夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

「紅葉のような手」とはどんな手なのか

2011年11月05日 | 言葉
 今朝(11月5日)の東京新聞の言葉に関するコラムの記事である。以下、抜粋する。ただし、表記は原文通り。

 紅葉は、緑の葉が秋に赤く色づくことです。黄色に変わるものもあります。黄葉と書きます。紅葉も黄葉も「もみじ」とも読みます。
 もみじは、昔から歌に詠まれてきました。万葉集には「毛母都」「母美知」「毛美知」も出てきます。その中で、一番多用されているのが黄葉です。
 紅葉は、平安中期から盛んに使われるようになっそうですが、今では「こうよう」「もみじ」はほとんどが紅葉と表記されます。紅葉狩り、紅葉のような手などもあります。

 何を問題視しているのかと言うと、タイトルにある「紅葉のような手」でもあるが、文中での「 」の使い方が気になる。
 冒頭の紅葉はその前に「こうよう」の振り仮名が付いているから、「こうよう」と読む。以後に出て来る紅葉も黄葉もすべて「こうよう」になるのか、と言うとそうではない。「一番多用されているのが黄葉です」では漢字表記の事を言っている。すぐ次の「紅葉は」でも表記である。
 そうした区別がまるで出来ていない。そして問題が最後の「紅葉のような手」である。これは表記についての話の最後に出て来るから、当然に表記の話である。
 紅葉狩りは分かるが、紅葉のような手、が私には分からない。

 「紅葉=もみじ」は熟字訓で、漢字本来の読み方ではなく、漢字の意味を使っての読み方の事である。「小豆=あずき」「五月雨=さみだれ」「浴衣=ゆかた」などはよく知られているが、「時計=とけい」「友達=ともだち」が熟字訓である事は知らない人の方が多い。
 熟字訓であるからには、その意味が重要になる。赤くなるから「紅葉」なのである。もちろん、現在は黄色くなる場合も「紅葉」と書いているが、本来は違う。『岩波国語辞典』は、黄色くなるのは「黄葉」と書く、と説明している。
 その点で『新明解国語辞典』は曖昧になる。同書の「もみじ」は熟字訓の「紅葉」を示して、次のように説明している。

1 木の葉が晩秋に黄色や赤い色に変わること。
2 赤くなった(カエデ)の木の葉。「―を散らす(=顔がまっかになる)」
3 カエデの異称。「赤ちゃんの―のような手」

 3の「赤ちゃんのもみじのような手」は熟字訓の「紅葉」ではないはずだ。この3については『岩波国語辞典』は「→かえで」と表記して、次のように説明している。

 かえで科の落葉高木の総称。葉はてのひら状で、紅葉が美しい。一般に「もみじ」と言われる。葉の形を見立てた「蛙手=かえるで」の転。

 3の「もみじ」はカエデの事なのだから、カエデを「紅葉」とは書かないのと同じく、「紅葉」とは書かない。つまり、『新明解国語辞典』の説明が駄目なのだが、それと同じように、このコラムの「紅葉のような手」が駄目なのである。
 国語辞典が正しく読めない、その上、「もみじのような手」の使い慣れた言葉の意味も分からないような人が編集委員(このコラムの執筆者)なのかと思うと情けなくなる。いや、本当はそうではないのだろう。最初に引用した文章のような、的確に「 」を使い分ける事が出来ていない事が原因なのだろう。そこから「もみじ=紅葉」と「もみじ=カエデ」の混乱が起きているのではないか。
 ただ、そうは言っても、「 」の的確な使い方は、難しい事ではあるが、それが出来て一人前の編集委員だろうと思う。