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夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

古代史をいい加減に扱う人々・最終回

2010年10月28日 | 歴史
 聖徳太子について考えた。彼が問題になっている最大の理由は、推古天皇の時に遣隋使が派遣されて、隋からは答礼の使者も来ていると言うのに、『隋書』にはそれが全く記録されていない事にある。
 推古天皇の15年(607)小野妹子を派遣し、鞍作福利を通訳とした。16年4月、隋の使者・裴世清と12人の部下が妹子に従って筑紫に到着した。天皇は難波吉士雄成を迎えに出した。6月15日、客人達は難波に船を着け、飾り船30艘で出迎えた。8月3日、客人達は飛鳥に入り、飾り馬75匹を遣わして迎えた。案内役は額田部連比羅夫、阿倍鳥臣と物部依網連抱の二人。
 以上は日本書紀の伝える内容である。
 一方、似たような内容を『隋書』は伝えているが、細部が明確に違う。
 推古天皇の15年、多利思比孤が朝貢。国書に曰く「日出づる処の天子(以下略)」。帝はこれを見て喜ばず、「蛮夷の書、無礼なる者有り、復以って聞するなかれ」と命じた。16年、隋の使者・文林郎裴世を遣わした。倭王は小徳阿輩台を遣わし、数百人を従えて儀杖を設け、鼓角を鳴らして迎えた。10日後、大礼可多?を遣わし、二百余騎を従えて迎えた。

 日本側から使者を送り、翌年隋から使者がやって来た事は年代は両書共に同じ。隋からの使者が裴世清であるのも同じである。しかし日本側の使者の名前がまるで違う。出迎えたのも、日本書紀では最初は飾り船30艘であり、2ヶ月後に75頭の飾り馬である。隋書では、最初は数百人、10日後に二百余騎となっている。

 ここでもまた、名前が違うのは、発音の一部を写したからだ、と学者は考えている。阿輩台は「おほしこうちのあたいぬかて」の音の一部か、と言い、可多?は「ぬかたべのひらふ」の「かたべ」の音を写したのだろう、と言う。先には、「たらしひひろぬか」が「たりしひ」になり、今度は「ぬかたべ」が「かたべ」になる。何とも出来も悪ければ耳も頭も悪い役人どもである。
 この二つの出来事を、異なる出来事であると考えれば何の問題も無い。しかし日本書紀は姑息な事をしている。遣隋使は「大唐」に派遣した事になっているのである。解説書は簡単に「大唐(隋)」として処理しているが、仮にも朝貢した相手国である。その名前を次の時代の国にするとはとんでもない事である。
 なぜこんな事をしたのかは明白である。日本書紀編纂当時、隋書は存在していた。それなのに、その中には自分達、大和朝廷の事はまるで書かれていない。あるのは、知らない(本当は知っているのだが、日本列島には大和朝廷しか存在しないのだ、との大義名分からはそうは言えない)人々の名前ばかりである。だからそれは一切無視した。しかし隋書を読む人間も居るだろう。そうなると困る。そこで隋書の記事は遣隋使であり、日本書紀の記事は遣唐使であるとして、ごまかしたのだろう。西暦を使っているのではないから、全く困らない。隋書だから、遣唐使の事が書かれていなくても当然である。

 上の日本書紀の記事で腑に落ちない点がまだある。隋からの使者が到着したのは筑紫で、それは4月の事。そして天皇は使者達を召し、難波に新しい館を造った、とある。まるで、着いたと同時に出迎えて飛鳥の都に召したかのように書いてある。しかし飛鳥と筑紫は船で20日ほどもかかるほど離れているのである。だからすぐ次には使者達は2ヶ月も後になって難波に船を着けた、と正直に書いているのである。
 こうした文章の流れを学者達は一向に気にしない。と言うか、気が付かないのか。あるいは気が付かない振りをしているだけなのか。気が付けば、このおかしさをまた別の説明で解決しなければならなくなる。もうこれ以上、どうやってつじつまを合わせたら良いのか分からないのである。
 これは実に簡単な事なのである。
 隋からの使者は筑紫に上陸した。筑紫に何の用も無ければ、上陸などせずにそのまま瀬戸内海に入り、難波に船を着ければ良いのである。日本書紀で、筑紫到着が単に「4月」で、難波到着が6月15日、飛鳥に入ったのが8月3日と日にちが事細かに書かれているのはそれが事実だからだろう。「4月」としか書けないのは、4月の何日かは分からないからだろう。なぜなら、それは大和朝廷には関わりの無い事だからである。
 隋の使者は筑紫の多利思比孤の国にやって来たのである。それが4月の何日かは分からない。だが、難波に着いたのが6月15日である。斉明天皇の一行は難波から松山まで8日間かかっている。そこから博多までも同じくらいの距離だから、20日はかからないだろう。仮に20日かかったとして、使者の筑紫出発は5月25日頃と考えられよう。4月の何日に着いたのかで違って来るが、どう考えても筑紫に一ヶ月は滞在していた計算になる。使者の一行は筑紫で何をしていたのか。彼等はあの無礼な国書を書いた王がどのような人物なのかを実際にその目で確かめるためにやって来たのである。そして王から大歓迎を受けている。
 それは当然である。多利思比孤は自分の書いた国書が煬帝の怒りを買った事を伝え聞いている。これは困った事になった、と思っている。だから渡りに船なのである。そして裴世清は多利思比孤と会って「朝命既に達せり」と伝えて来た。会見しただけで煬帝の命令が達せられたのである。彼は多利思比孤の実情をその目で見て、「日出づる処の天子云々」の文言が多利思比孤の尊大さ故ではない事を知ったのである。「朝命」とは言うまでもなく、「多利思比孤の朝貢を認める」である。
 この後で裴世清一行が飛鳥に向かったのは明白である。隋書には「朝命既に達せり、請う即ち塗(みち)を戒めよ」との彼の言葉がある。道中の警備をしてくれ、と頼んでいる。彼等はこれから未知の道を行くのである。
 そして隋書は最後に「此の後遂に絶つ」との不思議な文言で締めくくっている。多利思比孤の後継と思われる倭国の使者はその後も唐と交渉を持っている。それは『旧唐書』にも書かれている。多分、多利思比孤との通交は絶えたと言うのだろう。
 だから、多利思比孤を聖徳太子である、などと言わないほうが身のためなのだ。大和朝廷が「此の後遂に絶つ」ではないのは誰の目にも明らかなのだから。つまり、学者達はこの文言を無視している。これまた自分達に都合の良い部分のみ認めて、都合の悪い所は無視する例の態度で一貫している。
 
