歌をソラで歌える。 物語風の歌詞で、出兵して前線に赴く船上で或る男と知り合い、名前を名乗り合ったことから「戦友」の誓いを交わす。 其の後は、一本の煙草も二人で分け合い、国からの手紙も見せ合い、身の上話を語り合うほど親密な友となる。 折につけては「もし俺が死んだら、骨を拾ってくれ」と頼み合うのがこの二人の口癖だった。
 戦いの最中に、友がバッタリと倒れる。 軍律では、倒れた兵士を介抱することは禁じられているが、見捨てることが出来ずに弾丸の飛び交うなか、仮包帯を撒いてやる。 その時「突貫!」の号令がかかり、「構わずに行ってくれ」と言う友に心を残して突き進む。 戦いが終わった夕暮れ、「どうぞ生きていてくれ」と祈りつつ友を探すが、友は既に亡くなっていて、懐中時計だけがコチコチと動いていた。 そして、涙を流しながら、友の両親への手紙をしたためるのであった。