聖徳太子について考えた。彼が問題になっている最大の理由は、推古天皇の時に遣隋使が派遣されて、隋からは答礼の使者も来ていると言うのに、『隋書』にはそれが全く記録されていない事にある。
推古天皇の15年(607)小野妹子を派遣し、鞍作福利を通訳とした。16年4月、隋の使者・裴世清と12人の部下が妹子に従って筑紫に到着した。天皇は難波吉士雄成を迎えに出した。6月15日、客人達は難波に船を着け、飾り船30艘で出迎えた。8月3日、客人達は飛鳥に入り、飾り馬75匹を遣わして迎えた。案内役は額田部連比羅夫、阿倍鳥臣と物部依網連抱の二人。
以上は日本書紀の伝える内容である。
一方、似たような内容を『隋書』は伝えているが、細部が明確に違う。
推古天皇の15年、多利思比孤が朝貢。国書に曰く「日出づる処の天子(以下略)」。帝はこれを見て喜ばず、「蛮夷の書、無礼なる者有り、復以って聞するなかれ」と命じた。16年、隋の使者・文林郎裴世を遣わした。倭王は小徳阿輩台を遣わし、数百人を従えて儀杖を設け、鼓角を鳴らして迎えた。10日後、大礼可多?を遣わし、二百余騎を従えて迎えた。
日本側から使者を送り、翌年隋から使者がやって来た事は年代は両書共に同じ。隋からの使者が裴世清であるのも同じである。しかし日本側の使者の名前がまるで違う。出迎えたのも、日本書紀では最初は飾り船30艘であり、2ヶ月後に75頭の飾り馬である。隋書では、最初は数百人、10日後に二百余騎となっている。
ここでもまた、名前が違うのは、発音の一部を写したからだ、と学者は考えている。阿輩台は「おほしこうちのあたいぬかて」の音の一部か、と言い、可多?は「ぬかたべのひらふ」の「かたべ」の音を写したのだろう、と言う。先には、「たらしひひろぬか」が「たりしひ」になり、今度は「ぬかたべ」が「かたべ」になる。何とも出来も悪ければ耳も頭も悪い役人どもである。
この二つの出来事を、異なる出来事であると考えれば何の問題も無い。しかし日本書紀は姑息な事をしている。遣隋使は「大唐」に派遣した事になっているのである。解説書は簡単に「大唐(隋)」として処理しているが、仮にも朝貢した相手国である。その名前を次の時代の国にするとはとんでもない事である。
なぜこんな事をしたのかは明白である。日本書紀編纂当時、隋書は存在していた。それなのに、その中には自分達、大和朝廷の事はまるで書かれていない。あるのは、知らない(本当は知っているのだが、日本列島には大和朝廷しか存在しないのだ、との大義名分からはそうは言えない)人々の名前ばかりである。だからそれは一切無視した。しかし隋書を読む人間も居るだろう。そうなると困る。そこで隋書の記事は遣隋使であり、日本書紀の記事は遣唐使であるとして、ごまかしたのだろう。西暦を使っているのではないから、全く困らない。隋書だから、遣唐使の事が書かれていなくても当然である。
上の日本書紀の記事で腑に落ちない点がまだある。隋からの使者が到着したのは筑紫で、それは4月の事。そして天皇は使者達を召し、難波に新しい館を造った、とある。まるで、着いたと同時に出迎えて飛鳥の都に召したかのように書いてある。しかし飛鳥と筑紫は船で20日ほどもかかるほど離れているのである。だからすぐ次には使者達は2ヶ月も後になって難波に船を着けた、と正直に書いているのである。
こうした文章の流れを学者達は一向に気にしない。と言うか、気が付かないのか。あるいは気が付かない振りをしているだけなのか。気が付けば、このおかしさをまた別の説明で解決しなければならなくなる。もうこれ以上、どうやってつじつまを合わせたら良いのか分からないのである。
これは実に簡単な事なのである。
隋からの使者は筑紫に上陸した。筑紫に何の用も無ければ、上陸などせずにそのまま瀬戸内海に入り、難波に船を着ければ良いのである。日本書紀で、筑紫到着が単に「4月」で、難波到着が6月15日、飛鳥に入ったのが8月3日と日にちが事細かに書かれているのはそれが事実だからだろう。「4月」としか書けないのは、4月の何日かは分からないからだろう。なぜなら、それは大和朝廷には関わりの無い事だからである。
隋の使者は筑紫の多利思比孤の国にやって来たのである。それが4月の何日かは分からない。だが、難波に着いたのが6月15日である。斉明天皇の一行は難波から松山まで8日間かかっている。そこから博多までも同じくらいの距離だから、20日はかからないだろう。仮に20日かかったとして、使者の筑紫出発は5月25日頃と考えられよう。4月の何日に着いたのかで違って来るが、どう考えても筑紫に一ヶ月は滞在していた計算になる。使者の一行は筑紫で何をしていたのか。彼等はあの無礼な国書を書いた王がどのような人物なのかを実際にその目で確かめるためにやって来たのである。そして王から大歓迎を受けている。
