夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

独裁国家、中華人民共和国

2010年10月21日 | 政治問題
 北朝鮮は独裁国家だと誰もが思っている。しかし中国に対してはそうは思っていないらしい。少なくとも全国人民代表大会などが開かれて、後継者が決まっているように見える。
 しかし、中華人民共和国の総人口は13億人。その内の共産党員は7800万人ほどだと聞く。その内のほんのわずかが全国人民代表大会に参加出来る。その定数は3000を越えてはならない、とされているそうだから、3000÷13億で、0・00023%に過ぎない。あまりの少なさに何度も計算し直すが、間違いはない。何しろ13の後ろに0が8つも付くのだ。それが国家の意思になる。これは全く独裁以外の何者でもない。
 そしてその独裁者に国中が煽られている。各地での反日本のデモを政府は取り締まっているとは言うが、それは当然に表向きに過ぎない。陰で何をやっているか分かったもんじゃない。いや、「分かったもん」なのである。デモには扇動者が居る。先導者ではない。中共は一人っ子政策などと言う馬鹿な事をやっているから、男の子が増える。そうだろう。一人しか産めないとなれば、多くの人が男を欲しがる。だから女だと分かれば中絶してしまうのだと言う。
 自然の摂理では、女100に対して男は105になるのだと言う。男の方が弱いからそれくらい産んでおかないとバランスが取れない。それが現在の中共では男が115にもなるのだそうだ。
 その男の子は大切に育てられるからどうしても我がままになる。そしてそれが通る。その我がまま放題な男の子が煽動するデモがどんな物になるか。
 デモは内陸部で行われている。そこはまた貧困者の多い地域でもある。貧困に対する憤まんがこうしたデモに姿を変えている危険性は多々ある。そして政府はそれを利用しようとしている。矛先を日本に向ける事で、自分達を安穏な場所に置くのである。
 新聞は、近年は後継者が見える形で決まっている、と褒めるような事を書いているが、そんなに褒められた事ではないのがよく分かる。今までの暗黒政治に比べたら明るくなった、と言うだけの話なのである。
 私は今、「古代史をいいかげんに扱う人々」と言うブログを書いているが、こうした現在の事実に関してだって、いい加減に扱う人々は多いのである。被疑者をいい加減に扱う検察などはその一例に過ぎない。
 「いい加減」とは「好い加減」とも書き、本来は「加減が良い=適度」の意味である。その適度がどんどん度を越して悪い方へ進む。だから「嘘・ごまかし・でまかせ」にもなるし、「いい加減にやめてくれ」などと「限度を越えていて、我慢がならない」情況を言う事にもなる。
 私の使っている「いいかげん」はこの「限度を越えていて、我慢がならない」に近いのである。

古代史をいい加減に扱う人々・その2

2010年10月21日 | 歴史
 『隋書』に登場する「多利思北孤」は一般的には「多利思比孤」とされているが、それが聖徳太子ではないと言う事の続きである。
 まずは両者の名前が徹底的に違う。多利思比孤は普通には「たりしひこ」と読んでいるし、それ以外に読み方は無さそうにも思える。この名前を国書での署名と考えるか、それとも日本の役人が発音した、その聞き書きだと考えるか。学者は舒明天皇の名前である「息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)」の聞き書きだと考えている。だから「たらしひ」が「たりしひ」になったのだ、と言う。それもまったく中途半端な筋の通らない聞き間違えで、隋の役人はそれほど耳が悪かった訳だ。
 聞き間違えが発生する理由は、隋側がこの署名は何と読むのかと聞き、日本側がそれに答えた事になる。つまりそこには「多利思比孤」とは書かれていなかった事になる。なぜなら、そう書かれていれば、隋はそれを読む事が出来るのだから。当時の隋の発音ではどうなるかは私は知らないが、『漢字語源辞典』(藤堂明保)によれば、索引では全部は引けなかったが、「ターリーシェピクォ」のような読み方は出来る。そして隋側はそれで用が足りたのである。唐では小野妹子が遣唐使として唐に渡っているが、彼の名前は「妹子(イモコ)」ではなく、「因高(インカォ)」となっている。もちろん、これが聞き書きだからだろう。しかし唐はそれが「妹子」と表記する事を知らないはずが無い。でも「妹子」では彼等は「イモコ」に近い発音が出来ない。言うまでもなく、名前で重要なのは、その表記ではなく、発音である。
 読み方を聞いたと言う事は、それが隋では読めなかったからに相違ない。つまり、それは字音では書かれておらず、訓読みの漢字が使われていた証拠になる。それが上記の「息長足日広額」なのである。しかし朝貢しよう、隋の支配下に入ろうと覚悟している大王が、隋が読めないような表記をするだろうか。何しろ、文書は漢文なのである。そこに訓読み、つまりは日本語を混ぜると言う事がどんなに非常識な事か。隋の言葉に翻訳出来ない固有名詞は字音語にするのが当時の常識ではないのか。
 だから舒明天皇なら「意支那宜多羅之比非里奴加」などになる。これを果たして隋は何と読むのか、と聞いただろうか。言うまでもなく、万葉仮名は中国側の字音を取り入れている。そっくりな発音にはならないが、よく似た発音にはなる。隋が「多利思北孤」と表記したと言うからには、そうした事を認める必要がある。

