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夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

大型スーパーの店内が意外に見にくい

2011年10月02日 | 暮らし
 ある大型スーパーに煮干しを買いに行った。食塩無添加の煮干しが一番安いのだ。なぜ食塩無添加を買うかと言うと、実は犬にやるからだ。同じ系列の店が住んでいる所の東西に二店ある。どちらもあまり行く店ではないので、店内の勝手が大体しか分からない。そしてその日行った店は店内の案内表示が遠くからだと光っていて見えない。そこでたまたま商品の補充をしていた女性店員に聞くと、売り場まで案内してくれた。どの店もそうだが、自分の仕事を中断してまで、現場まで案内してくれる。私はそれでは悪いので、いつも場所を説明してくれればいいから、と断るのだが、たいていは実際に案内してくれる。多分、店のマニュアルにそうしろとあるのだろう。

 その日、私はその店員に案内の表示が光ってとても見にくいのだ、と説明した。すると、そのような御意見は初めて聞きました、と言う。そうした苦情を言ったのは、その店員にとっては、私が初めてだと言うのである。ほかの品物を物色していると、またその店員に出会ったので、案内表示がどれほど見にくいかを実際に見てもらった。斜め前方に立って、どうですか、見えますか、と聞くと、見えないと言う。近くまで行っても、斜め前からではどうしても光ってしまう。表示の真ん前に来て、初めて見える。遠くから見えない案内表示など、意味が無い。
 で、私は言った。店員さんはみなさん、どこに何があるかを知っているから、表示を見る事など無いだろうが、初めての客にとっては、表示が一番なんですよ、と。初めてではなくても、お宅のように近くに二店もあれば、いつも決まった店に行くとは限らないし、この辺りには大型スーパーが五軒も六軒もあるから、すべてを覚えている訳ではない。私は気が短いから、分からなければ、もう二度とこんな店に来るもんか、と思ってしまう、と丁寧に説明した。

 私は多分、おせっかいなのだろう。でも、客がどう思っているか、どう感じているかは店にとっては大切な情報だと思う。せっかく品物を揃えて並べているのに、そっぽを向かれたら詰まらないではないか。それで、自分の言った事が後日、どの程度反映されているかも見ている。それで、反映されていなければ、なるほど、不満に思うのは私くらいしか居ないのだろう、と思うか、この店はこの程度なんだな、と思う事にしている。それは不満に思った事の内容による。

 そうやって、自分の思った事、考えた事を様々に発信していると、相手の反応によって、自分がどの程度の人間なのかが分かると言う効能もある。

台風には強いはずの地下鉄が止まった

2011年09月24日 | 暮らし
 あるテレビ局が簡単なニュースに仕立て上げて説明していた。
 本来は台風などには強いはずの地下鉄がほとんど止まってしまった理由は、地下鉄と地上を走る鉄道との相互乗り入れに原因があるのだと。その証拠には運休しなかったのは、都営大江戸線と東京地下鉄(東京メトロ)の丸ノ内線だけだったと言う。確かにこの二つの路線は集電の方法が他の鉄道とは全く違うから他の鉄道との相互乗り入れが出来ない。そして丸ノ内線と同じ方式の銀座線は同線の路線事情で止まってしまったのだと言う。
 ここまでは分かる。しかし他の鉄道と相互乗り入れをしている日比谷線が止まらなかった理由が分からない。同線は南北で別々の私鉄と相互乗り入れをしている。にも拘らず、地下鉄本来の区間だけの運行にして、運行が可能だったと言うのである。それが出来るなら、他のほとんどの地下鉄が出来て当然である。

