夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

原子力ムラの学者が駄目なのは、学者の体質ではないか

2012年03月20日 | 歴史
 どうも学者が体制側にくっついているのは、昔からの事で、それは生きて行く上での必須の知恵だったのではないか、とこの頃考えている。今でこそ、反体制側に居ても報酬は得られるだろうが、昔はそうではなかったと思う。
 何でこんな事を考えているかと言うと、今私が追究している万葉集と日本書紀の解釈に関係があるからだ。

 全文が漢文で書かれている日本書紀はそのままではとても難しいから、我々に易しく理解の出来るように現代語訳が出ている。その中に天智天皇の病気に関して、不審な現代語訳がある。
 「疾病弥留」を「病が重くなって」と訳している。「弥」は「弥生」のように使うが、旧暦3月の「弥生」は「いよいよ生える」が語源らしいが、「弥=久しい。いよいよ」が基本的な意味である。「留」は「とどまる。残る」の意味である。従って「弥留」は、ある状態がそのまま続いている、との意味である。「弥=いよいよ」の意味を採っても、「いよいよ残る」くらいにしかなり得ない。「いよいよ重くなる」とはならない。「弥留=重態」とはならない。

 何でこんなおかしな現代語訳になるのかと言うと、この場合の「疾病弥留」を昔から「やまいあつしれて」と読み下しているからなのだ。「あつしれて」は「熱さに痴(し)れる」で、「痴れる」は「この痴れ者め」などと言うように、「心が馬鹿になる」。つまり「あつしれて=熱でおかしくなる」。そこから「あつしる=病が重くなる」の意味として使われている。
 けれども「弥留」を「あつしる」と読む事は絶対に出来ない。「久しきに渡る」としか読めない。それなのに、漢和辞典までもが同調して「弥留=重態」だと説明している。我々は漢和辞典がそう言うなら、それは正しいと思ってしまう。そしてこの漢和辞典の説明が、実はとんでもない「食わせ物」なのであって、それを私はきちんと証明出来ているが、話が複雑になるので、ここでは割愛する。

 日本書紀の原文である漢文では天智天皇について「疾病弥留」としか言っていない。それを「重態」とするのは、実は皇后が天皇は山科で殺害された、と歌に詠んでいるからなのだ。これは万葉集に載っている。しかし日本書紀を始めとする歴史書にそんな事は全く書かれてはいない。私は、重態だとするのは、天皇は病死したのだ、と説明するためだと思っていた。それなら皇后の歌を否定出来る。皇后の歌は忠実に解釈しなくても何とかなる。実際、ほとんどの解説書が曖昧な意味の良く分からない解釈しかしていない。私は「解釈していない」のではなく、「解釈出来ない」のだと思っていた。
 しかし、そうではない事が判明した。恣意的にわざときちんと解釈していないのである。それには重大な理由が存在していた。

 実は皇后の詠んだ歌と同じような記述が歴史書である『扶桑略記』にあるのだ。私はその記述をまだ読む事が出来ていない(史料が簡単には手に入らない)が、平成2年に伊沢元彦氏が『隠された帝・天智天皇暗殺事件』(祥伝社)と言う推理小説に引用している。その記述の現代語訳は次の通り。

「天皇は馬で山科に出掛けて帰って来なかった。山林に入って亡くなった所を知らない」

 この記述の信頼性はかなり高いらしい。それはもちろん、『扶桑略記』の信頼性が高いからだろう。皇后の歌のように曖昧に解釈して済ますと言う訳には行かない。だからと言って、歴史書の記述を抹殺する訳にも行かない。しかし抹殺するのではなく、その記述を否定する事が出来る。どうするのかと言うと、天皇を重態にして置けば良いのである。重態の天皇が馬に乗って山科に行く事は不可能だ。その時の天皇の宮は山科から直線距離にして約5キロほど離れた近江の大津である。
 だから、学者は「天智天皇の病が長引いている」との記述を「天皇は重態になった」などとして、我々を騙すのである。それは日本書紀の記述だけが正しいのだ、と言う「信念」があるからだ。

 こうした「騙し」はあちこちにある。もちろん日本書紀の解釈にも万葉集の解釈にもある。一つの嘘が更に次の嘘に繋がり、結局、破綻してしまっているのだが、それでもなお足掻いている。だから無惨この上ないのだが、どうも学者達は無惨だとは思っていないらしい。辞書には、ねえ、よくそれで漢和辞典だと言えますねえ、とか、よくそれで古語辞典として通ると思えますねえ、と言いたくなるような実態がある。
 そうした事は私は以前、『こんな国語辞典は使えない』(洋泉社)で書いた。そしてその後も国語辞典について調べているし、二冊の本にもまとめているが、今の所、出してくれる出版社は無い。日本語の表記についても駄目な表記が日本語を破壊している事について本を書き、その対策も本にしてあるが、やはり出してくれる所は無い。

 原子力ムラなら、真相が公表されれば、我々にもその真実が理解出来るが、日本書紀や万葉集、そして辞典類の事になると、真相が分かったからと言って、我々が簡単に真実を理解出来るとは限らない。だから、いい加減な考え方がはびこるのである。それに多くの人が「金権がらみ」以外にはあまり興味を持ってくれない。日本文化の危機ですよ、と言っても、文化ではカネにはならない。
 「長い物には巻かれろ」の体制側に付く学者の体質が、実は日本の歴史の真実を隠し、文化を破壊してしまう結果になるのである。そうした学者の体質が原子力ムラの学者にも「正しく」伝わっているに過ぎないのである。