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夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

暦の二十四節気とは何か

2011年01月29日 | 文化
 東京新聞の言葉についての校閲部記者のコラムに面白い事が書いてある。
 まず、陰暦の一月と太陽暦の一月は俳句ではきちんと区別している事を述べている。
 そして、陰暦の正月は立春の前後に当たり、これを旧正月として祝い、そのころに年賀状が届いたら 「迎春・初春」 が実感しやすいだろう、の述べている。
 そしてすぐ続いて、次のように述べる。

 現在は地球温暖化やヒートアイランド現象などの影響もあり、二十四節気の季節区分を感じることが難しくなっています。そんな中で立春、小寒、大寒はぴったりという気がします。

 ここで話が分かりにくくなる。
 と言うのは、季節区分を感じる事が難しくなっているのは、二十四節気は陰暦で、現在の暦は太陽暦だからのはずなのである。ほんの一例を挙げれば、立夏は5月6日頃、立秋は8月8日頃、立冬は11月7日頃で、それぞれ、夏や秋、冬の実感は無い。特にまだもの凄い暑さの中で、 「立秋」 だと言われても、ピント外れである。
 しかしながら、暦が太陽暦ではなく、陰暦だとすると話は違って来る。二つの暦のずれは一ヶ月ではないが、仮に陰暦が太陽暦から約一ヶ月遅れているとしよう。すると、現在の2月は陰暦の1月になる。順に遅れるから、立夏は6月10日前後に、立秋は9月10日前後に、立冬は12月10日前後になる。これなら、今よりはずっと季節感に合う。大寒は2月20日前後になり、1月や2月は寒さのさなかであまり季節感に違いは無いから、十分に通用する。
 つまり、これは単に月の名前の呼び方がずれているだけの話である。執筆者の言う 「地球温暖化やヒートアイランド現象などの影響もあり」 ではない。それにそうであるなら、大寒などはなぜ季節感がぴったりと来るのか。今頃が初春でぴったりなのは、冬至を一ヶ月以上も過ぎて、日増しに日差しが伸びて、明るさも増して来るからだ。

 何でこんなとんちんかんな事を校閲部の記者たる者が言っているのか。多分、「 何月」 と言う呼び名に騙されるのだろう。立秋は8月10日前後なのではなく、陰暦では9月10日前後なのだ。
 二十四節気の中で、季節感ではなく、太陽と地球との関係で決まって来るのが、春分と秋分、夏至と冬至だ。これはずれる事が無い。だから昔は一年の始まりは冬至だった。立春は冬至から数えて何日目、と決まっているから、後に立春が季節感からも一年の始まりとされたのである。なお、陰暦は月の満ち欠けで計算するから、年によって日にちはずれる。
 季節を表していた二十四節気を季節とはずれている太陽暦に合わせているから、季節感が一致しないのは当然の事である。季節感では分かりにくくても、七夕を考えればすぐに分かる。七夕が梅雨のさなかの7月7日ではまことに具合が悪い。旧暦なら8月初旬になるから、空は晴れて、絶好の七夕になる。

 先に 「何月」 の呼び名に騙されると言った。本当にこれは難しい。私自身、これを書いていて、何度も混乱している。一番分かり易い例を挙げる。今日は1月29日だが、あと5日も過ぎれば立春である。その1日前が今年は旧1月1日になる。この日から 「睦月」 が始まるのである。
 これから順に季節を数えて行けば、春分は如月に、立夏は卯月に、大暑は水無月になる。この水無月を現在の6月と考えてしまうが、本当は現在の7月で、梅雨が明けて、かんかん照りになる。まさに 「水無月」 である。だからその下旬は当然に 「大暑」 であっておかしくはない。