 非常に浅い考えでこうしたニュースを流しているのである。なぜこうした事を問題にしているかと言うと、相互乗り入れが原因で地下鉄が止まったのなら、相互乗り入れはしない方が良いのではないか、とも考えられるからだ。
 私などは、毎日の利用では、相互乗り入れの利便とは全く関係の無い、地下鉄の本来の路線にしか乗らないので、相互乗り入れの便利さを感じた事が無い。むしろ、乗り入れている私鉄がしょっちゅう人身事故などを起こして遅れるので、非常に迷惑を蒙っている。
 台風などの災害は年に一回あるか無いかだろうから、相互乗り入れを批判するのは間違っているのかも知れないが、帰宅難民が一体どれほど居たかも考える必要があるはずだ。毎日の直通運行にしても、そんなにも便利だと言えるのか。単に乗り換えをしなくて済むだけの話ではないのか。乗り換えに2分か3分ほど余計に掛かるぐらいの事ではないのか。ターミナル駅で乗り換えるのと違って、多くの場合に同じホームの反対側に移動して、そこに止まっている電車に乗り換えるだけの事に過ぎない。

 今回地下鉄が止まった理由は相互乗り入れだけが原因ではないと思う。二昔ほど前、開通したばかりの地下鉄東西線が荒川の鉄橋で強風にあおられて脱線した事故が発生した。荒川の手前で同線は地上に出る。それ以降、同線は強風で列車を止めるようになった。同じ事が都営地下鉄の新宿線にも言えるはずだ。
 相互乗り入れをしている路線で、日比谷線だけが運行出来た理由をそのテレビ局はきちんと説明すべきなのである。このニュースに不審を感じなかった番組の司会者の感性を疑ってしまう、と言ったら酷だろうか。

便利過ぎる世の中だが、人間が追い付いて行けない

2011年06月25日 | 暮らし
 格安でインターネットも出来るとの事でパソコンを買った女性が居る。私の仕事仲間で、年齢も行っている。で、インターネットが出来ない、とそのパソコンを持って来た。富士通の本格的なパソコンで、ウインドウズ7である。私のはウインドウズXPだから、手に負えるか自信は無いが、一応触ってみた。
 何と、プロバイダーとの契約をしていないのである。それすらも知らないのである。マニュアルに「インターネットをするには」の章があり、そこにきちんとプロバイダーとの契約をして、電話線とルーターを接続し、ルーターとパソコンを接続する、と絵にもなっていて明確に説明があるのに、それが分からないのである。
 普通にはとても物分かりの良い人で、男勝りの所もあって、私は大好きな人なのだが、事、機械とか電気に関してはとことん駄目なのである。インターネットをするためにと、別にもう一台のケイタイを持っている。本人もよく分からないで持っている。
 だから近くにあるドコモショップに行って、よくよく話を聞いて来る事を勧めたが、何をどのように聞いたらいいのかも多分、分からないのではないか。私は本人にはっきりとそう言った。本当は私が一緒に行ければ良いのだが、そのような暇が無い。

 私もそうだが、あまりよく知らないで機器を使っている事は多い。あまりにも複雑で進化し過ぎてしまったから、我々が追い付けないのである。そしてマニュアル類がこれまたひどくてお話にならない。なぜなら、マニュアルは技術者が書いている。そして彼等は往々にして日本語が不得手だったりもする。技術者が技術の説明をしているだけなのだから、一般人が分からないのは無理も無い。
 なぜ技術者ではない、営業とか事務とかの普通の人に読んでもらわないのだろうか。そうした機器類を製造し販売している企業にそうした発想が無いのは、単にカネ儲けの手段に成り下がっている証拠である。だから要りもしない機能をどんどん付加して、より良く、より高い機種を作り出す。
 みなさん、自分の程度を考えてみなさいよ、と言いたくもなる。それほどにまで程度の高い人ばかりなら、日本の現状はこんなみじめではないはずである。