 多利思比孤を聖徳太子だとする事でこんなにもでたらめでいい加減な事が行われている。二人は違う別の人物なのだ、とすれば、すべてがまことに見事に解決するのである。そこには何の苦労も細工も要らない。隋書と日本書紀の記述に何の矛盾も無くなる。子供にも分かるような単純明快な事が、学者には分からない。なぜならば、正しい事が分かってしまえば、今までの古代史に関する解説本はすべて書き直さなくてはならなくなる。それどころか、学者としての命までもが危うくなる。そんな危険な事が出来る訳が無い。
 何億円もの不明金があって、誰もがそれは○○氏が手に入れた、と思っているのに、そしてその一部を贈ったと贈り主が白状しているにも拘らず、当の本人は相変わらず知らぬ存ぜぬで通しているのと全く同じ構図である。学問とは一つの権力でもあるのだ。何とかは噛み付いたら雷が鳴っても離さない、と言う。それと全く同じで、権力は一度手にしたら、絶対に離したくはない物なのである。

古代史をいい加減に扱う人々・その6

2010年10月27日 | 歴史
 前回、「ワカタケル大王」がいとも安易に「オオハツセワカタケ大王」に変身する技をご紹介した。名前と言う個人にとっては非常に重要な事柄が非常に安っぽく取り扱われている。古代の日本人にとって漢字は難しかったのは分かる。でもだからと言って、明らかな間違いが許される事にはならない。それほど日本人の程度が低かったはずがない。何しろ、複雑な発音を表す漢字を単純明快な日本語の発音に当てはめると言う素晴らしい事が出来たのである。更には漢字の意味を採った訓読みまで発明している。これこそ、世界に類の無い、素晴らしい発明である。それほどの事が出来たのである。
 「オオハツセワカタケ」を「ワカタケル」と表記したと信じている学者は古代人を馬鹿にし切っていると思う。「オキナガタラシヒヒロヌカ」を「タリシヒコ」と表記したと言うのも、人を馬鹿にした話である。それほどに古代人の能力が信じられないのだろうか。しかも後者は先進文化国である隋の役人のした事である。そうした学者達は他人を舐めて掛かっている。自分以外はみんな馬鹿だと思い込んでいるらしい。それで結局は、そうした自分が実は一番馬鹿だった、と言う事になるのである。その最も顕著な例が「倭の五王」である。