 1月=睦月、12月=師走だから、いくら立春が正月だと言っても、睦月や師走の呼び方が現在の1月と12月の呼び方になっているのだから、その間の月の呼び方を変える訳には行かない。だから6月は梅雨で水がたっぷりとあるのにも拘らず、「水無月」 などと変な名前になってしまう。
 5月は 「旧暦の皐月 (さつき) 」、6月は 「旧暦の水無月」 などと言うからおかしくなる。 「旧暦」 と言うからには、それは現在よりも一ヶ月前後遅れている事をきちんとわきまえて言う必要があるはずだ。確かに 「皐月 」は正月から数えて5番目の月なのだが、立春が本来の正月との考えで行けば、季節からは、 「如月=正月」 になる。そうやって行くと、本当の季節で言うならば、5月は 「旧暦の5番目の月で呼び名は皐月」 となるのが正しい。だから 「さつき晴れ 」とは、本来は梅雨のさなかの晴れ間の事なのである。そして 「五月の晴天」 は本来は「ごがつ晴れ」と言う。
 繰り返しになるが、 旧暦の5月」 は、正月を1番目とするから5番目なのであって、その 「正月=一番目の月」 とは、自然の季節感から言えば 「=如月」 なのである。
 どうもよく分からないのだが、自然を表している陰暦の呼び方が、一部、単に順番とか 「全国の神様が出雲に集まって全国的には留守になるから、神無月と呼ぶ」 とか 「法師が読経に忙しく走り回るから師走と呼ぶ」 などと言う、自然とは離れた呼び方が入っているから、どうしても自然の季節とは合わなくなるらしい。
 「正月=1月」 とは暦の順番の事なのであって、季節の暦とは違う、と言う考え方をしない限り、陰暦と太陽暦のずれは分かりにくい。しつこいようだが、 「睦月・如月・弥生」 などと呼ぶ旧暦の月の名称は、自然の暦で考えれば、と言うか、天体の運行上からは、現在我々が 「2月・3月・4月」 と呼んでいる月になる。
 月の名前を数字で呼ぶから分かりにくいと言う事情もあると思う。欧米では月の名前と数とは関係が無い。特に9月を Septembre などと呼ぶ方式は、「sept=7」 であるからには数字の観念があるとはとても思えない。日本では7番目の月は 「陰暦の文月」 であって、それは本来順番とは関係が無かったはずである。単に睦月から数えれば7番目になると言うだけの事であって、それを我々は現在、 「文月=7月」 としてしまうから、話が複雑でややこしくなるのである。

 先に挙げたコラムの文章は、季節感を語っている限りにおいては正しい。けれども暦と季節感のずれを 「地球温暖化」 や 「ヒートアイランド現象」 などのせいにしてしまっている。少なくとも、陰暦と太陽暦とのずれである、との明確な発言は無い。その事に私は大きな不信感を持っている。 



NHKのハイビジョン番組「日本の庭園」が心地良かった

2010年12月21日 | 文化
 最初にお詫びを。と言うのは今日のこのブログは19日の日曜日に発信したつもりだった。この所ちょっと忙しい思いをしているので、一日置きになっても仕方が無いか、と考えていた。で、昨日の月曜日も発信を休んでしまった。だから三日間も穴が開いてしまった。私ごときがブログに訪れて下さる方に申し訳無いと、心からお詫びを申し上げます。

 「ベスト・オブ・ベスト」と称する番組の一部を見た。ゆったりと流れる画面。静止画かと思えてしまうような止まった画面。静かで落ち着いて何の気取りも無い中村吉右衛門の語り。それらが見事に一つの宇宙を作り出している。
 まるで自分で京都の有名な庭園を散策しているような気分である。カメラ目線は原則として歩行者の高さと速度になっている。ただ、見たい所にあまりカメラがとどまっていないとの欠点(自分勝手とは思うが)はあるが、その代わり、普段は見られない所が見られる。そちらの方がずっと有益だ。時々、民放のCMで中断のような、思わせぶりなシーンの展開もあるが、CMのように延々と待たされる事は無いから、「待たされて納得」と言う事になる。
 画面と語りのほかには何も邪魔をする物が無い。ところが、ほんの時々なのだが、音楽が流れる。そしてそれはよく知られている音楽だったりする。例えばモーツァルトだったり、ラベルのボレロだったり、ゴセックのガボットだったりする。これは非常に困る。それぞれの音楽に我々は何かしらの記憶や思いを持っている。そしてそれはほとんどがこうした美しい日本庭園とはまるで関係が無いのである。
 たとえ、音楽に繋がる記憶や思いが無くても、音楽その物が一つの世界である。何事かを雄弁に語ろうとしている。だからそれが抽象的な現代音楽だって同じ事になる。そうではないか。現代音楽が何かを語ろうとしていないのなら、武満徹はあんなにも世界的な作曲家にはなっていなかったはずである。

 画面と語りで完成している世界にこの上、一体何を付け加えようと言うのか。画面に語らせれば良いではないか。画面だけでは、つまり、実際に庭園を鑑賞している人には分からない事を、語りが淡々と言葉少なに教えてくれている。それだけで十分である。現実的には鳥のさえずりが聞こえたりしているのだが、まさかそれを音楽が取って代わろうと言うのではあるまい。
 庭園を造った人の思いを我々は静かに読み取ろうとしている。そこに音楽を作った人の思いをかぶせてどうなると言うのか。BGMと言う名の下に、いい加減な事がされていると思う。