牛肉に生食用が無いとは知らなかった

2011年05月05日 | 暮らし
 牛刺は食べた事がある。牛のたたきなどはスーパーで簡単に手に入る。しかしそれらは生食用の牛肉ではななかったとは知らなかった。でも変な話である。精肉業者は「加熱用」と明示して出荷していると言う。「加熱用」とは「生食には不適」との事である。それは常識だ。「加熱用」の表示のあるカキを生で食べる人は居ない。まあ、カキの場合は特殊な事情もあるらしいが。生食用のカキはきれいな殺菌された海水の中で育つらしいから、言うならば純粋培養だ。それに対して加熱用のカキは雑菌などもいるような海水の中で育つから、栄養分も殺菌した海水よりは豊富らしい。だから、生食用に比べて加熱用は旨いのだと言う。要は、生の旨さと加熱した旨さの違いを消費者は味わっている。
 だが、牛肉にはそのような贅沢は許されていないのだ。「生食用」は存在し得ないのだから。「加熱用イコール生食には不適」をすべての焼肉店が無視している訳だ。それでは「加熱用」と明示している意味は一体何なのか、と言う事になる。しかし役所はそうした事には全く無関心である。それで役所の務めが務まると言うのか。

 焼肉店では肉の表面を削って生食用にしていると言う。それをトリミングと称しているが、そんな格好を付けた呼び方をしているからしている事の本質が見えなくなる。トリミング結構。でもそれは肉の表面だけが汚染されている危険性があって、でも中は安全だ、と言う事になる。本当にそれで良いのか。確かに牛肉は出荷するまでの段階で汚染される危険性があると言う。牛の糞便などにいる細菌が付着する危険性がある。しかしそれは本当に肉の表面だけで済む事なのか。表面に付着した細菌が肉の中にまで浸透する恐れは皆無なのか。
 牛のたたきが簡単に手に入ると言う事は表面に熱を加えれば安全だ、と言う証拠かも知れないが、出荷側が「加熱用」と明確に表示していると言う事実をあだやおろそかに扱ってはならないはずだ。

 焼肉店でのロースは普通に言うロースとは肉の部位が違う、と言う事がつい最近話題になった。焼肉店の言い分は「それが焼き肉業界の常識だ」であった。客もそれで文句を言わずに食べ続けていたのだから、その言い分は通るのだろう。本当は、消費者はそうした事には何の関心も無い事が証明された訳なのだが、旨けりゃいいのよ、なのである。
 だが、牛肉を生で食べる場合にはそうは行かない。こちらには生命の危険性が潜んでいるのだ。当然に精肉業者はそうした事を知っている。でも、なあなあの関係でそうした事が長年の間無視され続けて来たのだ。役所だって同じ穴のむじなである。

 あーあ、一体この国はどうなっているんだろう。震災と原発で政府も役所も業界もめちゃくちゃだと言う事がはっきりしたのに、今度は食品でも同じだと言う事が判明してしまった。ホント、儲かりゃいいのよ、の世の中なのだ。そして我々庶民だけがいつも損をしているのである。でもそれだって我々にも責任がある。喉元過ぎれば熱さを忘れる、で、大事な事でもすぐに忘れてしまう。あれほど悔しい思いをしただろうに、あっけらかんと忘れてしまう。
 多分、それは自然災害が多くて、しかも木と紙の家で暮らし続けて来たから、過去の嫌な事は忘れなければ生きては行けなかったからでもあるのだろう。しかし現代は違うだろう。違わなければいけない。熱し易く冷め易い体質からいい加減に脱皮しようではないか。

ドイツが原発全廃を決めた

2011年04月18日 | 暮らし
 原発への依存度が日本よりずっと低いドイツは原発の全廃を決める事が出来た。地震の恐れの無いドイツでさえ原発を全廃すると言う。7割近くを原発に頼る隣国のフランスはそれが出来ない。日本はと言うと原発への依存度は25%。一挙にではなく、まずは福島原発が廃止になり、そして徐々に全廃に持って行く事は出来るはずだ。それこそ、日本の復興である。エネルギーの無駄遣いを止める事を全国民が決意すればそれが出来る。
 石原都知事はそのきっかけをパチンコ屋と自販機の自粛に求めている。もっとも、同知事は原発推進派らしいが。でも原発維持や推進ではこれからの日本はやって行けない。だから意識改革が必要だ。エネルギーが豊富なら何でも便利な生活が可能だ、とのパラ色の夢を描いてそれをばらまいている業種がある。それは様々な業種に渡っているから我々には相当の覚悟が要る。でも、それをしなければ日本は本当の復興は出来ない。
 数多くの人々の犠牲の上に我々の目覚めがある。それを無にしてはならない。

