夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

全原発の停止が視野に入った

2012年03月26日 | 社会問題
 現在稼働中の北海道の1基も5月には点検に入って停止になると言う。
 やっとここまで漕ぎ着けたか、と我々は思う。だが、政府は性急に再稼働に動いているらしい。そして東京新聞は「原発依存 住民に動揺」の大きな見出しを付けている。この見出しは誤解を招く。「原発への依存が住民に動揺を与える」と思えてしまう。だが、本当は「原発に依存している住民に動揺を与える」である。

 詰まらない事が気になってしまったが、地元住民の心は複雑だ。新聞の言う通り、原発への不安と、運転停止が長引いた場合の雇用や地域経済への懸念が交錯している。原発がもたらして来た恩恵は強い依存心も植え付けており、多くの住民が現状を受け止め切れないでいる、と言うのも事実である。
 しかし、これは原発の安全神話があってこその話である。国は安全神話を作り上げ、我々を騙し続けて来た。それが分かったのだから、考え方を完全に切り替える必要がある。安全とは言い切れない原発に恩恵を受けたり、依存したりする事は、自らの死と引き換えにしても良い、くらいの覚悟が要るはずだ。

 ところが、そうはならない。
 第一には、安全とは言い切れないのと同時に、危険だとも言い切れない、との思いがある。
 第二には、たとえ危険性の方が絶対に大であると思っても、自分の地元がそうなるとは限らない、との思いがある。あるいは、自分が生きている間は大丈夫だろう、との思いがある。
 これは本当に自分勝手な考え方である。自分さえ良ければ、他の何万人もの人々が苦しんでも、構わない、と言う事になる。現に福島の多くの人々が苦しんでいると言うのに、まだ目が覚めない。

 これは単なる経済的な問題なのではない。我々の生き方の問題なのである。そうは言っても、我々が生きて行くためには、経済的な裏付けが必須である。それで、短絡的な思考が働いてしまう。私個人の事を言えば、現在、必死になって二つのアルバイトをしてどうにか食べている情況にある。私のアルバイトは人のためにはなっても、人に害を与える事は絶対に無いからやって行けるのだが、これが少しでも人に危害を与える恐れがあれば、いくら、自分が生きて行けないと思っても、何とかして別の仕事を見付ける努力を私はする。しなければ人の道にもとる。

 しかし、原発への依存はそうではない。現に福島の人々の苦難のほんの一部ではあるが、テレビで見て、新聞で読んで知っているにも拘らず、自分が加害者になる恐れがあるのを認識しようとはしない。
 では、こう考えてみてはどうだろうか。
 現在、原発で利益を受けている人々や自治体は、原発の被害が出たら、その被害者の全部の損害を補償する必要がある、とするのである。原発への依存とは、そうした事だと思う。