常用漢字の改定が実施される

2010年12月02日 | 文化
 開店休業状態の本職の仕事が半年ぶりにちょっと入って来たのは嬉しいけれど、アルバイトに時間を取られているから、ほかの様々な事を犠牲にしなければならない。ブログもその一つ。
 発表されていた常用漢字の改定が、30日に正式に内閣告示された。今まで使えないのが不思議だった漢字の一部が使えるようになった。もちろん、私的に使うには何の躊躇も要らなかったが。「禁固」が「禁錮」に、「棄損」が「毀損」に戻った。
 と書こうとしたのだが、使っている日本語変換方式では「棄損」がなぜか出て来ない。何度変換しても駄目。「木村・来村・き村」などなど、馬鹿馬鹿しい候補ばかり出て来る。使っているのはマック御推奨の「ことえり」である。常々その馬鹿さ加減に嫌気が差しているのだが、ATOKにしていると、突然落ちてしまう現象が何度もあって、仕方なく、泣く泣く「ことえり」を使っている。アップルは今、大変な人気だが、こうした基本を疎かにしてはいないだろうか。端末の一部がパソコンから乗り換えると大方の人々は踏んでいるが、そんな事で基本をおろそかにされては困る。
 この常用漢字の改定だが、「障碍者」は国によって見送られた。今まで通り「障害者」と書かなくてはならない。これは国民からの要望だった。「碍」は「礙」の俗字で、「さまたげる。とめる。へだてる。ふせぐ」の意味がある。「障」は「さしさわる」。「碍」はこの場合には「さまたげる」の意味で使われていると思うが、そこにマイナスのイメージは無い。しかし「害」には明確にマイナスのイメージがある。だから「障害者」ではなく、「障碍者」と書きたい、との気持は十分によく分かる。

 ところが、文科省へ答申をした文化審議会では「使用頻度も造語力も低い」との理由で見送られたのだと言う。馬鹿を言うんじゃない。確かに造語力は低いだろう。しかし使用頻度は決して低くなどない。頻度から言えば、「禁錮」や「毀損」「覚醒剤」などと同等で、必要度はそれらよりもずっと高いではないか。
 朝日新聞が伝える所によれば、「障害者」を支持するのが4割。理由は差別や偏見を取り除く事が先決、である。理由としては正しい。すべの差別用語がそうである。しかしほかの差別用語はそんな事を考えずに、あれも駄目、これも駄目、と使うのを制限されているではないか。そうした意識を撤廃する事の方が先だろう。
 「障碍者」を支持するのはやはり4割で、表記の変更で国民の意識が改善される、などが主な理由だと言う。
 これまた一理ある。「障碍者」の「碍」の漢字に我々は意味を感じる事が難しい。それだけに「害」のイメージとは雲泥の差がある。
 これは言ってみれば車の両輪である。表記を変え、しかも差別や偏見を取り除く事が大切なのだ。差別や偏見を取り除く、とは正論だが、無い物ねだりの感がある。これはお題目だけ唱えていたって実行出来ない。それに、ではどうやって、差別や偏見を取り除くと言うのか。具体的な案がまるで見えない。だからこそ、その具体的な対策の一つとして表記を変える事が重要になるのだ。

 みなさん、表記をかなりいい加減に考えている。例えば、「事」と「こと」の書き分けは、意味が無いか薄い場合には「こと」だと言う。この「言う」にしても、やはり意味が無いか薄い場合には「いう」だと言う。確かに意味が無いとか薄い場合はある。単に口調が良いだけで使っている場合が多い。しかし、明確に意味が濃い場合もある。「こと」とか「いう」で、曖昧にぼかすとの意味で使う場合である。これは驚くほど多い。曖昧にぼかすのは、書いている本人がその「こと」や「いう」の意味が分からないからである。嘘ではない。私はこの事をずっと追究し続けているから、よく分かっているつもりである。

 「障碍」については、推進会議と言う物があって、その結論次第では文化審議会で再検討する事になっていると言うのだが、何とも頼り無い、と言うか、いい加減と言うか。先の4割、4割の支持の話はこの推進会議が一般の意見を募った結果である。これと有識者からのヒアリングをもとに、(このヒアリングと言う言葉も嫌な言葉だ)当面は「障害」を用い、障害のある当事者が望む表記に配慮しながら、さらに見直しに勤める事にした、と言う。「有識者」なんて私は信用していないから、どこまで文化審議会が真剣に考えているかははなはだ疑わしい。
 我々の大切な財産である漢字を、文科省とか文化審議会などに任せて置いてはいけないのである。我々自身がきちんと考え、対処して行かなければならない問題なのである。

