大岡越前の時代劇で「とんでもない」を取り上げて、似たような形の「くだらない」についても私見を述べた。漢字表記をすれば「下らない」となる。つまり、「下る」の否定である。これはその後の顛末だが、5冊の辞書を調べて、その内の3冊に「下る」+「ない」との説明があった。しかし「下る」の意味は「高い所から低い所へ」が元々の意味で、そこから「程度が劣る」の意味が派生している。
「下らない」は「つまらない。価値が無い」などの意味である。従って、「下る」の否定なら、「程度が劣る」の否定になる。それは即ち「程度が劣らない=程度が良い」である。そんな馬鹿な話は無い。
つまり、「下らない」が「くだる」+「ない」だと言うからには、その「下る」には「上等な」の意味が無くてはならない。そして先の3冊の「下る」にはそのような意味は無い。それはほかの辞書でも同じである。「下る」にそのような意味を挙げる馬鹿な辞書は存在しない。
そう、こうした説明は破綻している。それなのにそれを堂々と書いているから「ひどい」と私は言っている。「相変わらず」はこんな事はよくある事だからである。それを私は『こんな国語辞典は使えない』と言う本に書いた。あまり売れなかったようで、出してくれた洋泉社は以後の私の原稿には目もくれない。
ひどい説明の中でも『岩波国語辞典』は「下る」の項で、「下らない」は「読みが下らぬ」「理が下らぬ」の意からという、と説明をしているから、まだましなのだが、それでもおかしな説明になっている。
「下らない」は「連語」で、「下る」の2と3を見よ、とある。その3は前記の「読みが下らぬ」などの事である。しかし2は「ある規準量より少なくなる。下回る」なのであって、それは「連語」とは言えないだろう。用例は「死者は十名を下らない」で、説明にも「多く打消しの形で使う」とあるが、それは、少なくは「下る」の形でも使うとの意味になるはずである。
この『岩波』の説明にしても「読みが下らぬ」「理が下らぬ」の意味が簡単に分かるとは言えない。「下る」に同書は「筋が通る」などの意味は全く挙げてはいないのである。「筋が通る」は肝心の「下らない」の説明に「価値がない。筋が通らず、ばかばかしい」とあるだけなのである。そしてこれが「下らない」の説明だから、その説明が成り立っているに過ぎない。「下らない=価値がない」なのだが、「下らない=筋が通らない」ではないのだ。「下らない=筋が通らず、ばかばかしい」なのであって、「ばかばかしい」が重要な意味なのである。
「下らない」は「つまらない。価値が無い」などの意味である。従って、「下る」の否定なら、「程度が劣る」の否定になる。それは即ち「程度が劣らない=程度が良い」である。そんな馬鹿な話は無い。
つまり、「下らない」が「くだる」+「ない」だと言うからには、その「下る」には「上等な」の意味が無くてはならない。そして先の3冊の「下る」にはそのような意味は無い。それはほかの辞書でも同じである。「下る」にそのような意味を挙げる馬鹿な辞書は存在しない。
そう、こうした説明は破綻している。それなのにそれを堂々と書いているから「ひどい」と私は言っている。「相変わらず」はこんな事はよくある事だからである。それを私は『こんな国語辞典は使えない』と言う本に書いた。あまり売れなかったようで、出してくれた洋泉社は以後の私の原稿には目もくれない。
ひどい説明の中でも『岩波国語辞典』は「下る」の項で、「下らない」は「読みが下らぬ」「理が下らぬ」の意からという、と説明をしているから、まだましなのだが、それでもおかしな説明になっている。
「下らない」は「連語」で、「下る」の2と3を見よ、とある。その3は前記の「読みが下らぬ」などの事である。しかし2は「ある規準量より少なくなる。下回る」なのであって、それは「連語」とは言えないだろう。用例は「死者は十名を下らない」で、説明にも「多く打消しの形で使う」とあるが、それは、少なくは「下る」の形でも使うとの意味になるはずである。
この『岩波』の説明にしても「読みが下らぬ」「理が下らぬ」の意味が簡単に分かるとは言えない。「下る」に同書は「筋が通る」などの意味は全く挙げてはいないのである。「筋が通る」は肝心の「下らない」の説明に「価値がない。筋が通らず、ばかばかしい」とあるだけなのである。そしてこれが「下らない」の説明だから、その説明が成り立っているに過ぎない。「下らない=価値がない」なのだが、「下らない=筋が通らない」ではないのだ。「下らない=筋が通らず、ばかばかしい」なのであって、「ばかばかしい」が重要な意味なのである。