 『宋書』の「夷蛮伝・倭国」通称「宋書倭国伝」に5人の大王が登場する。讃・珍・濟・興・武である。宋書には「倭讃・珍・濟・興・武」と書かれている。「珍」以降は「倭」の名前が冠されていないが、「倭王の弟」とか「倭王の子」などと書かれているから、何も「倭珍」などと書く必要も無い。特に「倭讃」は皇帝の勅書に書かれている文言なのである。「倭讃」などは中国風の名乗りだから、多分、讃以外も、倭珍・倭濟などと名乗ったと思われる。と言うのは高句麗の大王も百済の大王もそうした「国名+宋風の一字名」を名乗ったからだ。日本よりも先進国である高句麗や百済がそうしている以上、日本もそうしなければならない。
 この讃・珍・濟・興・武を5人の天皇に当てるのが古代史の常識となっている。なぜなら、日本書紀の記述にはこれら5人の大王の名前は登場しないからだ。代わりに、同じ頃に存在した、履中・反正・允恭・安康・雄略の5人の天皇が居る。この5人の名前を宋は聞き間違いや書き間違いをして讃・珍・濟・興・武としたのだ、と言うのが日本史の常識となってしまっているからだ。
 その間違いは次のようになっている。諸説あるが、一番年代の近い天皇を挙げておく。
・讃=履中天皇。諱の去来穂別(イザホワケ)の「ザ」の音を写した。
・珍=反正天皇。諱の瑞歯別(ミヅハワケ)の「瑞」を「珍」に間違えた。
・濟=允恭天皇。諱の雄朝津間稚子宿禰(オアサツマワクコノスクネ)の「津」を「濟」と間違えた。
・興=安康天皇。諱の穴穂(アナホ)の「穂」を「興」と間違えた。
・武=雄略天皇。諱の大泊瀬幼武の「武」を採った。
 「讃」は名前の一部の発音を模した。「珍」は「瑞」の書き間違い。「濟」は「津」の書き間違い。「興」は「穂」の書き間違い。これは同じ発音での間違い。「武」は実名の一部を採った。
 この中でかろうじて理屈として通るのは「武」だけで、後はあまりにも人を馬鹿にした話である。名前の一部を写した、も、名前の一部を採った、も、どちらもあまりにも宋の役人を馬鹿にしている。

 その前に考えておくべき事がある。国書での署名をどのようにするか、である。当然に国書は漢文で書かれている。その漢文の中に、日本独自の固有名詞を入れる場合に、どうしたら良いだろうか。例えば、履中天皇ならば、「去来穂別」と書いたら良いのか。宋側では、これを当然に宋の漢字の発音で読む。それ以外に読みようが無い。しかし固有名詞で重要なのは発音である。絶対に表記の文字ではない。日本語の「去来穂別=イザホワケ」は漢字の訓読み、つまりは漢字の意味を採っている。そしてそれは日本語での意味である。だからそれは宋側には伝わらない。「去」と「い」には何の関係も無い。「ザ」の音を写したとされる「来」を史官はどのようにして読めたと言うのか。「去来」が「イザ」になるのではないのか。
 だから、日本としては「去来穂別」なら、「イザホワケ」と宋側で読める漢字表記にする必要がある。それが「去来穂別」ではない事は誰にだって分かるはずである。つまり、倭の五王達は「去来穂別」のような署名はしなかったはずである。どのような署名になるのかは分からないが、一つ分かる事がある。
 それは5人の大王自らが一字名を名乗った、である。百済の王は「余映」と名乗った。「余」は高句麗の一族であり、百済の祖である「扶余」の事であり、その「余」の「映」なのである、との名乗りである。それが宋に対する儀礼でもあった。

 大体、倭の王が、日本語でしか読めないような漢字表記を署名としてした、と言うのがおかしい。第二には、宋の役人がひどい聞き間違いや書き間違いをする、と言うのがおかしい。彼等は専門職の役人である。そんないい加減な事で務まるとでも思うのか。本当にどこまで他人を馬鹿にすれば気が済むのか。
 そればかりではない。五王イコール5人の天皇、とする事の一番大きな欠陥が年代が完全に違う事である。
 5人の天皇の在位期間は分かっている。履中天皇は400年に即位。雄略天皇は479年までである。
 讃の朝貢の記録は425年である。では讃とされている履中天皇の在位はいつまでだったか。それは405年なのである。425年に在位していたのは、履中天皇の次の次の允恭天皇なのである。それだけで、讃=履中天皇、の論理は崩れる。当然ながら、それ以前の仁徳天皇説が成り立つはずも無い。
 五王の中で最も確実とされている雄略天皇を見てみよう。学者は年代から見ても雄略天皇に間違いはない、と言っている。雄略天皇の在位は456~479年である。一方、武王はいつから在位しているかは分からないが、478年にあの有名な上表文を書いている。その点では武イコール雄略は成立する。しかしながら、別の中国側の史書では、武王が479年よりも後に爵位を与えられているとの記述がある。
 そこで前の興を見る。興は462年に宋から爵位を得ている。しかしながら、興とされている安康天皇の在位は456年までなのである。462年は明確に雄略天皇の治世になっている。

 つまり、宋書か日本書紀か、そのどちらかが間違っているとしか言えない。五王イコール5人の天皇説を成り立たせるためには、年代としては日本書紀が正しくて、宋書が間違っているとするしか無い。そしてそれは通りそうではある。何しろ、重要な大王の名前を簡単に間違えるほどの歴史書なのである。
 しかし、そんな事を言うのなら、そもそも、倭の五王なる者の存在その物が疑われてしかるべきである。しかし学者は宋書を疑ったりはしない。単に書き間違えがある、と言うだけである。そう、武王のあの上表文は十分に雄略天皇の偉大さを認めるのに使えるのである。
 明らかな年代の矛盾を無視してまでも、武王を雄略天皇に仕立て上げたいのか。ある著名な学者は「年代は大体合っているのである」と、いとも無責任な発言をしている。一体、どこがどのように合っていると言うのか。多分、この学者は簡単な算数がお出来にならないのだろう。
 自分はこんなに馬鹿なんですよ、と堂々と発言している事をなんで学者は分からないのだろうか。馬鹿だから分からないのだ、で済ませる事ではない。これは笑い話ではないのだ。

