千艸の小部屋

四季折々の自然、生活の思いを、時には詩や創作を織り交ぜながら綴りたい。

寄稿文

2021年03月14日 | 日記
 昨日の朝日新聞。
 川上弘美さんの寄稿文が載っていた。
 最近、読書も薄らいでしまったが、好きなタイプの作家だ。
 独特な雰囲気を持ち、可愛らしさがにじんでいる。4月1日で63歳とは思えない。

 東日本大震災から10年、「生きている申し訳なさ」と、タイトルにあった。


 27年前、「神様」という短編を1時間ほどで書きあげた。高校の生物の教師として4年間勤め、結婚後専業主婦になった。子供のことで悩んでいた頃だという。
 その「神様」を、東日本大震災の1週間後に書き直したものが「神様2011」のようだ。

 (私は「神様」も、「神様2011」も読んでいない)


 「2011」の世界は、放射性物質が空気の中に飛び散り、人々は防護服をまとい、日々除染がおこなわれているのだ。狭い国土にこれだけ多くの原発が建設されている限り、今後も事故が起こる可能性はいくらでもあると思ったからだった。福島原発の事故は、福島だけのものではなく、わたしたちすべてにふりかかる可能性のあるできごとなのである、と。(中略)

 当時の政府は「最悪のシナリオ」を想定していた。当時の自分の感情は、今もありありと覚えている。建屋の水素爆発の映像をテレビで見ながら、「東京もきっと駄目だろう・・・」と、漠然と思っていた。それならば自分はいったい、どうするのだろう。

 日常は、ある日突然、取り返しようもなく変化してしまうものだなあ、というのが、当時一番強く感じたことだった。あれから10年、東京に住まうわたしは、結局避難をおこなうこともなく、地震の被害もほとんど受けず、震災の数ヶ月後には「変化した日常」ではなく、「元と同じ日常」を送るようになる。

 震災のことを思うたび、申し訳ない、と思う。けれど、いったい誰に対して?
 もちろん、すべてに対してだ。
 震災と原発事故で傷を負った方々に何もできない自分に対して、同時に、自分が何の役にも立たないと嘆く自己憐憫ともいえる気分に対して、どこまでいっても、自分は当事者の方々の傷を真に理解できないことに対して、そして傍観者として今ここで生きていることに対して。(後略)



 いつ頃購入したのか不明だが、途中までしか読んでいなかった。
 昨今は書店にも出かけていない。

 川上弘美さんも言及していたが、コロナ禍で、すこしずれた日常にいる。それは必ずしも不幸なことではない。

 チューリップの芽が、ところどころに出ている。



  雨で寒いが、花咲く春の訪れを、わくわくしながら待っている(^o^)☆。


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