千艸の小部屋

四季折々の自然、生活の思いを、時には詩や創作を織り交ぜながら綴りたい。

空と海と人と

2022年01月30日 | 日記



戦後の復興から高度成長期へ。激動の昭和を生きる越後と佐渡の人びとを活写。

ふるさとの空を愛し、海を愛し、人を愛した・・・・・・。
写真家・中俣正義の熱いモノクロームの世界が いま よみがえる!
        発行日 1995年5月19日
        著者 中俣正義 1918~1985

         (没後10年目の写真集「空と海と人と」より)

中俣正義 母の妹の夫。私には叔父にあたる。
写真家として情熱的に生き、病に倒れ入退院を繰り返して、67歳で天に召された。
1985年11月、快晴の午後、車椅子で病院の屋上に出た叔父は、青い空と海の間にくっきりと浮かぶ佐渡をまじろぎもせず、じっと見つめていたそうだ。胸の内を去来した思いは何であったのか・・・やがて病室に戻っても終始無言、あのような寂しい顔を見たのは後にも先にもなかった。それから何日も経ずして重体に陥り、そのまま帰らぬ人となったそうだ。1985年(昭和60年)12月10日死去。

☆ある写真家の回想
「中俣さんは民族写真家ではあるが、一方では山岳写真家でもあった。
朝日連峰をはじめ、飯豊山、駒ヶ岳、八海山、谷川の山なみの四季を撮られている。ことに冬山が多い。
山岳写真は新潟県庁観光課に在籍しておられた頃、昭和三十年から四十年にかけての重要なテーマであった。
スチールカメラだけでなく、はるかに重い映画の機材を三十キロも背負って山を登り、谷を渡り、冬はスキーをはいて滑りまわっていた。まさに超人であった。」(前、後略)「空と海と人と」より。

☆もう一人の方の回想
「中俣さんは天分の優れた写真技能に併せて天性の人なつっこさで、誰からも慕われ親しまれた。長い間のつきあいであったが、他人を怒ったり、悪し様にいうことは一度もなく、常に心の平らな明るい性格であった。こんなことがあった。
昭和二十七年三月、湯沢町の高橋半左衛門らも参加して谷川連峰の南端平標山へスキー映画を撮影に行ったときのこと、現地に到着して小屋を雪から掘り出した後に下って行った人夫たちに、わずかの米と味噌を残して缶詰から大根のはてまであげてしまった。私たち一行は怒り心頭に発したが、一人中俣さんだけは相変わらずにこにこして「焼き味噌を作ろうや」と提案した。彼の故郷南魚沼地方の郷土食「ケンサ焼き」からの発想であろう。すき間から吹き込んだ雪を溶かして粥を作り、これに焼き味噌をとかして飢えを忍んだのであった。
さまざまなエピソードを残して作られたスキー映画を毎年三本持って東京・関東一円、中京、京阪神の都市二十数カ所で「新潟県スキーの夕」と銘打った映画会を催して回った。
当時はまだ16ミリフィルムにトーキーが普及せず、音声はテープレコーダーを併用しなければならなかった。その音合わせが一苦労であったが、特に静岡県に入ると電流のサイクルが変わるので、さすがの中俣さんも汗だくになったものであった。苦労の連続の映画会ではあったが、彼の優れた作品と人柄に救われることが多かった。
新潟県が他県に先駆けてこうした観光宣伝ができたのも、中俣さんがおられたからこそといえる。中俣さんの昇天は県内の写真界・観光界に大きな損失であった、といまさらに惜しまれてならない。(前、後略)(「越後の山々」より)

昭和51年新潟県庁観光課を退職するまでの東京での映画会に、叔母から連絡を受けた私たち姉妹も出かけている。

叔父は小柄だが、肩先まで伸ばした髪がいかにも芸術家。いつもニコニコと温厚だった。親しく話しを交わしてから、被写体となる人物を撮ったと聞けば、なるほどと頷ける。
若い時から写真一筋。アメリカの写真コンテストでも入選。その名は全国の写真家に知られていたらしい。山岳雑誌、写真雑誌のグラビアでも見かけたことがある。

叔父には、2人の子供がいる。長男は、癌センターを経て、新大大学病院の医師。下の娘は、映画評論から、翻訳家になっている。叔父は夏休みになると、大源太に親子キャンプに出かけていた。

前述の高橋半左衛門氏は、我が父とは若い頃からの文学仲間。半左衛門氏は老舗旅館高半ホテル(川端康成の「雪国」の舞台となった宿)の跡取り息子。
そして、父は貧農の三男坊。城内村役場から、合併により六日町役場に転任したが、生活は貧しかった。

カンゾウ



散歩途中に咲いていた。

梅雨明けしたらしいが、新潟はまだ入っていない。急に暑くなった。そして今は雨。窓辺から冷たい夜風が入ってくる。

山口の義母は心肺停止までして蘇った。酸素吸入器をはずした義母の表情に安堵して、夫はひとまず新潟に帰って来た。

湯沢町神立保育園 お遊戯会



母も、傍らのベッドで安らかな寝息を立てている。

                   (過去日記 2009・7・16)

山口の母もあの世に旅立ち、母も逝った。



今日も雪。
寒い1日だった。

私はまだ静養中です。
オミクロン株が広がっています。マスク、手洗い、消毒液で気をつけていますが・・・

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