古代史をいい加減に扱う人々・その1

2010年10月20日 | 文化
 日曜日の午後、たまたまテレビを見たら、「千思万考」と言うタイトルの歴史番組が始まった。テーマは聖徳太子で、解説者は黒鉄ヒロシ氏。普段テレビで見る発言も含めてどちらかと言えば好きな漫画家だから見た。
 相変わらず二人の息子を左右に従えたあの肖像画が飾られていて、あれは現在では違う人物だとの説が一般的になっているらしい。でも、お札になって親しまれている肖像だから良しとしよう。
 そして決定的にいけないのが、あの「日出づる処の天子、日没する処の天子に書を致す」の国書を聖徳太子の書いた物だと断言している事である。覇権国家である隋を対等に見ている感覚だ、と今や「歴史の常識」になってしまっている事と全く同じ発言をしている。しかも「隋書と日本書紀の両者の記述を付き合わせて考えると真実が分かる」と言うような事を言っている。
 言っている事は正しい。しかしながら、その隋書にはあの国書を書いた人物の名前は「多利思北孤」だと明確に書かれている。それはどのように考えても聖徳太子にはなり得ない。それはどの歴史学者も認めている。だから、天皇の一般的な名乗りを紹介したのだとか、次の天皇である舒明天皇の名前と間違えたのだ、などとそれこそ吹き出してしまうような論理を展開している。
 中国大陸のそれらの歴史書は言わば、その国の正統性を物語る書物であって、国の威信をかけて書かれている。たとえそれが外国の事だとしても、そこにそんないい加減な記述のあるはずが無い。現在の日本でも通用しないようなお粗末極まる役人が歴史書を作る部署に居たなんて、誰が信じるものか。

 つまり、黒鉄氏も多くのいい加減な学者と同じく、隋書の自分達にとって都合の良い所は取り入れて、都合の悪い部分は無視するのである。そんな勝手な精神で、両国の歴史書を調べ合わせる事が出来る訳が無い。
 黒鉄氏に是非ともお聞きしたい。本当にあなたは「多利思北孤」は聖徳太子に間違いないと思っているのですか。その理由をきちんと、子供にでも納得の行く説明が出来ますか。十七条の憲法の説明をしていますが、日本書紀にあるあの全文をきちんとご自分で読んで、更には原文である漢文の文章も参照して、内容を理解していますか。
 古典の漢文の現代語訳には訳者の勝手な解釈が存在している事が少なくない。ほんの一例を挙げるなら、天武天皇の病が重くなったとの記事が日本書紀にある。私の見ている日本書紀の現代語訳では「病あつくなられ」となっている。そして「我が身は病におかされている。願わくは、仏法の威によって健康な身になりたいと思う」と天皇の言葉が続く。
 その原文は、「病あつく」は「体不安」である。「病におかされて」は「身不和」である。「健康な身」は「安和」である。これは5月の事で、9月に天皇は亡くなる。だから「病あつく」は決して単純に病気になった、ではない。病は重いのである。だが、「不安」で重体に近い情況を想像出来るだろうか。
 古くからの読み下しが「不安」が「あつしれ」で、「病が篤い」の意味である。なぜ「不安」が「病が篤い」になるのかが分からない。言うまでもなく、日本書紀は漢文で書かれている。その本来の形を、それでは分かりにくいからと読み下しにする。その時点で、「予断」が入り込んでいる恐れは十分にある。私は「不安=あつしれ(病が篤い)」は十分に予断だと思っている。
 そうした事を何ら考慮する事無く、「身不安=病篤く」が成立している所に大きな「不安」を感じてしまう。

 謎の多い古代史に関して軽々に発言するのは慎むべきだと思う。しかも文書に残されている記述を何の理由も無く切り捨てて、全く別の事柄にすりかえてしまう。そのすりかえの根拠は全くの想像に過ぎないのである。それははっきりと言えば「詐欺」である。
 学者達が平然と詐欺の片棒を担ぐから、教科書もその線上にあるし、ひいては黒鉄氏のような人までもがその被害にいとも簡単に遭ってしまう。学者の非を言い立てた所で何の進展もあり得ない。非が非ではないと固く信じられているのだから。従って、善良なる人々は怪しげな「史実」には安直には近付かないのが賢明なのである。もっとも、何が「怪しげな」のかが分からなくされているのだが。
 少なくとも、無料のテレビ番組で、と言う事は多くの人々に開放されているとの意味であるが、そこで無責任な事を公言するのは許されない。あ、「公言」ではなく、「放言」か。

