夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

古代史をいい加減に扱う人々・その3

2010年10月22日 | 歴史
 きのう、日本歴史人物辞典の聖徳太子の説明の事を書いた。信じがたいとも書いた。『隋書』に登場する倭王が聖徳太子であり、その妻が菟道貝蛸(うじかいだこ)女王であり、太子が田村王子(のちの舒明天皇)と解される、との説明を引いた。その部分の『隋書』の文章は次のようになっている。

 倭王あり、姓は阿毎、字(あざな)は多利思比孤、阿輩?彌と号す。王の妻は?彌と号す。太子を名づけて利歌彌多弗利と為す。

 上記人名辞典の田村王子の「田村」には「たふり(る)」の振り仮名が付いている。馬鹿を言ってはいけない。「田村」がどうすれば「たふり」とか「たふる」と読めるのか。同辞典は「田村王子」では項目を立てていないが、舒明天皇の項では「諱(いみな)は田村皇子」となっているが、そこに「たふり」の振り仮名は無い。
 田村皇子は押坂彦人大兄皇子と糠手姫皇女の子で、聖徳太子の子ではないが、太子、つまりは皇太子だろうから、それでも構わない。
 「田村」に「たふり」の振り仮名付けているのは、『隋書』の利歌彌多弗利を舒明天皇にしたいからである。何と言う姑息で汚い手を使うのか。そんなにしてまで、多利思比孤を聖徳太子に仕立て上げたいのか。

 全く別の本では、『隋書』の「姓は阿毎、字は多利思比孤」を、天皇の名前を姓と名に分けるような非常識な事をしているとこき下ろしている。もちろん、大和朝廷の天皇に姓は無い。だからこれは大和朝廷の天皇の事ではないのだ、と考えるのが常識ある人間の考え方である。しかしその学者も大和朝廷以外の王を認めたくはないから、常識を疑われるような事を平然として言うのである。
 そして、これは日本側の使者が、天皇の身分について、天から下られた尊いお方である、と説明した事を隋側がこのように記述したのだろうと、次のように言う。

 阿毎多利思比孤は「天垂らし(足りし)彦」の意味であろうから、それは倭王の個人名というよりは、天孫降臨神話の原型のようなものを背景にして大王の地位を尊んで呼称したと見なすのが妥当ではないだろうか。
 アメとかタラシというのは、六、七世紀の大王の諡号(おくり名)の一部にふくまれることがある語彙だった。だから、このときの遣隋使がある大王の諡号の一部を文帝らの前で披露し、中国側はそれを倭王の実名と誤解したという可能性もある。

 と言うのだが、六、七世紀の大王とは継体天皇から文武天皇までで、その中でアメとかタラシを諡号の一部にしているのは、
 欽明天皇の「あめくにおしはるきひろにわ」
 舒明天皇の「おきながたらしひひろぬか」
 皇極天皇の「あめとよたからいかしひたらし」
 孝徳天皇の「あめよろずとよひ」
 天智天皇の「あめみことひらかすわけ」
 天武天皇の「あまのぬなはらおきのまひと」
 持統天皇の「おおやまとねこあめのひろひめ」
と8人居るが、上記の遣隋使が知っているのは欽明天皇の諡号だけに過ぎない。舒明天皇以下7人の天皇はまだ存在していないのである。存在していない天皇だからもちろん死後の贈り名もまた存在するはずが無い。
 何と言うむちゃくちゃな論理を展開しているのか。この本の帯には「いま、古代史が面白い!」とある。面白いのはこの著者の方である。
 舒明天皇より前の大王でタラシを諡号の一部にしているのは孝安天皇(やまとたらしひこくにおしひと)、景行天皇(おおたらしひこおしろわけ)、成務天皇(わかたらしひこ)、仲哀天皇(たらしなかつひこ)の4人居るが、これは武烈天皇で断絶する前の王朝の大王である。まだ日本書紀などは出来ていなかったから、様々な歴史書が存在しただろうが、断絶した、継体天皇とはかなり系統の離れた王朝の大王の諡号をこの遣隋使がそらんじていて、文帝の前で披露したとはとても思えない。
 それに、この諡号と諱(実名)は混同されていて、学者によって、諡号だ、と言ったり、諱だ、と言ったりと、様々である。そして諡号は後世になってから付けられたのも多々あると言う。だから、この学者の考えは学者生命を駄目にしかねないほど「面白い」のである。