 津波の被害にあった海岸沿いの地に風力発電の風車を建て並べるのはどうか。今までの街は山を削って作った高台に建設する。過去の地震や津波の被害を人々は伝えて来た。そして後代の人々はその教えを一部守って来た。その守り方はその時々の文化の水準と言う制約があるので決して高度な物ではなかった。しかし現代は違う。遥かに優れた技術がある。その力をフルに発揮すれば、従来の防備策よりも格段に安全な防備が出来るはずなのだ。
 ただそれには莫大なカネが要る。今までのような無駄遣いをみんながしていてはカネは出来ない。便利に頼って来た電化製品や種々の機能を我慢しようではないか。パチンコや自販機だけではなく、自分の回りを見回せばエネルギーの無駄を省ける工夫はたくさんあるはずだ。ただ、それは今までの暮らしの延長線上には無い。暮らしを根本的に考え直す必要がある。テレビだって現在のような深夜まで放送する必要は無い。その多くの番組がCM料金目当てのさほど必要とも思えぬ番組である。
 テレビ漬けになっている人は辛いだろう。そして携帯を始めとして、なになに漬けになっている人は多い。みんな惰性で「漬け物」になってしまっている。そうした事から脱却する事で新しい生き方が見えて来るのではないだろうか。

物の処分と生き甲斐と

2011年04月10日 | 暮らし
 地震に備えて何よりも家の安全対策を進めている。つまり、倒れるような家具を配置しない、そこから落ちて来るような物を極力減らす。棚の中にいちいち桟を付けて落下を防ぐ手もあるが、煩わしくて仕方が無い。だから要らないと思えるような物をどんどん増やしている。でもそれはかなりの無理がある。編集した本や校閲をした本、DTPを担当した本などは思い入れがあるが、思い入れは実際の役には立ちそうもないと思い切って処分する事にしている。相当数があるから、処分の効果は大きい。何度も読み返す訳ではないが気に入っている本も対象にしている。これも処分の効果が大きい。大型美術全集などなら言うまでも無い。撮影したビデオも録画したビデオも処分している。
 本来ならこれだけでも相当すっきりとするはずである。場所だけではなく、心の中までも。
 ところがどっこい、そうはならない。なぜなのか。物の処分だけではなく、スピーカーもAV機器も場所を取るからしまったので、すぐには使えない。つまりは、不要な欲求を処理しただけではなく、必要な欲求も抑えてしまった。だからどうにも意気が上がらず、すっかり落ち込んでいる。

 心の悩みを解決する本などには、執着心を捨てよ、と必ず書いてある。そして以前は本当にそうだ、と思っていた。でもその執着心とはすべての執着ではないと分かった。執着にも本当につまらない物と生きるために必要な物とがあるのだ。心が出来ていないのだ、と言われようと、このままで心が完成するような見込みは無いのだから、現在の心で対処するしか無い。
 物の整理を勧める本には、生きるための執着に関わる物は出ては来ない。それは人によって違うし、簡単に割り切れないからだろう。説明も難しい。でも実は、こうした事が「捨てる」事の最大の難関なのだ。手元にある「頭のいい捨て方・片づけ方60の具体例」と言う本にもそうした物は出て来ない。評判になった「断捨離」(漢字に自信が無いが)は読んでいないが、こうした事を解決出来る事が書いてあるのだろうか。