江戸城の天守閣復元の話がある

2010年10月16日 | 文化
 「江戸城再建を目指す会」と言う名前の民間団体が運動を広げていると言う。現在の建物で言えば18階建てに相当する。今までの普通の高層マンションなら14階とか15階建てで、その高さは目にして分かっているから、江戸城天守閣のその高さの凄さもよく分かる。
 東京都心は超高層ビルが多くなってしまったが、皇居と言う緑地の中に建つ訳だから、多分、埋没しない偉容になるだろう。東京タワーとか現在建設中のスカイツリーと違って、歴史的建造物が東京の象徴として存在するのは嬉しい事だ。
 ただ、現在、巨大な木造建築物を建てるのは法律上難しいそうで、史実に忠実に復元すると共に防災や構造上の安全性を確保する事が条件になると言う。でも、だからこそ意義があるのだと思う。鉄筋コンクリートで天守閣を作ったって、単なる飾り物に過ぎない。
 江戸城の天守閣が完成したのは1607年。家康が江戸に幕府を開いた4年後である。それが1657年の明暦の大火で、わずか50年で焼失してしまった。江戸城も焼失したが、2年後には再興された。しかし天守閣は再建されなかった。
 天守閣は城のシンボルであり、城は権力の象徴でもある。江戸のどこからでも眺められた権力の象徴が再建されなかったのは、権力機構が整って、シンボルは最早不要だったのかも知れない。
 天守閣再建の話を取り上げた日経のコラムは、次のように締めくくっている。

 木造建築は日本の伝統的な技のひとつ。江戸城の再建はその復権の象徴になると思うのだが、どうだろう。

 そんな自信の無いような言い方をしないで頂きたい。立派に木造建築の復権の象徴になる。いや、ならなければいけない。なるようにする必要がある。コンクリートの超高層で東京を埋め尽くしてはならない。この間出来たとばかり思っていたビルが、いとも簡単に壊されて、新しいビルが建つ。そんな事の繰り返しを一体、いつまで続けるつもりなのか。まだ十分に使える物を壊して新しく作るのだから、相当な無駄である。それが無駄にはならないらしい。そこからまた新たに金儲けが出来る仕組みになっているらしい。でも、そのカネは一体どこから生まれると言うのか。
 東京は変わらなければいけない。今までのような拡大政策は、その内に行き詰まる。だって中身が伴わないのだから。何とかは新しい革袋に、と言うことわざがあったと思うが、駄目な物を新しい入れ物に入れたって、どうにもならない。横浜の赤煉瓦の倉庫群がよみがえったように、東京も中身をこそ吟味すべき時代なのだと思う。木造建築の復権、私は大賛成である。

BS4チャンネルの月曜日夜10時からの「日本の歌」は素晴らしい

2010年09月28日 | 文化
 男女12人ほどのグループが美しい歌声で日本の数々の抒情歌を歌い上げる。本格的な発声と正確な音程。下手な演出が無いから、歌その物の良さが堪能出来る。歌詞の日本語の美しさ、メロディーの自然な流れ。それらが際立つ。
 10時ジャストに番組は始まり、どんどん歌が流れる。普通はCMで始まったり、番組が始まってすぐにCMになるが、そんな不細工な事はしない。滔々とメインの番組が流れる。CMも少ない。そのCMもまた品が良い。非破壊検査株式会社一社がスポンサーで、CMは金子みすずの詩をテーマにしている。
 ぎゃーぎゃーわーわーわめいたり、品の無いCMが圧倒的に多い中で、極めて異質とも言える。番組とCMが一体となって、日本語の美しさがひしひしと伝わって来る。
 これでCMが無かったら、誰もが多分NHKの番組と勘違いするだろう。と言っても、一昔前の真面目なNHKの番組の事だが。やたらと視聴者に迎合する最近のNHKの番組よりもずっと正真正銘のNHKらしく思える。
 唱歌、童謡、そして流行歌までを対象にしているが、こうなると、歌には垣根が無い事がよく分かる。聞き慣れた歌が新鮮によみがえる。変に小節をまわしたりはしないから、メロディーが素直にすっと心に入って来る。
 私ら夫婦はこの番組を一週間中で一番心待ちにしている。「一番」と言って、二番以下が無い。私の個人的な感想だが、格が違うのである。こんな何でもないごくごく普通の番組が「格が違う」と思ってしまう。そこに現在のテレビ界の限界が見えている、と私は思う。