それは当然である。多利思比孤は自分の書いた国書が煬帝の怒りを買った事を伝え聞いている。これは困った事になった、と思っている。だから渡りに船なのである。そして裴世清は多利思比孤と会って「朝命既に達せり」と伝えて来た。会見しただけで煬帝の命令が達せられたのである。彼は多利思比孤の実情をその目で見て、「日出づる処の天子云々」の文言が多利思比孤の尊大さ故ではない事を知ったのである。「朝命」とは言うまでもなく、「多利思比孤の朝貢を認める」である。
この後で裴世清一行が飛鳥に向かったのは明白である。隋書には「朝命既に達せり、請う即ち塗(みち)を戒めよ」との彼の言葉がある。道中の警備をしてくれ、と頼んでいる。彼等はこれから未知の道を行くのである。
そして隋書は最後に「此の後遂に絶つ」との不思議な文言で締めくくっている。多利思比孤の後継と思われる倭国の使者はその後も唐と交渉を持っている。それは『旧唐書』にも書かれている。多分、多利思比孤との通交は絶えたと言うのだろう。
だから、多利思比孤を聖徳太子である、などと言わないほうが身のためなのだ。大和朝廷が「此の後遂に絶つ」ではないのは誰の目にも明らかなのだから。つまり、学者達はこの文言を無視している。これまた自分達に都合の良い部分のみ認めて、都合の悪い所は無視する例の態度で一貫している。
多利思比孤を聖徳太子だとする事でこんなにもでたらめでいい加減な事が行われている。二人は違う別の人物なのだ、とすれば、すべてがまことに見事に解決するのである。そこには何の苦労も細工も要らない。隋書と日本書紀の記述に何の矛盾も無くなる。子供にも分かるような単純明快な事が、学者には分からない。なぜならば、正しい事が分かってしまえば、今までの古代史に関する解説本はすべて書き直さなくてはならなくなる。それどころか、学者としての命までもが危うくなる。そんな危険な事が出来る訳が無い。
何億円もの不明金があって、誰もがそれは○○氏が手に入れた、と思っているのに、そしてその一部を贈ったと贈り主が白状しているにも拘らず、当の本人は相変わらず知らぬ存ぜぬで通しているのと全く同じ構図である。学問とは一つの権力でもあるのだ。何とかは噛み付いたら雷が鳴っても離さない、と言う。それと全く同じで、権力は一度手にしたら、絶対に離したくはない物なのである。
推古天皇の15年(607)小野妹子を派遣し、鞍作福利を通訳とした。16年4月、隋の使者・裴世清と12人の部下が妹子に従って筑紫に到着した。天皇は難波吉士雄成を迎えに出した。6月15日、客人達は難波に船を着け、飾り船30艘で出迎えた。8月3日、客人達は飛鳥に入り、飾り馬75匹を遣わして迎えた。案内役は額田部連比羅夫、阿倍鳥臣と物部依網連抱の二人。
以上は日本書紀の伝える内容である。
一方、似たような内容を『隋書』は伝えているが、細部が明確に違う。
推古天皇の15年、多利思比孤が朝貢。国書に曰く「日出づる処の天子(以下略)」。帝はこれを見て喜ばず、「蛮夷の書、無礼なる者有り、復以って聞するなかれ」と命じた。16年、隋の使者・文林郎裴世を遣わした。倭王は小徳阿輩台を遣わし、数百人を従えて儀杖を設け、鼓角を鳴らして迎えた。10日後、大礼可多?を遣わし、二百余騎を従えて迎えた。
日本側から使者を送り、翌年隋から使者がやって来た事は年代は両書共に同じ。隋からの使者が裴世清であるのも同じである。しかし日本側の使者の名前がまるで違う。出迎えたのも、日本書紀では最初は飾り船30艘であり、2ヶ月後に75頭の飾り馬である。隋書では、最初は数百人、10日後に二百余騎となっている。
ここでもまた、名前が違うのは、発音の一部を写したからだ、と学者は考えている。阿輩台は「おほしこうちのあたいぬかて」の音の一部か、と言い、可多?は「ぬかたべのひらふ」の「かたべ」の音を写したのだろう、と言う。先には、「たらしひひろぬか」が「たりしひ」になり、今度は「ぬかたべ」が「かたべ」になる。何とも出来も悪ければ耳も頭も悪い役人どもである。
この二つの出来事を、異なる出来事であると考えれば何の問題も無い。しかし日本書紀は姑息な事をしている。遣隋使は「大唐」に派遣した事になっているのである。解説書は簡単に「大唐(隋)」として処理しているが、仮にも朝貢した相手国である。その名前を次の時代の国にするとはとんでもない事である。