古代史をいい加減に扱う人々・その5

2010年10月26日 | 歴史
 埼玉県の稲荷山古墳から115字もの金象嵌をした鉄剣が出土した。その中に「獲加多支鹵大王」と読める部分がある。これを「ワカタケル」と読み、即ち雄略天皇であると言うのが大方の考え方である。雄略天皇の名前は大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)である。
 つまり、「ワカタケル」と「ワカタケ」が同じだ、との考えである。誰が考えたってこれが同一人物だとは思えない。それが常識である。しかしその常識が通じないのが古代史の世界なのである。

 上に「獲加多支鹵」と書いたが、この「鹵」は象嵌の文字では四角囲みの中が違う文字になっている。本来は「必」なのだが、それが「九」になっている。しかしそのような文字は無い。そこで、「必」の上の三つの点を省いて、それが「九」になったのだと考えるのだと言う。「鹵」は「ロ」である。だから「ワカタケロ」にはなるが(それも、「九」が「必」の省略だとの無理をして)、「ワカタケル」にはならない。
 そこでどうするかと言うと、奇妙な論理が展開するのである。
 「ロ」は「ル」としばしば交替すると言うのである。「盧遮那仏」の「盧」は「ロ」だが、「るしゃなぶつ」と読んでいる。だから「鹵(ロ)」も「ル」と読めると言う。これは屁理屈である。しかも挙がっている例はこれだけだ。もっとほかに様々に「ロ」が「ル」と読める例を出さなくては単なる屁理屈で終わる。
 「支」にしても「これはふつう、キと読む」と言って、「ケ」にしてしまう。その理由も同じ。古事記では出雲建(いずもたける)を「伊豆毛多祁流」と書いて「タケル」と読んでいるから「祁=ケ」であるが、日本書紀では「祁」を「キ」と読んでいるから、「キ」は「ケ」とも読める。従って「支=キ」も「ケ」と読める。
 全く馬鹿馬鹿しい理屈である。これを大の大人が、しかも一流とされている学者が言うのである。更には次のように言う。

  ただ「支」を「ケ」と読む例証はないのですから、あるいは本来は「ワカタキル」というように発音していて、それがのちに「ワカタケル」と発音されるようになったのかも知れません。

 ならば、雄略天皇は古くは「ワカタキル」だったのかと言うと、そうはならない。「ワカタキル」はこの鉄剣の場合だけなのである。これまた非常に勝手である。
 これがなぜ「ワカタケル」になったのかと言うと、熊本県の江田船山古墳から出土した銀象嵌の大刀の銘文に「治天下??□□□歯大王」と読める部分があるからなのだ。「??」は「蝮」と同じで、虫へんが獣へんになっているが、「タヂヒ」と読む。そこで欠けている三文字を「宮彌都」とすれば「丹比宮に天の下しろしめしし瑞歯の天皇」、即ち反正天皇になるとの理屈がある。
 でも、雄略天皇とは結び付かない。そうまだ先があるのだ。
 この銘文の「歯」はどう見ても「歯」ではない。けれども「歯」にしないと反正天皇にならない。別に反正天皇にしなければならない理由は何も無いのだが、何としてでも大和政権の力が地方にも及んでいたとの証拠にしたいのである。そしてこの船山古墳の場合もこれは「鹵」の中が「九」になった文字なのである。しかし今まではそれでは話にならないから、無理をして「歯」にしていただけの話なのである。
 ところが、「ワカタケル」と読める銘文が出て来たと言うので、それっとばかりに「歯」を打ち捨てて、「ワカタケル」に乗り換えたのである。この船山古墳の場合の欠けた三文字を「宮彌都」にはしないで、「カタケ」とすれば、稲荷山古墳と同じく「ワカタケル大王」になると言うのである。
 つまり、「ワカタケル大王」と読める銘文が日本の東西から出て来た。これは単なる一地方の王ではない。これは絶対に雄略天皇だ、と言う事になる。もちろん、そうしたいからそうなるだけの話である。

 金や銀で象嵌した銘文がいい加減に作られる訳が無い。大王の名前は正確でなければならない。雄略天皇の名前は明確に「オオハツセワカタケ」である。その「オオハツセ」を省き、更には「ワカタケ」を「ワカタケル」と今までに誰もが考えもしなかった名前に勝手に変えてしまう。そんな事が当時許されただろうか。
 鉄剣は何のために古墳に入れられていたのか。副葬品として、そこに葬られた人間の経歴を語り、栄誉を讃えるためである。その銘文が不正確であって良い訳が無い。
 そうした常識が無い。多分、この学者は自分の墓碑銘が間違って刻まれても文句は言わないのだろう。心の実に広いお方である。しかしそれは学問には通用しない。
 船山古墳の被葬者が、稲荷山古墳の被葬者が、雄略天皇ではなくても一向に構わないではないか。それぞれにその地方の大王だったと、認めれば、それで良い事である。そうした素直な取り組み方をすれば、そこからまた別の新たな発見があるかも知れないではないか。雄略天皇が、ひいては大和朝廷が全国を制覇していたのだ、との証拠にするよりも、もっと有益な事実が発見出来るかも知れないのである。