たかがキーボード,されどキーボード

2010年08月21日 | 文化
 私がブログの事をよく知らない事が分かった、と書いた。コメントを下さった方の名前をクリックするとその方のサイトに行けるなんて知らなかった。恥ずかしい。
 そしてそのサイトを拝読した。うーん、私にはとても難しい。親指シフトキーボードに関しては、私は富士通がOASYS100と言う、今から考えるととんでもないような高額の製品を売り出した時からの愛用者だから、年季が入っているのは確かである。ワーブロで3台、NECのパソコンで1台、マックで3台、ウインドウズで1台、全部で8台の親指シフトキーボードを使って来ている。それはすっかり私の指に成りきって,いや、頭に成りきってしまっているから、今更ローマ字入力は出来ない。
 で、そうした人々が決して少なくはない事を知って嬉しいのだが、彼等の頭の良さには本当にただただ感服するのみ。文筆業を生業にしているのに、技術面にも優れているとは、なんて素晴らしい能力の持ち主だろう、と羨ましくなる。私は単にキーボードのキータッチに熟達しているだけに過ぎない。理論も知識も無い。関連するブログをすべて保存してあるから、暇を見付けて挑戦したいと思っている。ただ、片仮名用語が難解で……。

 本心を言えば、キーボードなんか理屈は要らないのである。鉛筆の持ち方を初めは教わるが、一度覚えてしまえば、あとはどうと言う事は無い。HBがBになればどうの、とか、赤鉛筆はこうして使う、なんて話がある訳が無い。しかしキーボードの世界ではそうした馬鹿げた事が実在している。
 なんで無心になってキータッチだけに専念させてくれないのだろうか。ローマ字入力に慣れ切った人は、何も考えずにそのまますらすらと打てると言う。だが、私は疑っている。本人はすらすらだと思っているだろうが、脳の中では、日本語をローマ字に変換する作業をしているのではないかと。
 なぜなら、我々は日常的にはすべて漢字仮名混じりで考えている。人によって漢字が少ない人と多い人が居るくらいの違いでしかない。平仮名を打って漢字に変換するのが不自然と言えば言えるが,それだって、普段、最初から頭の中に漢字だけが出て来るとは限らないのだ。確かに易しい漢字であれば、例えば「小さい」などは「ちいさい」と考えて次に「小さい」になるのではなく、最初から「小さい」で考えている。しかし少し難しい漢字になれば、そうは行かない。「ついきゅう」なんて、平仮名で考えてから、ではこの場合はどの漢字にしたら良いのだろうか、と考えるのである。
 そうではあっても、広い意味ではすべて平仮名で考えていると言っても間違いとは言えない。決してローマ字で考えているのではない。

 そうした事を誰もが考えようとはしていない。既成の事から抜け出るのはそんなにも大変な事なのだろうか。そうではない。単に商売にはならないからやらないだけの話である。でも常用漢字を増やすなんて言う事は、商売とは関係なくやられている。だから国の仕事としてやられている。
 キーボードの事だって同じなのだ。商売抜きでしかるべき機関が考えるべき事なのである。それは絶対に日本語文化に貢献するはずである。貢献しないと思っているのは、単にローマ字入力から抜け出せない、惰性の文化で満足しているからである。
 話は違うが、私は今となっては時代遅れの速記に再び挑戦している。昔、高校生の時に通信教育を受けた。専門家になるだけの技術は習得していないが、日常的に速く書く必要がある場合にとても重宝している。本当に瞬時に書けるのである。あれっ、これはどんな文字だったか、なんて絶対に思わない。指が即座に動くのである。頭の中の考えはどんどん進んで、と言う事は、ちょっと前の事はすぐに忘れてしまう事にもなる。だから出来るだけ速やかに文字にしなければならない。それが速記なら出来る。もちろん、親指シフトキーボドでも出来る。
 これは慣れの問題ではない。もちろん、慣れは必要だが、最も大事なのは文化の問題だ、と言う点にある。

マックでの親指シフトキーボードについて

2010年08月14日 | 文化
 私が09年3月8日に書いた「親指シフトキーボード始末記」と題するブログに、先崎さんと言う方がコメントを下さった(8月12日)。
 マック専用の親指シフトキーボードは現在は製造されていない。古いのを使い続けるしか無い。だが、ウインドウズの世界なら富士通製の親指シフトキーボードが健在である。それをマックでしかも最新のOS10.6で使う方法があると言う。「上記サイトに詳細があります」と書かれているのだが、それが見当たらない。富士通のそれらしきサイトを見ても、それらしき物が無い。
 私は現在マック用の親指シフトキーボードを2台持っていて、その内の1台しか使っていないから、多分、これだけで足りるだろうとは思っているが、万一と言う事もある。
 なお、2台ある内で、古い方が格段にキータッチが良い。と言うのは、新しい方はリュウドと言う会社が開発したキーボードなのだが、古い方はデジタルウェーブと言う会社が開発したのをそのままリュウドが名前だけ変えて踏襲しているからだ。キータッチはキーボードの命である。
 と、余計な事を書いたが、先崎さん、もしもこのブログをご覧になっていたら、どうか「上記サイト」について教えて下さい。