 そこで、まずは私の最大の趣味であるAV環境の復活を考えた。場所が要るから何かまた別の物を処分しなければならないが、まあ、何とかなるだろう。長い間聴いていなかったLPレコードを聴いてみよう。まだ一度も針を落とした事の無いレコードが何十枚も眠っている。捨て方の本によれば、こうした物こそ第一に捨てるべき物に入るのだが、そうした物も含めてレコードだけは今回の処分の対象には入っていないのである。それは私の生きる原点でもあったからである。変な話だが、デジタル全盛の時代に、私はアナログで復活をしようと目論んでいる。

地震で仕事場が半壊した

2011年03月20日 | 暮らし
 12階にある我が家は重量級の家具だったので、わずかに食器が破損したくらいの損害で済んだが、仕事部屋は見るも無惨な有様となった。重量級の家具はわずかに書棚が一つだけ。そしてそれは中身がぎっしりと詰まっていた事もあって、無事だった。しかしそのほかは安価なカラーボックスを安易に積み重ねて補強もしていなかったし、スチールの支柱と棚板を組み合わせた棚を180センチもの高さで組んでいたから、上の方はすべて倒れて中身が散乱していた。ただ、相対して設置していたお陰で互いに支え合って、まるで「人」の字のようになっていたのが救いだった。
 そうは言っても、部屋の中に入れない。なぜなら、倒れた家具が内開きの扉を押さえてしまっていた。ベランダの戸は冬なのでしっかりとロックしていた。万事休す。もう扉を壊すしか無い。ガラスの入っている扉ならガラス交換のためにガラスを押さえている縁はねじ止めになっているが、全部が木製の扉では薄い板の部分は釘止めの縁でしっかりと固定されている。その縁を息子が丹念に時間を掛けて外してくれてやっと中に入れた。
 幸いな事には2台のパソコンもモニターも無事、2台のプリンターも無事、スキャナーも無事。転げ落ちていた素焼きの招き猫の貯金箱さえ無傷だった。

 パソコンは一応起動して中身も無事な事を確認したのだが、すぐに仕事は始められない。今まで通りの棚の設置では危なくてどうにもならない。180センチもあった棚類のすべてを120センチ以下の高さに抑え、今まで通りの備品や書籍、資料などを収納する事は不可能だ。かなりの物を捨ててもまだ収まらない。
 そこで大幅な模様替えと徹底的な補強をした。この際すべてを重量級の家具にしてしまえば良いのだが、そんなカネは無い。ある物を利用して動かない、倒れない工夫をする必要がある。すぐに取り出せなくても、せめて余震のおそれのある期間持ちこたえられれば良い。要らない物の処分はその後でも出来る。
 朝と夜の仕事の合間を縫っての作業だから1週間掛かってしまった。今日、始めてキーボードに向かっている。ブログに復帰しますので、またお訪ね下さい。

我が家は冷暖房不完備

2011年03月03日 | 暮らし
 先日の東京は真冬並みの気温で、冷たい雨の一日だった。でも、我が家は暖房をしなかった。鉄筋コンクリート造りだから木造よりは寒くはないが、北を除く東・南・西の三方を外気にさらされている角部屋だから、外気がもろに当たる。でもなぜか暖房を入れずに過ごしてしまった。床だってカーペットを敷いてある訳ではない。
 息子は 「歳取って、鈍感になってるんだ」 と言うが、あるいはそうかも知れない。しかし、仕事先などでは、暖房が無くては寒くてしょうがない。と言う事は、我が家だけの特殊事情なのか。きっと、我が家ではこうしたものなのだ、と思い込んでいるせいもあるのだろう。日常生活がそれで普通だから、それで良いのだと。
 私の仕事部屋は西向きで、午後になっても日差しは斜めからしか入らず、結構寒い。でも暖房は無い。去年まではパネルヒーターをそれもたまに使っていたが、古い大型の物だったので、処分してしまった。そして、後釜は無い。それでもそれで別に厚着などせずに過ごせている。
 もっとも、私は普段から 「冬でも薄着ですねえ」 と近所の人から呆れられてはいるけど、妻も冷暖房が苦手なので、夫唱婦随 (婦唱夫随) で上手く行っている。

