霧島家日誌

もう何が何だかわからないよろず日誌だ。

私の目指す小説

2009年11月04日 16時27分27秒 | 日記
ごきげんよう諸君、いかがお過ごしかな。後期が始まってからそろそろ三ヶ月になる訳だが、ようやく調子が出てきた。大学も開店休業(私が)だったのがちゃんと行くようになったし、小説書きもようやく調子が出てきた。果てしなくスロースターターだが、まぁなんとか生きていけそうである。

しかしまぁ私の小説書き環境の最大の欠点は、同じ趣味の人間の著しい欠如である。もしくは余程暇な友人。私と同じく小説が好きな奴、もしくは私の小説を読んでくれて感想をくれる程度に暇かつ仲のいい奴、どちらも殆どいない

高校時代は文芸部にいたし国語科の教員とも仲が良かった訳だが、もう大学も終わりそうだし、と言うか私は一回留年してる訳で、暇な奴を探すのがなかなか難しい。私と同じく留年してる奴は暇のある大学生ではあるんだろうが、彼らは彼らで色々危ないからな。相談相手がいないことほどきついのはなかなかない。

最近の小説大賞はブログに載せてた奴でも投稿OKというのが多いものの、ここは色々とアレだしな。基本的に身元が割れたら終わりブログである。故に、なかなか悩ましいのが現状なのだ。

まぁ、その悩ましい現状をもネタにする事こそ霧島家の真髄である。

しかし相談相手がいなくたって一回全部書いてみりゃいいじゃねーかと思う向きもあろう。実のところ、一年だか二年前に書いたのである。今はそれのセルフリメイクをやっておるのだが、当時は暇な友人も多かったし読んで貰えた。まぁ一次選考で落ちたんだが、まぁ矛盾する設定も多かったし物書きの一番怖いものは締め切りというのを痛感せざるを得ない部分がいくつかあったから、それでちゃんと書き直そうというところである。

んで、仲間内だけじゃなく、色々な人に渡してみた。

結果。

全員十頁いかず挫折。

つうか一頁で挫折多数。



どうすんのこれ。

という訳で書き出しに戻ってくる訳である。確かに魅力に欠ける序章ではあったかもしれんが、そこまで滅茶苦茶酷いものではないと思うのだ。受賞作品見ても、最初の十頁ぐらい全部世界観の説明とかある訳だ。

一応、もう大体の構想は出来上がっておる。後は書くだけな部分が多い。しかしもう冒頭部をどうするかで頭が痛くて頭が痛くて○□=←こんな感じである。基本的に年齢層が全く違う人に渡したからのせいかもしれんが、それにしたってこれは不味いであろう。一種の死んじゃうツモである。誰か見つけないとな。

と、暗に募集してる訳だが、こういう記事に絶対にレスはつかんからどうでもいい。


しかし、近頃あんまり小説を読んでおらん、と言うか全く読んでおらんから、どういう種類の小説が求められてるのかよく判らんというのは痛いところではあるかもな…大体が、私は多読する方ではないのである。同じ本を何度も何度も読むタイプなのだ。

私がゲームオタなのもこの辺に理由の一つがある。やったとも。それはもう繰り返し繰り返しやったとも。千時間以上やってる三國無双2はもとより、デビルメイクライ3なぞイベントシーンになると無意識にシャドウイングしてるし、ここんところお熱なACfAはぱっと見ただけで全てのパーツ名が言えるという変態ぶりだ。

私は、中学生時代はバイオハザード勢だった訳だが、あのシリーズの攻略本はやったら面白いというのは以前話したな。お陰で、寝る前に攻略本を読む癖がつき、完全な脳内地図が作成された。最近はそこまでではないが(と言うかメガストアとか読んでる)、それでもご飯を食べながらAC部品の各能力値一覧とにらめっことかよくある話だ。

これは、勿論攻略本以外の本もそうである。ハードカバーですらそうだ。近現代ヨーロッパの思想すら三週しておる。ドイツ人傭兵の文化史も二週、Truth in Fantasyシリーズや光人社NFシリーズの本はもう何冊を何回読み直したのか覚えてない。三桁はいってないと思うが。

で、こうして今打ち込みながら考えたのだが、私は正統派の小説とは完全に無縁であるようである。ああいや、勿論、完全に読んでない訳じゃないぞ。罪と罰とか戦争と平和とか、芥川の短編集とか。最後のはつまらなかったがな。芋粥でブッて吹いたのは覚えてる。ああいや、私がここで正統派って言ってるのは純文学に限らん。フルメタル・パニックをよく読んだ時期もあったしな。要は小説らしい小説だ。