 でも何度も言うけれど、本当にキーボードの事って誰も真剣に考えてなどいないのである。秋葉原のある店では40台か50台のキーボードを並べているが、すべて「たていすかんなに」と「QWER」のキーボードである。パソコンに詳しい人に話しても、えっ? 何? その親指何とかって、と言う答しか返って来ない。本当に情けない話だと思う。
 パソコンにしても、ウインドウズが90何パーセントかの占有率を占めている。言わば寡占情況にある。そんな事でより良い文化が発展出来るだろうか。
 私は幸いに、マックとウインドウズの両方の環境を使う事が出来ている。と言ってもウインドウズを使う事はあまり無いのだが、二つのパソコン文化に接する事が出来ている。二つ知っているからこそ、両方のメリットとデメリットがよく分かるのである。キーボードにしても同じ事が言える。ローマ字入力も親指での仮名入力もどちらも出来るから、やはり善し悪しが分かる。
 現在はどこへ行ってもウインドウズでしかもローマ字入力しか無いような情況になっている。これはどうしたって、偏り過ぎである。航空業界ならJALしか無い、鉄道業界ならJRしか無い、銀行なら○○銀行しか無い、政界には自民党しか無い、と言うのと同じである。
 そんな事言っても今更どうにもならないだろうけど。マックの産みの親であるアップルは、どうも端末の事しか考えていないようだし。まあ、世界的にはリナックスと言う手もあるから、真っ暗闇ではないけれど。

昨日、長崎の平和記念式典の中継を見た

2010年08月10日 | 文化
 中継はNHKしかしない。強制的に受信料を徴収し、公共放送だと言うからにはそれで当然ではある。民放はこれまたテレビ放送は公共的である、と言いながら、まるで関心を持たない。特にフジテレビなどは、あのライブドアが参入しようとした時、テレビの放送は公共的なものであって、素人には出来ないと言って、その参入を拒否した経緯がある。そうであるからには、率先して中継をすべきではないのか。
 こうした地味だが重要な式典の中継をしないのなら、何も大言壮語を吐く必要は無い。ライブドアが参入したって、何の差し障りも無い。

 NHKの中継は10時30分から始まった。その前の30分は被爆者を中心とした話である。だが、式典が始まっても、その途中でまたもや被爆者が登場する。式典のアナウンスが何かを語っているのに、まるで別の話をしているから、全く聞き取れないし、画面も中継ではなくなっている。
 これじゃあ中継じゃないじゃないか、と私は無性に腹が立った。多分、大事ではないから、とカットしたのだろうが、冗談じゃない。大事か大事ではないかは視聴者が決める。式典の中継なんだから、きちんと初めから終わりまで忠実に中継すべきではないのか。中継とはそうしたもののはずだ。

 被爆者の話は確かに重要だ。具体的に悲惨な被害を語る事が出来るから、これ以上強力なメッセージは無い。しかしそれは別の番組で出来るし、当然、それはやるべきだ。平和式典の前後にほんのわずか付け加えただけでは足りないのだ。
 だから式典の中継に全力を注ぐべきだと、私は思う。勝手にカットすると言う事は、つまりは重要ではない、との判断だろうから、それは式典に参加している人々を愚弄するものだ。花輪を捧げる時だって、総理大臣だけを映して、あとは知らん顔。衆議院議長が、参議院議長が、と言っているにも拘らず、その姿はまるで見せない。誰が献花をしたって同じようなものだが、そんな事を言ったら式典は成り立たない。
 大相撲なんかはずいぶんと下の方の取り組みからきちんと中継しているではないか。それも大金を支払って。
 NHKは黙っていても大金が入って来るから、それで安心しきって努力を怠っていると思う。スポンサーの顔色を伺って、役にも立たない単に面白おかしいだけの番組を放送しているのよりはずっとましだが、本当はスポンサーである視聴者の顔色を伺わなくてはいけないのである。民放のスポンサーは巨大企業で数は少ない。だからわがままが通る。しかしNHKのスポンサーは一人一人の庶民だから圧倒的に数が多いのにも拘らず、その声は小さく、しかも何も言えない。
 NHKも民放も、ホント、うまい商売をしているよねえ。
 

