夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

相変わらず国語辞典はひどい

2010年10月30日 | 言葉
 大岡越前の時代劇で「とんでもない」を取り上げて、似たような形の「くだらない」についても私見を述べた。漢字表記をすれば「下らない」となる。つまり、「下る」の否定である。これはその後の顛末だが、5冊の辞書を調べて、その内の3冊に「下る」+「ない」との説明があった。しかし「下る」の意味は「高い所から低い所へ」が元々の意味で、そこから「程度が劣る」の意味が派生している。
 「下らない」は「つまらない。価値が無い」などの意味である。従って、「下る」の否定なら、「程度が劣る」の否定になる。それは即ち「程度が劣らない=程度が良い」である。そんな馬鹿な話は無い。
 つまり、「下らない」が「くだる」+「ない」だと言うからには、その「下る」には「上等な」の意味が無くてはならない。そして先の3冊の「下る」にはそのような意味は無い。それはほかの辞書でも同じである。「下る」にそのような意味を挙げる馬鹿な辞書は存在しない。
 そう、こうした説明は破綻している。それなのにそれを堂々と書いているから「ひどい」と私は言っている。「相変わらず」はこんな事はよくある事だからである。それを私は『こんな国語辞典は使えない』と言う本に書いた。あまり売れなかったようで、出してくれた洋泉社は以後の私の原稿には目もくれない。
 ひどい説明の中でも『岩波国語辞典』は「下る」の項で、「下らない」は「読みが下らぬ」「理が下らぬ」の意からという、と説明をしているから、まだましなのだが、それでもおかしな説明になっている。
 「下らない」は「連語」で、「下る」の2と3を見よ、とある。その3は前記の「読みが下らぬ」などの事である。しかし2は「ある規準量より少なくなる。下回る」なのであって、それは「連語」とは言えないだろう。用例は「死者は十名を下らない」で、説明にも「多く打消しの形で使う」とあるが、それは、少なくは「下る」の形でも使うとの意味になるはずである。
 この『岩波』の説明にしても「読みが下らぬ」「理が下らぬ」の意味が簡単に分かるとは言えない。「下る」に同書は「筋が通る」などの意味は全く挙げてはいないのである。「筋が通る」は肝心の「下らない」の説明に「価値がない。筋が通らず、ばかばかしい」とあるだけなのである。そしてこれが「下らない」の説明だから、その説明が成り立っているに過ぎない。「下らない=価値がない」なのだが、「下らない=筋が通らない」ではないのだ。「下らない=筋が通らず、ばかばかしい」なのであって、「ばかばかしい」が重要な意味なのである。

テレビの時代劇「大岡越前」は良く出来ている

2010年10月30日 | 言葉
 これは再放送、多分、再々放送のはずである。いや、もしかしたら再々々放送かも知れない。なぜなら、再放送として、私は既にこれを二度見ている。私が見る以前に再放送していた可能性は十分にある。
 それでも、話がとても上手く出来ている。いい加減な所が無い(私にはそう見える)。話のつじつまも合うし、きちんと伏線も張られている。ある話では、無実の罪で男が捕らえられた。その牢屋の場面で、囚人が持病で苦しみ出し、それ医師を、と大騒ぎをする場面があった。そうか牢屋ではそうした事もあるのだなあ、と私は思って見ていた。
 無実の男が牢屋で病死した。そしてそのまま葬られた。死人に口無しで、男の罪が決まった。しかしそれは大岡越前の罠で、そこから真犯人をあぶり出す、との筋書きなのだが、結局、無実の男は生きていた。埋葬されたのは、前の場面で持病で苦しみ出した男だったのだ。
 これなど、空の棺桶を埋葬したって良さそうなものだが、そうはしない。もしかしたら、死人が出たと言う事がヒントになってこうした作戦が生まれたのか、とも考えてしまうような伏線の張り方である。

 そして出演者がいい。特に北大路欣也の大岡がいい。本当に心のある名奉行を見事に演じている。10月26日、落語でも知られる白州で二人の親が子供を取り合う話が出て来た。一件落着したその話の結末に「良い下り酒が手に入りましたので」と言う短い言葉が流れた。うっかりすると聞き流してしまうような場面である。
 古語辞典を調べても「下り酒=上方産の酒で江戸へ輸送されたもの」くらいの説明しか無い。その辞書には「下らぬ=つまらない。とるにたりない」の説明しか無いのだが、私はずっと「下り物ではない=下らない=つまらない物」と思っていた。
 当時、いくら「江戸時代」と言う名称ではあっても、それは幕府が江戸にある、と言うだけの事であって、文化的にはやはり上方は先進文化圏なのである。だから加工品にしたって、上方産の方が優れていて当然である。だから「下り酒=上等な酒」なのである。
 先の「良い下り酒が手に入りましたので」のせりふは、「おいしいお酒が手に入りましたので」で十分に意味が通じるし、むしろ、その方がずっと分かり易い。上方からわざわざ輸送された手間の掛かった酒の意味も大事だろうが、それなら、東北地方から輸送された酒でも良い理屈になる。「下り酒」には「上等な酒」の意味が十分にある。だから、「おいしいお酒」には言い替えられないのである。
 この脚本を書いている人は素晴らしい人だと思う。

 と書いて終わりにしていた。ところが、次の回には「とんでもございません」が出て来た。とんでもない話である。現在は「とんでもございません」を認める学者も増えて来たが、それでも本来は「とんでもない事でございます」が正しいのである。だから江戸時代に「とんでもございません」があったはずが無い。「とんでもない」との言い方が江戸時代にあったとは限らないが、江戸時代に「とでもなし」の言い方があったのは確かである。

 そして「とでもなし」と意味のほとんどよく似た「とんだ(飛んだ)も江戸時代にはあった。
 しかし、「とでもなし」はそれで一つの言い方になってしまっている。この「なし」は「とでも」あるのか、なしなのか、ではない。元々は「ある・なし」だったのだが、「とでもなし」で一つの言葉なのだから「ありません」「ございません」にはならないのである。
 そのあたりが混乱して、「とんでもない=とんだ」なのだから、「とんでもない」は「とんだ」の否定であって、「とんでもございません」が成立する、との考え方になるのだろう。
 「見とうも無い」が「みっともない」になって、それは語源が忘れられているから「みっともございません」にはならないのと同じように、「とんでもない」も語源が忘れられて、「とんでもございません」にはならないのだ、と言う考え方の方が正論なのである。

 「下り酒」も「とんでもない」も決して易しい言葉ではない。そして今では使う人が居ないような言葉である「下り酒」などを使っているからには、相当に言葉を知っている人に違いない。でも、その人が「とんでもございません」と言っている。
 そうなると、このドラマの脚本家は一体どんな人なんだろうか。