しかし、こういった正統派と私の小説思想は全く相容れないらしい。いや、だからと言って正統派小説が嫌いって事じゃないぞ? 私の小説思想が、まぁいい言い方で表せば独創的過ぎるのである。

前にも話したかもしれんが、私は常々思っておる。小説はエロゲには絶対勝てんとな。何故なら、小説もエロゲ(まぁと言うかビジュアルノベルって奴か)も文章が主力だが、小説には文章しかない。その点エロゲは文章を主力としながら絵、音楽、効果音、声、背景を備えており、5.1ch状態であり、小説はスネーク…君はひょっとしてモノラルなのか!?みたいな状態なのである。

小説が唯一エロゲに勝る点は、キャラの顔とか場面とかそういうのを頭の中で妄想できるという点だけであり、じゃあどうやって妄想させるのかという話になったりもする訳である。まぁ、極端な話、エロゲが意図的に一部要素を抜けばいいという話にもなってしまうのだ。

映画、アニメ、漫画は、小説よりも優れたものであると私は思っておる。映画とかがmp3で、小説はmidiみたいな考え方だ。しかし、これらは小説にない多数の要素を備えているものの、小説の主力たる文章を持たない。だから致命的ではない。その点エロゲはバルト三国に攻め入るソ連レベルの致命的存在なのである。

んじゃ私が何で小説をいまだに書こうと頑張っているかと言えば、逆をやりたいからである。例えば映画は戯曲とか演劇を素材にして発展した訳で、基本的な出発点は小説にある。つまり小説を土台にして映像に発展させたのだ。私はその逆、即ち、映像を文書化したいのである。映像はエロゲなり漫画なりに変わってもいい。まぁ、つまるところノベライズの世界だな。原作なしの。

つうか、まぁ要はキャラクター小説だろと言われるとあんまり返す言葉がない。ただ、なんだかんだ言ってキャラ小説も妄想とか脳内補完を前提にしている。私は、脳内補完する必要のない小説を書きたいと常々思っている訳だ。「読むだけでありありと情景が頭に浮かぶ」という、小説に出てくるけどそういう小説は存在しない的なそういうのをやりたい訳だ。

ショタコンの前にCAGEのエロゲを置けば、種籾を目の前にした北斗のモヒカン達にように飛びつく。これを文章でやりたいのだな。

んでこの構想は、ライトノベルとかよりもゲームシナリオとかに近いのである。特に、ロードスとかウィザードリィとかTRPGから古典RPGの過渡期を作り上げた世代などは、空想を映像化しなければならない割にゲームハードがファミコンとかだったのだ。TRPGだと口で説明だしな。だから、一言で怪物の姿を表現しなければならなかったりして、そこのところの研究が非常に緻密に行われている。

まぁ、だから、私が目標とする小説家はベニー松山なのである。大学に八年いたナイスガイであり、PSバスタードとかウィザードリィに関わっている。今はエンターブレインの社長だったかな。小説はあくまで副業な為、新作『黒い虹』は本業が忙しいせいで完全に止まっておる。新しいの出ないかなぁ…


ま、そんな訳で、私にとって小説を読むというのは娯楽でありそれ以上にならない行為なのである。

まぁ日誌更新は、なんだかんだ言って文章力の低下を抑える為でもあったりするし、他もそういうのないではないんだが……(´・ω・)



まぁ、学校行こう


話はそれからだ。





あと、読んでくれる人はなんだかんだいってガチで募集中だ。にょろしく。


6 コメント

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Unknown (ごてぃ)
2009-11-04 20:01:08
自分も一応文学研究と物書きの隙を生じぬ二段重ねを実現しようとしてる口なので、むしろ人の書いた小説をいろいろ読んでみたいと思ってる口です。結構興味あったりしますよ。

>映画は戯曲とか演劇を素材にして発展した訳で、基本的な出発点は小説にある。つまり小説を土台にして映像に発展させた。

最近ではジョナサン・クレーリーという視覚論者がここら辺を完全否定してますよ。
むしろ近代を成立させている前提となっているのが視覚の肥大化という思想で、「視覚を映像化した小説」ってのが今の文学におけるリアリズムの根本だったと。
んでそれ自体は目新しい論ではなく、メルロ・ポンティやフーコー辺りから何十年も指摘され続けたことだとか。彼はそれを映画やステレオスコープなどのサンプルを駆使して実証してみせたと。
あとしいて言うなら、似非エロゲヲタのあずまんとか。

自分もこの意見には賛成で、むしろドラマのような小説が度々ベストセラーになったり賞獲ったりしている現状を見れば、視覚に訴える、映像化に繋がりやすい小説という方向性は、地位はともかく数だけならむしろ今の多数派と言えると考えます。
そもそもラノベの始まりは「まんがのような小説」という言葉から始まったようなもんですし。

