夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

古代史をいい加減に扱う人々・その4

2010年10月23日 | 歴史
 隋書の多利思比孤を聖徳太子だと言い張る事から発生している次の難題は何だい? などと駄洒落を言っている場合ではない。明確に倭王は男性であると認められているのに、当時の日本の王は女性の推古天皇なのである。推古天皇の存在を否定する学者は今の所、一人も居ない。居るとすれば、ある研究者が推古は天皇ではなく、実際の天皇は聖徳太子だった、と考えれば、話はすっきりと分かり易くなる、と言っているくらいの所である。もちろん、分かり易くなどは絶対にならない。むしろ、分かりにくく、難しくなるだけの話である。それがこの研究者には分からない。だからいい加減な事を言う。何しろ、この研究者は日本書紀も満足に読めないのである。
 大和朝廷の使者が隋に向かった事実がある。それをこの研究者は次のように書いている。

  『書紀』には推古22年5月条に犬上君御田鍬等が隋に使いしたとあり(以下略)

 しかし日本書紀には次のようにある。

  22年の夏5月の5日に、薬猟をもよおした。6月の13日に、犬上君御田鍬と谷田部造とを大唐に遣わした。

 こんな明確な文章を読み間違える。先の「分かり易くなる」は、正確には次の文章になっている。

  タリシヒコは太子その人であり、推古朝においては彼は大王であった。それを『書紀』が改竄隠蔽した。そう明快に結論づけた方が推古朝の解明はしやすいのである。

 解明がしやすくなくて結構。難しく複雑に入り組んでいるからこそ面白いのである。それをくだらない理由でいい加減に結論付けられては大いに迷惑である。非常に単純な性格である事がとてもよく分かる。
 推古が天皇であれば、天皇に会っている隋の使者がそれが女性であるのが分からないはずが無い。だから推古が天皇であっては困るのだ。そこから、女性であるのを隠すために、使者を天皇とは会わせなかった、と言う学者も居れば、その時だけ聖徳太子が天皇といつわって会見したのだ、と言う学者も居る。隋の臣下である日本が、隋の使者を天皇と会わせなかった。そんな不敬な事が出来ると考えている。日本の使者でさえ、皇帝に謁見している。隋書には、文帝が所司に倭国の風俗を尋ねさせた、とある。使者が答えると、文帝はそれを批判した、とある。

  上、所司をして其の風俗を訪わしむ。使者言う。「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。(以下略)」と。高祖曰く「此れ大いに義理無し」と。是に於いて訓えて之を改めしむ。

 日本の使者は皇帝とは別の部屋に居て、皇帝は部下に使者に風俗を尋ねさせた。使者の答を部下は皇帝に伝え、皇帝はその風俗を改めさせた。上記の文章をこのように読むのは不自然である。「所司をして訪わしむ」と言うのは、そこには中国語と日本語の通訳が必要だからだろう。その続きが「使者言う」「皇祖曰く」であるのは、そうした流れの中にあるのだから、極めて自然なのである。
 そうした文書の流れが学者は読めないらしい。大和朝廷には天皇が外国の使者と直接会う事は無いのだ、と初心者向けの日本の歴史書に書かれている。たとえ日本書紀がそのような情景を書いていたとしても、それは日本書紀の大義名分である。そんな事が分からない。日本書紀はあくまでも正しく、隋書は聞き間違えや書き間違えがたくさんある、と考えている。当時、日本は中国側から文化を学んでいたのである。
 自分の無知を棚に上げて、隋書を無視している研究者は日本書紀にある蘇我馬子と推古天皇が交わした歌一つさえ満足に理解が出来ない。
 天皇は馬子に次のような蘇我氏を褒め讃える歌を贈った。

  真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀 諾(うべ)しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき

 この最後の「大君の使はすらしき」は「大君が使うであろう」の意味だから、歌う推古が自身を大君というのは、まずありえない、とこの研究者は言う。そして、次のように言う。

  返歌は推古の歌には違いないが、この歌から推古が倭国王ではなく皇后であったのが推測される。このようなところに推古朝の実体がちらちらと見え隠れするのである。

 ここには馬子の歌が引用されていないから、読者はこの著者の言う事をそのまま受け入れてしまうだろう。しかし馬子の歌をきちんと理解出来れば、そんな考えにはならない。
 馬子は次のように歌を詠んだ。