 すべて、既存の自分達の知っている事で解決しようと安易に考えている。だから自分達の手に負えない事実はすべて無視するか、別の既存の事に強引に結び付ける。こんな事が「学問」であって良いのだろうか。「学文」「額問」なら構わないだろうが。前者は「学問を一文二文と言うゼニカネにする」の意味、後者は「金額を問題にする」の意味である。すべてが自分の立身出世のためではないのか。学界には先達の知識を守り育てて行くと言う奥床しい礼儀があるのだそうな。だから先達の考えを否定などしたら、立身出世はあり得ない。あれっ? どこかで聞いたような話だ。そう、検察の世界がそうらしい。裁判官の世界もそうらしい。例えば、上級審の下した判決に楯突けば、絶対に昇進は無いのだと言う。検察なら、被疑者を犯人に仕立て上げなかった正当なる検察官は転々と地方回りをやらされて一生うだつが上がらないのだと聞く。
 古代史なら生命には別状は無いからと、勝手気ままにされたのでは、我々は迷惑する。歴史は我々の共有の財産なのである。

 

古代史をいい加減に扱う人々・その4

2010年10月23日 | 歴史
 隋書の多利思比孤を聖徳太子だと言い張る事から発生している次の難題は何だい? などと駄洒落を言っている場合ではない。明確に倭王は男性であると認められているのに、当時の日本の王は女性の推古天皇なのである。推古天皇の存在を否定する学者は今の所、一人も居ない。居るとすれば、ある研究者が推古は天皇ではなく、実際の天皇は聖徳太子だった、と考えれば、話はすっきりと分かり易くなる、と言っているくらいの所である。もちろん、分かり易くなどは絶対にならない。むしろ、分かりにくく、難しくなるだけの話である。それがこの研究者には分からない。だからいい加減な事を言う。何しろ、この研究者は日本書紀も満足に読めないのである。
 大和朝廷の使者が隋に向かった事実がある。それをこの研究者は次のように書いている。

  『書紀』には推古22年5月条に犬上君御田鍬等が隋に使いしたとあり(以下略)

 しかし日本書紀には次のようにある。

  22年の夏5月の5日に、薬猟をもよおした。6月の13日に、犬上君御田鍬と谷田部造とを大唐に遣わした。

 こんな明確な文章を読み間違える。先の「分かり易くなる」は、正確には次の文章になっている。

  タリシヒコは太子その人であり、推古朝においては彼は大王であった。それを『書紀』が改竄隠蔽した。そう明快に結論づけた方が推古朝の解明はしやすいのである。

 解明がしやすくなくて結構。難しく複雑に入り組んでいるからこそ面白いのである。それをくだらない理由でいい加減に結論付けられては大いに迷惑である。非常に単純な性格である事がとてもよく分かる。
 推古が天皇であれば、天皇に会っている隋の使者がそれが女性であるのが分からないはずが無い。だから推古が天皇であっては困るのだ。そこから、女性であるのを隠すために、使者を天皇とは会わせなかった、と言う学者も居れば、その時だけ聖徳太子が天皇といつわって会見したのだ、と言う学者も居る。隋の臣下である日本が、隋の使者を天皇と会わせなかった。そんな不敬な事が出来ると考えている。日本の使者でさえ、皇帝に謁見している。隋書には、文帝が所司に倭国の風俗を尋ねさせた、とある。使者が答えると、文帝はそれを批判した、とある。

  上、所司をして其の風俗を訪わしむ。使者言う。「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。(以下略)」と。高祖曰く「此れ大いに義理無し」と。是に於いて訓えて之を改めしむ。

 日本の使者は皇帝とは別の部屋に居て、皇帝は部下に使者に風俗を尋ねさせた。使者の答を部下は皇帝に伝え、皇帝はその風俗を改めさせた。上記の文章をこのように読むのは不自然である。「所司をして訪わしむ」と言うのは、そこには中国語と日本語の通訳が必要だからだろう。その続きが「使者言う」「皇祖曰く」であるのは、そうした流れの中にあるのだから、極めて自然なのである。
 そうした文書の流れが学者は読めないらしい。大和朝廷には天皇が外国の使者と直接会う事は無いのだ、と初心者向けの日本の歴史書に書かれている。たとえ日本書紀がそのような情景を書いていたとしても、それは日本書紀の大義名分である。そんな事が分からない。日本書紀はあくまでも正しく、隋書は聞き間違えや書き間違えがたくさんある、と考えている。当時、日本は中国側から文化を学んでいたのである。
 自分の無知を棚に上げて、隋書を無視している研究者は日本書紀にある蘇我馬子と推古天皇が交わした歌一つさえ満足に理解が出来ない。
 天皇は馬子に次のような蘇我氏を褒め讃える歌を贈った。