さらに言うなら、それとは真逆、文章でしか表現できないことを求めるのをよしとする人たちが大半の文学研究家とその一味だったりするわけですが。
実際文章でしか表現できないこと(視覚化できない類の思想など)を尊いとし、表現した文学が存在するのもまた事実です。
まぁメディアの多角化と平等化がさらに進む現状を鑑みるに、それ一辺倒なのもどうかと思いますが。
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Unknown (霧島)
2009-11-04 20:33:00
おっおっおっ。それは期待していいのかな。

>最近ではジョナサン・クレーリーという視覚論者がここら辺を完全否定してますよ。

それは面白い。ミシェール・フーコーはちょっとだけ読んだがそんなことまで言ってたのか。内在する知による強力な拘束か、それを発展させれば確かにそういう思想にも発展しうるな…

あ~、そうか。

なんだかんだと言って私の中での正統派小説の解釈ってのは、結局のところ純文学連中のことだったか。推理小説とか確かに小説扱いしてなかったな…言われてみれば確かにそうだ。

だからキャラクター小説だろって言われたらあんまり返す言葉がなかったんだな。納得だ。自分で自分の考え方を理解してなかったな。ありがとう。



しかしいっつも思いますが、文章でしか表現できないってのもおかしい話ですよね。哲学でも何でもいいけど、自分の脳内で考えたことを現実世界に出力する為の圧縮言語が、文章だったり講義だったり動画だったりする訳で。

それらの中で一番わかりやすいものを、話題ごとに手を変え品を変えればいい訳で。ルソーが教育思想を語る為にエミールて小説(怪しいが)書いたのは時代的な制約で仕方ない話ですが、現代でわざわざ劣ったものにこだわるのはどうなんだろうと。

まぁ私が3Dのネトゲをやらないように、3Dモデルが発達した現在でも魅力的なドット絵のゲームが存在するのは事実。しかしそれはそのドット絵が秀逸だからこそ存在しうる訳で…小説でしか余韻とかが残らないってんなら、それを残しうる品質を保証してほしいもんです。

最近はちゃんと読んでないから保証されてるのが出てるのかもですが。取り敢えず明治の文豪はようわかりません(´・ω・)特に太宰治
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Unknown (霧島)
2009-11-04 22:28:46
時間経ってから改めて書き込みを読み直したが、どうも私の中でまだ混乱があるみたいだな…割と支離滅裂になっとる。
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Unknown (ごてぃ)
2009-11-05 00:28:00
フーコー云々は、主に歴史学/系譜学を参考にしてるみたいです。微妙に買いづらいみたいですけど。
近年クレーリーの論を下敷きにして、近代文学以前の視覚芸術をいろいろ検証する作業が日本でも進んでいるようで。芸術に限らず、例えば地図と「神の視点」の関係とか。

まぁ自分も、小説以外の手段で表現できるなら自由に選択してやればいいと思うのです。

ただ、エクリチュール(叙述行為)とは何かという話になると根本的なこととはいえ長くなるのでやめときますが、「いかに語るか、伝えるか」の面で簡単な例を挙げると、ミステリにおける叙述トリックとか構成の妙とか、音とか視覚が却って邪魔になったりとかしますし。
あと、文章のつづり方のみてくれや文体が例えば書簡体を髣髴とさせるとか、羅列された文字という視覚的効果なんかもありなんじゃないかなと思います。
他にもいろいろ考えれば出てきそうです。
それにやっぱり、画とかそういうのをつけるとどうしても表現されるものが確定して限定されてしまう。ご想像にお任せしますというのも文章の醍醐味ですね。
究極的にいうと、「語れない」ということを自覚することで語り得るものもあると思うのです。

太宰なんかは自分も最近もう一回読み直そうかと思ってるのです。あれだけ人間と呼ばれる概念に振り回されて死んだ人はいないと思いますので。
好き嫌いはともかくとして、彼のそういう在り方から気付かされることは多いと思います。
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Unknown (黒楓ちゃん in RO)
2009-11-05 18:04:59
私も霧島氏の小説に興味があります。
頭には入りませんが読む早さにだけは自信があります。)キリッ

もしよければ、私にも見せてくださいませんか?適切な評価、という点ではあまり参考にはならないかと思いますけども。
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ロンんんん (sisiiouso)
2009-11-06 03:12:53
正直言って2、3項目前の記事とか難しくて頭に入らなくてスルーしていたような男がその小説に興味が沸いているわけですが、さしつかえなければ購読させてください

今回の記事はスラスラ読めたよ。一つだけ、物の喩えがいちいち難しい とだけ
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