  我が大君のお入りになる御殿、出で立たれる御殿を見ますと、千代、万代までこのようであって欲しい。かしこみおろがみつつお仕え致しましょう。謹んで喜びの歌を奉ります。

 馬子は「幾久しくお仕えしたい」と言っている。それに応えて天皇は「大君が蘇我の人々をお使いになるのはまことにもっともな事である」と詠んだのである。馬子と推古の話ではない。蘇我氏と天皇家の話なのである。これまでの蘇我氏の忠勤を認め、これからもそうであって欲しい、と言っている。
 そうした歌の理解が出来ないで、言葉尻を掴んで、それもまた粗雑に掴んで、推古は天皇ではない、と言う。これは「聖徳太子の正体」と言う超一流の出版社から出ている本に書かれている。

 聖徳太子が天皇であったのではないか、との考えはあるが、それでも推古天皇の在位を否定してはいない。それはある著名な歴史学者が書いているのだが、古代、伊勢神宮に仕える斎王が存在した。未婚の皇女で、精進潔斎して天皇に代わって祭事を行う。
 史上三人目となる斎王は酢香手姫王女。彼女は用明天皇・崇峻天皇の時の斎王で、37年間務めて「自退」したと日本書紀に書かれている。用明天皇の即位は585年。それから37年目は621年。これは推古天皇の29年に当たる。推古天皇は628年まで在位していたから、斎王が自退してから7年間天皇だった事が分かる。
 それなのに、斎王はなぜ天皇の代の途中で引退したのか。
 それをこの学者は621年は聖徳太子の死の年である事から解明している。つまり、斎王は女性の天皇の時には存在していなかったのではないか。それが証明されれば、推古天皇の即位とされる592年は実は聖徳太子の即位の年であり、推古天皇の即位は実際は「聖徳天皇」が亡くなった621年なのではないか、と言うのである。聖徳太子が摂政になったと言うのは、天皇になったと言う事なのではないのか。
 女性の天皇の時には斎王は居なかった、と言うのは、卑弥呼に見るように、女性の天皇は古来、呪術に長けていた。つまり、神事が出来る。だから神事を司る代理を立てる必要は無い。
 ただし、その証明は完全には行われていない(ように見える)。と言うのは、同氏は次のように書いているからだ。

  推古天皇の次の舒明天皇は男帝でありますが、そのあとの皇極・斉明天皇、この女帝のときも、ただ一人も伊勢に行った斎の王女はおりません。それからその次に天智・天武と男帝が続いたあと、女帝の持統天皇のときになると、これも一人の斎の王女も派遣されておりません。そのあとの文武天皇のときは四人も斎の王女が遣わされています。ところがその次の女帝、元明天皇のときはまた斎の王女は派遣されていない。これだけ事実がそろえば(以下略)。

 天武天皇の時の斎王が大伯(おおく)王女である事は分かっている。彼女は持統天皇になって、伊勢から戻って来た。弟が持統天皇に謀反の疑いを掛けられて殺された大津皇子である。その時の二人の哀傷極まる歌が万葉集にある。ただ、上の文章では、舒明天皇の時、天智・天武天皇の時、斎王は誰だったのかは書かれていないので、その時に確かに斎王は派遣されていた、との証明にはなっていない。
 更にはなぜか、追究は元明天皇で終わってしまっている。元明天皇の次は同じく女帝の元正天皇である。元正天皇の時の事も、次の聖武天皇の時の事も、その次の女帝の孝謙天皇、男帝である淳仁天皇を挟んで、孝謙天皇が重祚した称徳天皇の時の事も書かれていない。これでは「これだけ事実がそろえば」などとは言えない。
 それをするには読者が代々の天皇の斎王は誰だったのかを自分自身で調べなければならなくなる。そんな事が簡単に出来るはずが無い。きちんと文章を読めば、こうした疑問が出るに決まっている。だから、そうした疑問に応えようとしないのは、事実はそうではないからではないのか、とあらぬ疑いを掛ける事にもなる。

 天皇が用明天皇・崇峻天皇・聖徳天皇・推古天皇・舒明天皇、と続いたとするなら、そこからまた新たな展開が見られるだろう。これに即して日本書紀を読み直してみる手はある。ただし、だからと言って、多利思比孤は聖徳太子だ、と言う事にはならない。
 この話はもっと続いて、隋書の記事と日本書紀の記事が矛盾無く両立する明快な結論があるのだが、それは「古代史をいい加減に扱う人々」のテーマとはずれるので、次はまた別の事を取り上げたい。