ローマ字入力のベテランさん、教えて下さい

2010年06月03日 | 文化
 愛用のキーボードが私の使っているマシンでは新しい方で使えなくなって困っている。私のキーボードは直接仮名を入力する親指シフトキーボード。一つのキーに二つの仮名が割り当てられていて、下段にある仮名を入れる時はそのまま素直にそのキーを押す。上段にある仮名を入れる時は、その手の親指を同時に使い、親指でJISキーボードでは変換キーになっているキーを押す。
 だから一つのキーに二つの文字があっても、その二つの文字は全く別の指の動作を必要とするから、その一つのキーは同じであって同じではない。指がすっかりそのように覚えてしまっている。
 それに対して、ローマ字入力ではそうはならないと私は思っている。と言うのは、「は」を入れる時、右手の人差し指でHを押し、左手の小指でAを押す。つまり「は」はあくまでもH+Aなのではないのか。左手の小指は単独なら「あ」だが、Hと組み合わせられる事で「は」の一部になっている。だから左手の小指は常に「あ」とそれ以外の「あ」を母音とする「か・さ・た・な・は・ま・ら・わ」のほか、拗音なども含めて、様々な仮名の一部も担っている。その点で、親指シフトキーの場合の左手の小指とは違う。親指シフトの場合には、左手の小指は単独では「う」であり、親指と同時では「を」になる。つまり、指はとても単純な事しかしていない。そうした違いは脳にとっては大きく違うのではないか、と思っている。

 そうした状況から、私はローマ字入力では、常にローマ字が頭にあるのではないか、と疑っている。「は」と思えば、瞬時に右手の人さし指と次いで左手の小指が動くのだとは思うが、それは明確に仮名の「は」ではなく、あくまでもローマ字のHAなのだろうと思っている。
 ベテランさんの答を聞く前に結論を出すのは早すぎるのだが、我々は常に漢字仮名混じりで日本語を考えている。難しい漢字が多ければ仮名の多い漢字仮名混じりで考える事になる。それはごく自然な事である。そしてローマ字では絶対に考えていないと思う。それに駅名などの表示では、例えば「東京」はTOKYOであって、TOUKYOUではない。原則として、日本語変換はTOKYOでは出来ないはずだ。同じローマ字綴りであっても、このように違いがある。それは「とうきょう」と入力してそのまま「東京」になる仮名入力とは大きな隔たりがあるはずだ。

 親指シフトでの入力では、キーボードを意識する事は絶対に無い。もちろん、それは熟達の程度によるが、私の場合、頭の中にキーボードを思い浮かべようとしても出来ない。でも指は瞬時に思ったそのキーを押している。だから常にホームポジションを守らないと、左右のどちらかに一つずつずれたキーを押してしまう事になる。指には目が無いのだから、仕方がない。
 私がお聞きしたいのは、ローマ字入力に熟達すれば、キーボードを意識する事は無くなるのかどうか、である。言い換えれば、頭の中のキーボードではアルファベットのキーの位置が分からなくなっているかどうか、である。頭では分からないが、指が覚えていると言う状況になれるのか、である。

 ただ、それが可能だとしても、私がローマ字入力に切り替える事は無い。仮名入力と両立する事は難しいだろうと思う。幸いに、マックの親指シフトキーボードは2台あるから、たとえ一つが壊れても大丈夫だ。そしてそれも壊れたら、ウインドウズに乗り換える手もある。
 だから私のために、なのではない。キーボードと言えばすっかり英文タイプライターのキーを踏襲したキーボードしか無い現状を打破したいからである。日本人に変な遠回りをした考え方を押し付ける権利は誰にも無い。日本人の圧倒的大多数は仮名タイプの代わりにパソコンを使っている。それなのに、開発者が技術バカと言うか、英語のコマンドを打ち込む必要のあったパソコン時代からちっとも進歩していないから、こうした現状に甘んじなくてはならない。
 英語のタイプライターのキーの配置はどうやって生まれたかご存じだろうか。あれはわざわざ打ちにくい配列にしてあるのだそうだ。昔のタイプライターは長い棒の先に活字が付いている方式で、早く打つとその棒がからまってしまう。それを防ぐために、わざと早くは打てない配列にしたのだと言う。
 これは英語の事情だから、日本語をローマ字にして打つ場合には事情が異なるが、「あさ」などが打ちにくいのは誰も同じだろう。日本語の事を全く考えずにここまでやって来てしまった。あまりにも経験として長いから、今さらどうにもならないのだろうが、だからと言って、これではあまりにも不毛だと私は思う。