なぜこんな事をしたのかは明白である。日本書紀編纂当時、隋書は存在していた。それなのに、その中には自分達、大和朝廷の事はまるで書かれていない。あるのは、知らない(本当は知っているのだが、日本列島には大和朝廷しか存在しないのだ、との大義名分からはそうは言えない)人々の名前ばかりである。だからそれは一切無視した。しかし隋書を読む人間も居るだろう。そうなると困る。そこで隋書の記事は遣隋使であり、日本書紀の記事は遣唐使であるとして、ごまかしたのだろう。西暦を使っているのではないから、全く困らない。隋書だから、遣唐使の事が書かれていなくても当然である。
上の日本書紀の記事で腑に落ちない点がまだある。隋からの使者が到着したのは筑紫で、それは4月の事。そして天皇は使者達を召し、難波に新しい館を造った、とある。まるで、着いたと同時に出迎えて飛鳥の都に召したかのように書いてある。しかし飛鳥と筑紫は船で20日ほどもかかるほど離れているのである。だからすぐ次には使者達は2ヶ月も後になって難波に船を着けた、と正直に書いているのである。
こうした文章の流れを学者達は一向に気にしない。と言うか、気が付かないのか。あるいは気が付かない振りをしているだけなのか。気が付けば、このおかしさをまた別の説明で解決しなければならなくなる。もうこれ以上、どうやってつじつまを合わせたら良いのか分からないのである。
これは実に簡単な事なのである。
隋からの使者は筑紫に上陸した。筑紫に何の用も無ければ、上陸などせずにそのまま瀬戸内海に入り、難波に船を着ければ良いのである。日本書紀で、筑紫到着が単に「4月」で、難波到着が6月15日、飛鳥に入ったのが8月3日と日にちが事細かに書かれているのはそれが事実だからだろう。「4月」としか書けないのは、4月の何日かは分からないからだろう。なぜなら、それは大和朝廷には関わりの無い事だからである。
隋の使者は筑紫の多利思比孤の国にやって来たのである。それが4月の何日かは分からない。だが、難波に着いたのが6月15日である。斉明天皇の一行は難波から松山まで8日間かかっている。そこから博多までも同じくらいの距離だから、20日はかからないだろう。仮に20日かかったとして、使者の筑紫出発は5月25日頃と考えられよう。4月の何日に着いたのかで違って来るが、どう考えても筑紫に一ヶ月は滞在していた計算になる。使者の一行は筑紫で何をしていたのか。彼等はあの無礼な国書を書いた王がどのような人物なのかを実際にその目で確かめるためにやって来たのである。そして王から大歓迎を受けている。
それは当然である。多利思比孤は自分の書いた国書が煬帝の怒りを買った事を伝え聞いている。これは困った事になった、と思っている。だから渡りに船なのである。そして裴世清は多利思比孤と会って「朝命既に達せり」と伝えて来た。会見しただけで煬帝の命令が達せられたのである。彼は多利思比孤の実情をその目で見て、「日出づる処の天子云々」の文言が多利思比孤の尊大さ故ではない事を知ったのである。「朝命」とは言うまでもなく、「多利思比孤の朝貢を認める」である。
この後で裴世清一行が飛鳥に向かったのは明白である。隋書には「朝命既に達せり、請う即ち塗(みち)を戒めよ」との彼の言葉がある。道中の警備をしてくれ、と頼んでいる。彼等はこれから未知の道を行くのである。
そして隋書は最後に「此の後遂に絶つ」との不思議な文言で締めくくっている。多利思比孤の後継と思われる倭国の使者はその後も唐と交渉を持っている。それは『旧唐書』にも書かれている。多分、多利思比孤との通交は絶えたと言うのだろう。
だから、多利思比孤を聖徳太子である、などと言わないほうが身のためなのだ。大和朝廷が「此の後遂に絶つ」ではないのは誰の目にも明らかなのだから。つまり、学者達はこの文言を無視している。これまた自分達に都合の良い部分のみ認めて、都合の悪い所は無視する例の態度で一貫している。
多利思比孤を聖徳太子だとする事でこんなにもでたらめでいい加減な事が行われている。二人は違う別の人物なのだ、とすれば、すべてがまことに見事に解決するのである。そこには何の苦労も細工も要らない。隋書と日本書紀の記述に何の矛盾も無くなる。子供にも分かるような単純明快な事が、学者には分からない。なぜならば、正しい事が分かってしまえば、今までの古代史に関する解説本はすべて書き直さなくてはならなくなる。それどころか、学者としての命までもが危うくなる。そんな危険な事が出来る訳が無い。
何億円もの不明金があって、誰もがそれは○○氏が手に入れた、と思っているのに、そしてその一部を贈ったと贈り主が白状しているにも拘らず、当の本人は相変わらず知らぬ存ぜぬで通しているのと全く同じ構図である。学問とは一つの権力でもあるのだ。何とかは噛み付いたら雷が鳴っても離さない、と言う。それと全く同じで、権力は一度手にしたら、絶対に離したくはない物なのである。