  真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀 諾(うべ)しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき

 この最後の「大君の使はすらしき」は「大君が使うであろう」の意味だから、歌う推古が自身を大君というのは、まずありえない、とこの研究者は言う。そして、次のように言う。

  返歌は推古の歌には違いないが、この歌から推古が倭国王ではなく皇后であったのが推測される。このようなところに推古朝の実体がちらちらと見え隠れするのである。

 ここには馬子の歌が引用されていないから、読者はこの著者の言う事をそのまま受け入れてしまうだろう。しかし馬子の歌をきちんと理解出来れば、そんな考えにはならない。
 馬子は次のように歌を詠んだ。

  我が大君のお入りになる御殿、出で立たれる御殿を見ますと、千代、万代までこのようであって欲しい。かしこみおろがみつつお仕え致しましょう。謹んで喜びの歌を奉ります。

 馬子は「幾久しくお仕えしたい」と言っている。それに応えて天皇は「大君が蘇我の人々をお使いになるのはまことにもっともな事である」と詠んだのである。馬子と推古の話ではない。蘇我氏と天皇家の話なのである。これまでの蘇我氏の忠勤を認め、これからもそうであって欲しい、と言っている。
 そうした歌の理解が出来ないで、言葉尻を掴んで、それもまた粗雑に掴んで、推古は天皇ではない、と言う。これは「聖徳太子の正体」と言う超一流の出版社から出ている本に書かれている。

 聖徳太子が天皇であったのではないか、との考えはあるが、それでも推古天皇の在位を否定してはいない。それはある著名な歴史学者が書いているのだが、古代、伊勢神宮に仕える斎王が存在した。未婚の皇女で、精進潔斎して天皇に代わって祭事を行う。
 史上三人目となる斎王は酢香手姫王女。彼女は用明天皇・崇峻天皇の時の斎王で、37年間務めて「自退」したと日本書紀に書かれている。用明天皇の即位は585年。それから37年目は621年。これは推古天皇の29年に当たる。推古天皇は628年まで在位していたから、斎王が自退してから7年間天皇だった事が分かる。
 それなのに、斎王はなぜ天皇の代の途中で引退したのか。
 それをこの学者は621年は聖徳太子の死の年である事から解明している。つまり、斎王は女性の天皇の時には存在していなかったのではないか。それが証明されれば、推古天皇の即位とされる592年は実は聖徳太子の即位の年であり、推古天皇の即位は実際は「聖徳天皇」が亡くなった621年なのではないか、と言うのである。聖徳太子が摂政になったと言うのは、天皇になったと言う事なのではないのか。
 女性の天皇の時には斎王は居なかった、と言うのは、卑弥呼に見るように、女性の天皇は古来、呪術に長けていた。つまり、神事が出来る。だから神事を司る代理を立てる必要は無い。
 ただし、その証明は完全には行われていない(ように見える)。と言うのは、同氏は次のように書いているからだ。

  推古天皇の次の舒明天皇は男帝でありますが、そのあとの皇極・斉明天皇、この女帝のときも、ただ一人も伊勢に行った斎の王女はおりません。それからその次に天智・天武と男帝が続いたあと、女帝の持統天皇のときになると、これも一人の斎の王女も派遣されておりません。そのあとの文武天皇のときは四人も斎の王女が遣わされています。ところがその次の女帝、元明天皇のときはまた斎の王女は派遣されていない。これだけ事実がそろえば(以下略)。

 天武天皇の時の斎王が大伯(おおく)王女である事は分かっている。彼女は持統天皇になって、伊勢から戻って来た。弟が持統天皇に謀反の疑いを掛けられて殺された大津皇子である。その時の二人の哀傷極まる歌が万葉集にある。ただ、上の文章では、舒明天皇の時、天智・天武天皇の時、斎王は誰だったのかは書かれていないので、その時に確かに斎王は派遣されていた、との証明にはなっていない。
 更にはなぜか、追究は元明天皇で終わってしまっている。元明天皇の次は同じく女帝の元正天皇である。元正天皇の時の事も、次の聖武天皇の時の事も、その次の女帝の孝謙天皇、男帝である淳仁天皇を挟んで、孝謙天皇が重祚した称徳天皇の時の事も書かれていない。これでは「これだけ事実がそろえば」などとは言えない。
 それをするには読者が代々の天皇の斎王は誰だったのかを自分自身で調べなければならなくなる。そんな事が簡単に出来るはずが無い。きちんと文章を読めば、こうした疑問が出るに決まっている。だから、そうした疑問に応えようとしないのは、事実はそうではないからではないのか、とあらぬ疑いを掛ける事にもなる。

 天皇が用明天皇・崇峻天皇・聖徳天皇・推古天皇・舒明天皇、と続いたとするなら、そこからまた新たな展開が見られるだろう。これに即して日本書紀を読み直してみる手はある。ただし、だからと言って、多利思比孤は聖徳太子だ、と言う事にはならない。
 この話はもっと続いて、隋書の記事と日本書紀の記事が矛盾無く両立する明快な結論があるのだが、それは「古代史をいい加減に扱う人々」のテーマとはずれるので、次はまた別の事を取り上げたい。