 体質的な事もあるのだろうが、普段からの慣れが一番の要素なのではないか。そうだとすれば、エネルギーの無駄遣いは簡単に無くせる。我々はあまりにも贅沢に慣れ過ぎている。携帯による情報だってそうだ。ふんだんに情報が有り過ぎるから、どうしたってそれに頼ってしまう。だからちょっとでも情報が入って来なくては不安で仕方が無い。そこで歩きながらだって携帯を見ている。
 そんなに重要な情報なのだろうか。失礼ながら、私はほとんどがつまらない情報だと思っている。私は携帯で情報を見る事はしないが、パソコンのメールに入って来る情報を見ていればそんな事は簡単に分かる。そんなに一々情報に対処していたら忙しくてたまらない。

 「便利」と言う言葉に我々は多分、騙されている。本当は無くても済む物を有り難がっている。それで儲ける事が出来る人々の手にまんまとはまってしまっている。身の回りの物を一つ一つ、これは必要だろうか、と見直してみる事が必要だと思う。

低体温症と平熱

2011年01月07日 | 暮らし
 テレビで低体温症を特集していた。私も平熱が35・5度だったりするので、見た。しかしそれは低体温症ではないと言う。たとえ脇の下で計った体温が低くても、体の深部の体温はそれよりも2度ほど高いのだそうな。そしてその深部の体温が低い事は滅多に無いらしい。脇の下は体表面だから、どうしても体温は低くなる。番組は直腸で計ったが、それはやりにくい。我々が同じようにするには口の中で舌の下に入れて計るのが良いそうだ。
 脇の下にしても、簡単に計れるデジタル体温計でも10分はそのままにしないと正確な体温は計れないと言う。でも去年の暮、風邪気味でかかった医院では、看護士が3分ほどで、体温計を取りに来た。ブロでさえ知らないと言う事か。
 有料の放送だから、まさかいい加減な事は言うまい。と言うと無料の放送ではいい加減な事を言っている事になるが、実際、私はそう感じている。何しろ、CM料金が欲しくて番組を放送しているかの感がある。小林信彦さんが「テレビ局というのは何を考えているのか、とつくづく思う。地上波というのは、もう投げているのでしょうね」と書いていたが、BS放送には丸っきりCMじゃないか、と思えてしまうような番組もあるから、結局はテレビ局は全部投げているのかも知れない。
 おっと、低体温症の話だった。同じ日の新聞の本の広告に「健康体温36・5度の生活術」なる本が載っている。こうした本は以前からある。体温を1度上げるだけで、免疫力が増す、と言う本である。今回の本も同様らしく、平熱が下がって34~36度になると、シミ肌荒れ、手足の冷え、むくみ・肩こりなどの症状から、アトピー性皮膚炎、内臓系の病気、うつ・ガンなどの原因になる、とうたっている。