 更におかしな事がある。
 「息長足日広額」は舒明天皇の贈り名、つまりは死後の名前である。推古天皇の時に舒明天皇が居るはずも無いし、その死後の名前など、とんでもない事である。
 「息長足日広額」の名前が出て来たと言うのは、この話、つまりは聖徳太子の国書と言われている物に関する話が後に聞き取り調査が行われた時の話だ、と言う事になってしまう。何しろ、国書の署名が分からないのである。と言う事は、国書その物もその時には無くなっていた。
 ところが、その国書には倭国に関する様々な情報が書かれている。そして問題になっているのが、「日出づる処の天子云々」の文言なのである。それを無礼だと怒った煬帝の事もきちんと書かれている。これはとうてい国書が無くなっていたとは考えられない。何しろ、中には「阿蘇山」の事さえ書かれているのである。
 そうしたすべてが分かっているのに、唯一、署名だけが分からなくなっていた。そんな事が考えられるはずも無いのだが、舒明天皇の名前が出て来るからには、そうとしか考えられない。 
 贈り名を使ったからには、この国書に関する記事は舒明天皇の死後に書かれた。しかもその時に問題の国書の原本は既に無かった。舒明天皇は遣唐使を派遣しているから、中国側では様々な情報を手に入れる事が出来る。ただ、どうやっても問題の国書が書かれた時にはまだ舒明天皇は存在していなかったおかしさは消えない。つまり、後日調査をした歴史官はそんな事にも気が付かなかった。そんないい加減な事があるだろうか。
 そうした重要でしかも基本的な事をまるで考えずに日本の学者達は、多利思比孤は聖徳太子だ、と言ってはばからない。『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社)は聖徳太子について次のように説明している。

 多利思比孤は厩戸王子、妻は菟道貝蛸(うじかいだこ)女王、太子は田村王子(のちの舒明天皇)と解される。

 上記の説明については次回にするが、いずれにしても、いとも安易に多利思比孤イコール聖徳太子だと考えている。こうした安易さを見ると、この事典も全面的には信用する事が出来なくなる。
 多利思比孤が未解決のままでは古代史の考え方が進まない、との理由もあるだろう。しかし古代にはまだまだ分からない事が山積みになっている。多利思比孤はそのわずかな一例に過ぎない。それを考え方を進めるのだとして、強引に決着を付けようとする。
 では、その決着で古代史の疑問は解決しているのか。学者は解決していると思ったとしても、我々の目の前には、どうしたら多利思比孤が聖徳太子になるのかの、最も基本的で重大な謎が解かれずにそのまま放置されているのである。更には、ここから聖徳太子は隋にも引けを取らぬ大きな考え方を持っていた、との独断と偏見が生まれてもいるのである。
 「嘘から出たまこと」のことわざがあるが、この古代史の嘘からは絶対に真実は生まれない。