古代史をいい加減に扱う人々・その3

2010年10月22日 | 歴史
 きのう、日本歴史人物辞典の聖徳太子の説明の事を書いた。信じがたいとも書いた。『隋書』に登場する倭王が聖徳太子であり、その妻が菟道貝蛸(うじかいだこ)女王であり、太子が田村王子(のちの舒明天皇)と解される、との説明を引いた。その部分の『隋書』の文章は次のようになっている。

 倭王あり、姓は阿毎、字(あざな)は多利思比孤、阿輩?彌と号す。王の妻は?彌と号す。太子を名づけて利歌彌多弗利と為す。

 上記人名辞典の田村王子の「田村」には「たふり(る)」の振り仮名が付いている。馬鹿を言ってはいけない。「田村」がどうすれば「たふり」とか「たふる」と読めるのか。同辞典は「田村王子」では項目を立てていないが、舒明天皇の項では「諱(いみな)は田村皇子」となっているが、そこに「たふり」の振り仮名は無い。
 田村皇子は押坂彦人大兄皇子と糠手姫皇女の子で、聖徳太子の子ではないが、太子、つまりは皇太子だろうから、それでも構わない。
 「田村」に「たふり」の振り仮名付けているのは、『隋書』の利歌彌多弗利を舒明天皇にしたいからである。何と言う姑息で汚い手を使うのか。そんなにしてまで、多利思比孤を聖徳太子に仕立て上げたいのか。

 全く別の本では、『隋書』の「姓は阿毎、字は多利思比孤」を、天皇の名前を姓と名に分けるような非常識な事をしているとこき下ろしている。もちろん、大和朝廷の天皇に姓は無い。だからこれは大和朝廷の天皇の事ではないのだ、と考えるのが常識ある人間の考え方である。しかしその学者も大和朝廷以外の王を認めたくはないから、常識を疑われるような事を平然として言うのである。
 そして、これは日本側の使者が、天皇の身分について、天から下られた尊いお方である、と説明した事を隋側がこのように記述したのだろうと、次のように言う。

 阿毎多利思比孤は「天垂らし(足りし)彦」の意味であろうから、それは倭王の個人名というよりは、天孫降臨神話の原型のようなものを背景にして大王の地位を尊んで呼称したと見なすのが妥当ではないだろうか。
 アメとかタラシというのは、六、七世紀の大王の諡号(おくり名)の一部にふくまれることがある語彙だった。だから、このときの遣隋使がある大王の諡号の一部を文帝らの前で披露し、中国側はそれを倭王の実名と誤解したという可能性もある。

 と言うのだが、六、七世紀の大王とは継体天皇から文武天皇までで、その中でアメとかタラシを諡号の一部にしているのは、
 欽明天皇の「あめくにおしはるきひろにわ」
 舒明天皇の「おきながたらしひひろぬか」
 皇極天皇の「あめとよたからいかしひたらし」
 孝徳天皇の「あめよろずとよひ」
 天智天皇の「あめみことひらかすわけ」
 天武天皇の「あまのぬなはらおきのまひと」
 持統天皇の「おおやまとねこあめのひろひめ」
と8人居るが、上記の遣隋使が知っているのは欽明天皇の諡号だけに過ぎない。舒明天皇以下7人の天皇はまだ存在していないのである。存在していない天皇だからもちろん死後の贈り名もまた存在するはずが無い。
 何と言うむちゃくちゃな論理を展開しているのか。この本の帯には「いま、古代史が面白い!」とある。面白いのはこの著者の方である。
 舒明天皇より前の大王でタラシを諡号の一部にしているのは孝安天皇(やまとたらしひこくにおしひと)、景行天皇(おおたらしひこおしろわけ)、成務天皇(わかたらしひこ)、仲哀天皇(たらしなかつひこ)の4人居るが、これは武烈天皇で断絶する前の王朝の大王である。まだ日本書紀などは出来ていなかったから、様々な歴史書が存在しただろうが、断絶した、継体天皇とはかなり系統の離れた王朝の大王の諡号をこの遣隋使がそらんじていて、文帝の前で披露したとはとても思えない。
 それに、この諡号と諱(実名)は混同されていて、学者によって、諡号だ、と言ったり、諱だ、と言ったりと、様々である。そして諡号は後世になってから付けられたのも多々あると言う。だから、この学者の考えは学者生命を駄目にしかねないほど「面白い」のである。

