リッスン・トゥ・ハー

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誰が為に亀は降る

2007-11-08 | 掌編~短編
 降ってきたのは午前二時、無数の亀がぼとぼとと。
 腐った水の匂い。亀が吐き出す泥の匂いで町は埋もれる。後頭部に直撃すれば、即死も避けられぬ程の重さ、大きさ。
 亀は降ってきて、くるりと回転してうまく着地し、衝突する際の衝撃もなんのその、すぐに歩きはじめる。どの亀も一様に同じ方向に歩いていく。その先にあるのは高い高い塔だった。著名な芸術家が造ったてっぺんが見えぬほど高い高い塔を目指して、亀は本気になって歩んだ。
 ここまで読んであなたは亀の群れが同じ方向に歩く、のどかな光景を思い浮かべるかもしれない。しかし、あなたは亀の本気の速度を知っているだろうか。普段は手を抜いているから遅いようなイメージがついてしまったが、本気の亀はチーターぐらい早い。本気を出した亀は、一般の成人男性の動体視力では捉えることができない。イチローであれば、シアトルマリナーズのイチローであればかろうじて、バットに当てることはできる。しかし、当ててファールにし、せいぜい時間を稼ぐことしかできない。ファールラインより内側に打ち返すことはできない、それほどの速さなのだ。
 したがって、のどかとはかけ離れていると分かっていただけたであろうか。
 チーターの速さで、硬い甲羅を持った生き物が這っている。その軌道上に足でも出していようものなら、風のようなものが通り過ぎたと思ったらすでにもぎとられているにちがいない。
 塔にたどり着いた亀はなんのためらいもなくその直角にある壁を登りはじめた。亀の手足の爪を器用に使い、ひっかけて、直角の塔を登り始めた。ロッククライマーのように登る亀は、力強く、美しくさえあった。登る亀にうっすらと伝説のクライマーの姿が見えた。どの亀にも同じ伝説のクライマーがいた。クライマーの名を、竹内・ジョン・カビラという。知る人ぞ知る伝説のクライマーだった。クライマーの神様といわれるクライマーだった。そのクライマーが透けて見えたのだから亀のクライムは堂に入ったものだった。亀は次から次へとクライムした。先頭の亀は疲れる様子など全く見せずにぐんぐんとクライムし続けた。ファンタスティック・クライシスだった。それでもてっぺんにたどり着きそうになかった。それほど高い塔だった。亀は途切れることなく塔をクライムし、やがて、その数5億匹ほどの群れはすべてクライム状態に入った。5億匹を受け入れるだけの広い領域を塔はもっていた。
 「で、クライム状態って何?」
 「わかりませんわ」
 クライム状態の亀はそのような会話をしている。けっこう余裕があるのだ。
 人間とは違うからだの構造、不器用とも思えるその体は、実は器用さの塊で、垂直の塔をのぼることぐらい造作ないことであった。
 亀はのぼってのぼって、やがて頂上にたどり着く。
 5億匹の亀がすべてのぼりきった頂上は狭く、坪数で言うならば6坪であったから、たまらない。当然すべての亀がやれやれと休んでいるわけではない。休むスペースなどないのだから、上ってきた亀は次から次へと休んでいる亀の上に上って休む。その繰り返しで、塔は遠くから見ればずんずんと伸びているように見えた。たけのこのようだ、と窓際のよし子は思った。