 さて、これらの本の平熱とはどのようにして計った熱なのか。そしてそれはその人の平熱と言えるのか。
 こうして考えてみると、我々は自分の体温一つ正確に計れていないらしいから、体温がどうの、平熱がどうの、と言ったって、どこまでこうした本を信じられるか、と言う問題がある。たとえ、自分の平熱が低いと思っていても、それで健康であればいいではないか、とも思う。健康か不健康かはどうして判断するのか、と言う問題もある。持って生まれた体質と言うのもあるだろうし。
 そう言えば、以前、世界保健機構の提唱している理想的血圧は低過ぎるのだ、とある医師が書いていた。それとは別に、血圧は何の理由もなく上がる訳ではない。高いにはそれだけの理由がある。例えば、血管が細くなっていて、血圧を上げなければ血液の循環が悪くなる、などの理由である。それを機械的に低くしてしまっては駄目だろうと思う。
 血圧は一日の内で変化が激しい。私など、上が180にもなるかと思えば、90くらいで、立ちくらみをしてしまう場合さえある。それで医師は今の所は様子を見ましょうと言って薬は出されていない。しかし尿酸値となると、基準をほんのわずか上回っただけで、薬が処方されてしまう。以前、右足のかかとの激しい痛みに二度襲われて、それで尿酸値を計る事になったのだが、一年以上医者にかからず、薬も飲んでいなかったけれど、何の症状も出ていない。でも這ってしか移動出来ない痛さは御免だから、今は薬を飲んでいる。
 尿酸値が高くても、痛みの原因である結晶が出来にくい体質もあるのではないか、と思う。まあ、自分の体なんだから、自分なりに色々と試行錯誤するしかないか、と思っている。

たわいもない事ですが

2010年12月07日 | 暮らし
 今年もみかんの皮の焼酎漬けをしています。
 みかんの皮を単に甲類の焼酎に漬けるだけの事。何の造作も無い。おいしく中身を食べた後、残った皮を小さく千切って焼酎に漬ける。もちろん、食べる前に皮ごときれいに洗って置く。漬けるのは四、五日から一週間くらい、好みで。そのままでも良いが、蜂蜜を加えるとおいしい。
 これはテレビで知った。寝る前にさかずき一杯飲めば、熟睡出来るとの触れ込みだった。やってみたら効いた。私はみかんを皮ごと食べるのも好きだが、中身の甘さと皮の渋さと言うか、えごさがミスマッチでもある。だから皮を別の用途に使えば丸ごと食べたのと同じになる道理でもある。
 以前は梅酒を毎年作っていた。でも梅酒はおいしく飲むのだが、どうしても漬けた梅が余ってしまう。それで、妻が、また漬けるの? とあまり良い顔をしないので、ここの所はやめている。でも毎年、青梅が出るシーズンになると、何となくそわそわしてしまう。その代わりと言っては何だが、みかん酒などはごくごく簡単で、大げさではないのが良い。先日は袋入りのレモンが余ったので、レモン酒にしている。これは丸ごと薄切りにしてそのまま漬ける。途中でちょっと味見をしたが、酸味が効いていて、なかなかいける。
 果物を生かすのだから、焼酎は梅酒に使う物と同じ程度の安い物で25度で十分。梅酒は35度でないと漬からないが。

 何でも漬けてみたら良い。あまり旨くないワインに出会った時には、ハーブを漬けるとワインが生き返ると言う。だから初めから安いワインを買って来て、ハーブなり何なりを漬けてみたら良い。テストだから少量やってみれば良いので、インスタントコーヒーの空き瓶などを取って置いて、それで実験したら良い。
 果実酒作りの本もあるが、たまたま買った果物で作るのだから、本に頼らない方が面白い。リンゴの皮なんかでも何とかなるかも知れない。
 酒ではないが、近所の八百屋で青森産のニンニクが1キロで格安で買えるので、それでニンニクのたまり漬けも作っている。薬味だけに使っていると芽が出てしまうので、一石二鳥。醤油に味醂を加え、顆粒のだしの素なども入れ、色々と試行錯誤をしている。漬かったニンニクもおいしいが、漬け汁も使える。

 昔、父親が甘酒を作ってやると言って、米と麹で仕込み、こたつの中に入れていたが、発酵し過ぎか、どぶろくになってしまい、失敗したのにもかかわらず、嬉しそうに飲んでいた。で、私は初めからどぶろくを作りたいと思っているが、それ用の麹が簡単には手に入らないのでまだ夢のままになっている。
 プランターでちょっとした野菜や果物を育てるのも良いが、やっぱり男としては酒造りだろうなあ、と思っている。