古代史をいい加減に扱う人々・その2

2010年10月21日 | 歴史
 『隋書』に登場する「多利思北孤」は一般的には「多利思比孤」とされているが、それが聖徳太子ではないと言う事の続きである。
 まずは両者の名前が徹底的に違う。多利思比孤は普通には「たりしひこ」と読んでいるし、それ以外に読み方は無さそうにも思える。この名前を国書での署名と考えるか、それとも日本の役人が発音した、その聞き書きだと考えるか。学者は舒明天皇の名前である「息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)」の聞き書きだと考えている。だから「たらしひ」が「たりしひ」になったのだ、と言う。それもまったく中途半端な筋の通らない聞き間違えで、隋の役人はそれほど耳が悪かった訳だ。
 聞き間違えが発生する理由は、隋側がこの署名は何と読むのかと聞き、日本側がそれに答えた事になる。つまりそこには「多利思比孤」とは書かれていなかった事になる。なぜなら、そう書かれていれば、隋はそれを読む事が出来るのだから。当時の隋の発音ではどうなるかは私は知らないが、『漢字語源辞典』(藤堂明保)によれば、索引では全部は引けなかったが、「ターリーシェピクォ」のような読み方は出来る。そして隋側はそれで用が足りたのである。唐では小野妹子が遣唐使として唐に渡っているが、彼の名前は「妹子(イモコ)」ではなく、「因高(インカォ)」となっている。もちろん、これが聞き書きだからだろう。しかし唐はそれが「妹子」と表記する事を知らないはずが無い。でも「妹子」では彼等は「イモコ」に近い発音が出来ない。言うまでもなく、名前で重要なのは、その表記ではなく、発音である。
 読み方を聞いたと言う事は、それが隋では読めなかったからに相違ない。つまり、それは字音では書かれておらず、訓読みの漢字が使われていた証拠になる。それが上記の「息長足日広額」なのである。しかし朝貢しよう、隋の支配下に入ろうと覚悟している大王が、隋が読めないような表記をするだろうか。何しろ、文書は漢文なのである。そこに訓読み、つまりは日本語を混ぜると言う事がどんなに非常識な事か。隋の言葉に翻訳出来ない固有名詞は字音語にするのが当時の常識ではないのか。
 だから舒明天皇なら「意支那宜多羅之比非里奴加」などになる。これを果たして隋は何と読むのか、と聞いただろうか。言うまでもなく、万葉仮名は中国側の字音を取り入れている。そっくりな発音にはならないが、よく似た発音にはなる。隋が「多利思北孤」と表記したと言うからには、そうした事を認める必要がある。

 更におかしな事がある。
 「息長足日広額」は舒明天皇の贈り名、つまりは死後の名前である。推古天皇の時に舒明天皇が居るはずも無いし、その死後の名前など、とんでもない事である。
 「息長足日広額」の名前が出て来たと言うのは、この話、つまりは聖徳太子の国書と言われている物に関する話が後に聞き取り調査が行われた時の話だ、と言う事になってしまう。何しろ、国書の署名が分からないのである。と言う事は、国書その物もその時には無くなっていた。
 ところが、その国書には倭国に関する様々な情報が書かれている。そして問題になっているのが、「日出づる処の天子云々」の文言なのである。それを無礼だと怒った煬帝の事もきちんと書かれている。これはとうてい国書が無くなっていたとは考えられない。何しろ、中には「阿蘇山」の事さえ書かれているのである。
 そうしたすべてが分かっているのに、唯一、署名だけが分からなくなっていた。そんな事が考えられるはずも無いのだが、舒明天皇の名前が出て来るからには、そうとしか考えられない。 
 贈り名を使ったからには、この国書に関する記事は舒明天皇の死後に書かれた。しかもその時に問題の国書の原本は既に無かった。舒明天皇は遣唐使を派遣しているから、中国側では様々な情報を手に入れる事が出来る。ただ、どうやっても問題の国書が書かれた時にはまだ舒明天皇は存在していなかったおかしさは消えない。つまり、後日調査をした歴史官はそんな事にも気が付かなかった。そんないい加減な事があるだろうか。
 そうした重要でしかも基本的な事をまるで考えずに日本の学者達は、多利思比孤は聖徳太子だ、と言ってはばからない。『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社)は聖徳太子について次のように説明している。

 多利思比孤は厩戸王子、妻は菟道貝蛸(うじかいだこ)女王、太子は田村王子(のちの舒明天皇)と解される。

 上記の説明については次回にするが、いずれにしても、いとも安易に多利思比孤イコール聖徳太子だと考えている。こうした安易さを見ると、この事典も全面的には信用する事が出来なくなる。
 多利思比孤が未解決のままでは古代史の考え方が進まない、との理由もあるだろう。しかし古代にはまだまだ分からない事が山積みになっている。多利思比孤はそのわずかな一例に過ぎない。それを考え方を進めるのだとして、強引に決着を付けようとする。
 では、その決着で古代史の疑問は解決しているのか。学者は解決していると思ったとしても、我々の目の前には、どうしたら多利思比孤が聖徳太子になるのかの、最も基本的で重大な謎が解かれずにそのまま放置されているのである。更には、ここから聖徳太子は隋にも引けを取らぬ大きな考え方を持っていた、との独断と偏見が生まれてもいるのである。
 「嘘から出たまこと」のことわざがあるが、この古代史の嘘からは絶対に真実は生まれない。