夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

またまた大臣の失言「津波で逃げなかった馬鹿な奴」

2011年10月19日 | 言葉
 重要な復興の責務を負う大臣が「津波で逃げなかった馬鹿な奴がいる」と発言した。しかも笑顔で言った。彼の言い訳によると、それは同級生で、どうも愛情表現だと言っているらしい。東京などでは「馬鹿」は愛情表現にもなり得るが、それは時と場合による。亡くなった人に対して、その原因を「馬鹿」呼ばわりする事は絶対に許されない。
 テレビではコメンテーターが、ころころと大臣の首をすげ替えるのは感心しないから、このまま力を発揮させるべきだ、と言っていたが、私はそうは思わない。常日頃思っている事が何らかの機会に言葉として出て来るはずである。普段思ってもいない事が咄嗟に出て来るとしたら、その場に応じてどのようにも対応出来る素晴らしい人だとしか思えない。しかしこの大臣の場合は決してそうではないだろう。あの発言は、テレビで中途半端に見ているだけではよくは分からないのだが、「その場に応じて」の発言ではなさそうである。だから、普段から思っている事がそのままに出た。

 失言とは国語辞典は揃って「言ってはいけない事をうっかり言ってしまう」だと説明している。だから「失言」であれば、それはついうっかりと言ってしまったのであって、他意は無い、と解釈されてしまうようだが、これは国語辞典の説明が悪い。辞書の「言ってはいけない事」と言うのは、例えば差別用語などではないだろうか。差別の心が無くても、差別用語が出てしまう事は多々ある。何しろ、何でこれが差別用語になるのか、と思うような言葉まで差別用語扱いをされている。
 私は差別する心があるから差別用語になるのであって、どんなに言葉を変えようとも、差別の心が無くならない限り、新しく言い替えた言葉が今度は差別用語になると考えている。そうでしょう。「女中」を言い替えた「お手伝いさん」の本質が「女中」と打って変わった物になっているなどと思っている人は居ない。言葉を飾った、あるいは偽っただけ、悪質だと思う。

 だから失言とは、本当は隠すべき本心をついうっかりと言ってしまう事だと私は思っている。だから取り消したってどうにもならない。その人の本心があからさまになってしまった以上、どう弁解しようと、覆水は盆に戻らないのである。
 失言だから許してやろうよ、とは絶対に思えない。本当は隠すべき本心はその人の本当の心なのだから、どう言い繕っても、ええ格好しようが、その人その物なのである。それが許される事なのかどうかが問題なのである。駄目な人は所詮は駄目である。
 復興が今一番重要なのだから、復興に全力を尽くさせよう、との気持は分からなくはないが、亡くなった同級生を、冗談にせよ馬鹿呼ばわりするような人間に、大事な復興が任せられるだろうか。被災者の心を自分の心にする事の出来ない人間に被災者の被害を救済する事は出来ない。この大臣にそれが出来ると言うのなら、彼は自分も馬鹿な奴になれる、と言っている事にもなる。簡単に馬鹿になれる人間に大事な事を任せられる訳が無い。